第四十ニ話、風のことばと呼ばれるもの(後編)
アラウィンの中心に位置する旧王宮の塔、その最上階の円形の広間。高い天井を支える白金色の柱が静かに光を宿し、床に描かれた幾何学の魔法陣が風のように淡く脈打っていた。奏たちは、塔の守護者である記録官と向き合っていた。
記録官は、白銀の衣の袖を払うように動かし、静かに言った。
「ここに記されしは、かつて風が語り、人が応えた記録――。風のことば、それは、単なる言語ではない。世界そのものと、響き合い、交わす“在り方”なのだよ」
奏の胸に、微かなざわめきが走った。そのことばは、ずっと以前に風から聞いたような気がする。それは夢だったのか、記憶だったのか……。
記録官の声が続く。
「“風のことば”は、過去と未来、命と理をつなぐ“響き”でもある。そしてそれは、名を持つ者にこそ深く結びつく」
彼の目が、奏、リアガン、リウ、そしてシフへと順に向けられた。
「そなたたちの名には、それぞれの由縁と力がある。今、それらがこの塔に呼ばれ、ここに集ったこと。それこそが意味なのだ」
リアガンが、腕を組んだまま一歩前に出る。
「意味、ね。……だが、俺たちの名は、誰かの意志で縛られるものではない」
「それを拒むのならば、契約もまた破られる」
記録官のことばに、広間の空気がきしんだ。
シフが、やや緊張した面持ちで口を開く。
「……奏の名は、風に選ばれし名。強く、美しく、けれど脆さも併せ持つ。彼の名がここで試されるのならば、それは風の理そのものを問うことになるでしょう」
リウが、ふっと微笑みを浮かべた。
「ならば――僕たち全員が、自分の名にふさわしく在れるかどうか、試される番だね」
奏は、思わずぎゅっと拳を握った。確かに自分は、名前を受け取り、生きてきた。ただ与えられたのではなく、自らの旅と出会いの中で、その意味を問い続けてきた。
――風が運んできた名。その重さと温かさを、今ならきっと。
記録官が、静かにうなずく。
「では、始めよう。“名”が交わされる本質の儀――風のことばによる問いかけを」
白金の柱が、より鮮烈に輝きはじめた。足元の魔法陣に風が集い、螺旋を描く。風の精霊たちの声が、空間全体に混ざり合い、ひとつの問いを編み出す。
『おまえの名に宿るものは、何か?』
問われたのは、奏だけではなかった。リアガンも、リウも、シフも、それぞれにその名を問われる。
世界の核心に触れる対話が、今ここに始まる。
風が、声にならぬ声で響いた。
それは誰のものでもなく、あらゆるものの声だった。名づけられた瞬間の震え、呼びかけられるたびに重なる響き。受け継がれ、離れ、また呼び戻される記憶。
『――おまえの名に宿るものは、何か?』
その問いは、まっすぐに奏へと届いた。名を呼ばれるのではなく、名の奥底にある何かが、風と交わされる。
奏は静かに目を閉じた。風が頬を撫でる。胸の奥から、言葉にならない感情がせり上がってくる。
(わたしの名は、“奏”。風とともにある名。風の音を聴き、風の動きを読む者)
脳裏に、これまでに出会ってきた風の記憶が浮かぶ。村を出た日、精霊に導かれた夢の夜、魔法学舎での葛藤と仲間たち。風の塔からの招き。流浪人の謎めいた笑み。そして――
師の、あの瞳。
(風は、わたしに問い続けていた。“おまえは、どう在りたいのか”と)
気づけば、口が自然に動いていた。
「わたしの名には、問いが宿っている。未完成で、まだ形にならない――けれど、風を通して世界を感じ、他者と響き合う力がある」
その言葉が空間に満ち、風が静かに波打つように広がった。風が、頷いたような気がした。
続いて、リアガンが前に出た。彼の目には、普段の飄々とした色はなかった。
「俺の名は“リアガン”……かつてどこかで与えられ、どこかで捨てた名だ。けれど、まだ切り離せずにいる」
彼は少し口元を歪めた。
「誰かに与えられた意味じゃなく、自分が選んだ価値でありたいと思ってる。気に入らなければ笑い飛ばしてきたけど……そろそろ、向き合わねぇといけねぇのかもな」
風が、その言葉に呼応して、低く渦を巻いた。まるでそれを肯定するように。
続いて、リウが静かに口を開いた。
「僕の名は“リウ”。継がれるべき家の名でもある。誇りと、束縛。そのどちらも、僕の中にある。でも……」
彼は優しく微笑んだ。
「この名があったから、誰かとつながれた。君とも。だから僕は、名を受け入れる。過去も、矛盾も、全部抱えて」
風がふわりと彼の肩を撫で、光がそっとその足元を照らす。
最後に、シフがひとつ深く息を吐いてから前へ出る。
「“シフ”……それは、書き記す者としての名。だが、私は記すだけではなく、見届けることを選んだ」
彼女は奏に一瞬だけ視線を向けた。
「私は、自分の名を使って世界に問いを投げる。風が運ぶ声を拾い、未来へつなぐために。この名が、ただの記録官ではなく“生きた証”になるように」
風が静かに唄うように揺れた。全員の言葉を聞き終え、塔全体が深い呼吸をしたかのようだった。
そして、記録官が口を開いた。
「よい。“名”とは、語るものではなく、生きるもの。それを知る者たちよ、ここに“風のことば”の継承が始まる」
足元の魔法陣が淡く光り、風が一斉に天井へ舞い上がった。空中に光の文様が浮かび、流れるような古の言語が響く。
その一つひとつが、風との深い契約であり、名に刻まれる力だった。
そして奏の中に、確かにひとつのことばが根を下ろした。
――「ことばとは、在り方だ。名とは、それを生きる道だ」
その瞬間、奏の風の魔法が、静かに、しかし確かに変質を始めていた。
――風は、言葉を持っている。
奏はそれを、幼いころから感じていた。けれど、言葉とは人が交わすものだと思っていた。音、意味、記号としてのもの。
だが今、自らの奥底に根を張る風が、たしかな“意志”を持って囁いてくる。
それは、世界の縫い目のような――目に見えない法則のすき間に吹き込む、真実の語り部だった。
「……君は、何者なの?」
奏は風のことばに問いかけるように、そっと心の中でつぶやいた。
返ってきたのは、ことばではなく、ひとつの情景だった。
風が大地を駆け、雲を運び、海に触れて泡を立てる。
火山の息吹にたじろぎ、草原の上でそっと踊る。
生まれながらにして名を持たぬ、けれど万象に語りかける、流れそのもの――
「……名はないの?」
否、と吹いた風は、ほんのかすかに奏の頬を撫でた。
そして、ふと誰かの声が重なる。
『名とは、他者と交わすための道標だ。だが風は、もともと一つでありながら、どこにでも在るもの。あえて名を持つ必要がない――とも言えるな』
リアガンの声だった。
あの夜、篝火を囲みながら、彼はそう言ったのだ。
(……だけど、私は……)
奏は胸に手を当てる。風との繋がりは、確かにある。けれど、その風が誰で、なぜ自分を選んだのか――まだ、答えは見えない。
「私は……きっと、風のことばを“訳す”存在なんだと思う」
その瞬間、風がふわりと舞い上がり、奏の髪を梳いた。
そのやさしい触れかたは、まるで――肯定のようだった。
「……なあ、奏」
シフが声をかけてきたのは、夜の集会のあと、アラウィンの高台に登ったときだった。月の光が淡く白い霧を照らし、街の灯りが足元に瞬いている。
「ん?」
「お前さ、あの風と話してる時、なんか――顔つき変わるな。ちょっと怖ぇくらいだ」
そう言って笑うシフの口調は軽いが、目は真剣だった。
「……怖かった?」
「いや、逆。なんかすげえ、って思った。たぶん、あの風、俺らの知らねぇもん、見えてる。お前も一緒に」
奏は言葉を探したが、しばらく口を閉ざしてから、ぽつりと言った。
「風は、名も持たずに語ってくる。でも……私は、その言葉に名前をつけたくなるの。そうしないと、どうしても伝えきれない気がするんだ」
シフは黙って、それを聞いていた。
「それが、私の使命かも。――風と、世界をつなぐこと」
「そっか……じゃあ、お前が“名付ける”ってことなんだな。風のことばを、人に伝えるために」
ふいに背後からリアガンの声がした。
「君の言葉は、魔法になる。そして魔法は、世界を揺らす。……奏、君が名付けた“ことば”の意味は、きっと君自身の存在に重なるんだ」
風に名はない。けれど、奏が語ることで、それは“ことば”になり、“魔法”になる。
そうして初めて、この世界で他者と交われる。
――風のことばと呼ばれるもの。
それは、世界がまだ名付けられていなかった頃の、記憶の残響なのかもしれない。




