第四十一話、風のことばと呼ばれるもの(中編)
風の音が、静かに耳に届いていた。
アラウィンの地下に広がる円形の空間──その中心に立つ奏のまわりには、淡く光る文字が幾重にも浮かび上がっていた。風の流れがそれらを繋ぎ、編み、言葉にしていく。
それは、人の言葉ではなかった。けれど、確かに「意味」があった。
風は、言葉を持っている。人の舌では正しく発することのできないその音は、世界の理を象る「ことば」だった。
「……わたしは、ここにいるよ」
奏はそっと目を閉じ、自らの胸に風のことばを受け止める。風たちは彼のまわりを巡りながら、その言葉に応えるように共鳴した。
記録官のローブが揺れる。
「君は、感じ取ったのか……風そのものの言語を。名を越えて、存在の核を交わす言語を……」
「それが、『風のことば』……?」
記録官は頷く。「風と歩む者だけが、辿りつける場所だ。そして、その先にある“使命”をも、知ることになる」
その言葉に、リアガンが一歩前に出る。
「ならば、問わせてくれ。風は、我々に何を託そうとしている? この地に残された『ことば』の真意とは、何だ?」
記録官はしばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「かつて、名による契約が力を持ちすぎた時代があった。真なる名は呪となり、人を縛り、精霊すら従わせた。風のことばは、その歪みを正すため、古の魔法使いたちが遺した“調律の言語”だったのだ」
精霊たちがざわめく。
そして一人、シフが声を上げた。「……それは、風そのものに返すことば。人が使うためではないのか?」
記録官は答える。「そうだ。これは“借りもの”であり、“赦し”でもある。君たちがそれをどう扱うかによって、また世界は変わる」
沈黙のあと、奏は深く息を吸い、そっと手を伸ばした。
風の粒子が、彼の手のひらに集まり、光となって瞬く。そこにあったのは、どこか懐かしい響き──幼き日の夢の中で聞いた声に、よく似ていた。
「ぼくは、ただ……風と生きていたいんだ。人を縛るためでも、奪うためでもなくて。ただ、風と、誰かと、同じ時間を生きていきたい」
その言葉に、風たちが静かに頷いたようだった。
「ならば、奏。お前に最後の問いを贈ろう」
記録官の声が、空間全体に広がる。
「――その“名”に、何を託す?」
奏は少しだけ迷い、けれど、はっきりと答えた。
「ぼくは、ぼくの“名”に、風を託す。誰かを縛るためじゃなく、誰かと繋がるために。この名を、誰かが呼んでくれるように、歩いていく」
風が、彼の言葉を受け止めた。
その瞬間、円環の中央にあった封印が解かれ、地下空間の最奥が、音もなく開かれる。
そこには、古の風使いが残した記録が眠っていた。
“風と歩む者へ──このことばを、届けてほしい”
新たな旅が、また始まろうとしていた。
塔の最上階に近い吹き抜けの広間は、外の風と直接つながるように開かれていた。天井に近い梁の間から、幾筋もの風が静かに舞い込み、壁に刻まれた螺旋の文様をなぞるように流れていく。風の声が囁くたび、文様は淡く光り、まるで誰かの記憶を読み上げているかのようだった。
奏は、風の中に立っていた。
身体は確かにここにあるのに、心はどこか遠く、風そのものと混ざり合っているような不思議な感覚。あの夜、風の民の子と語り合った夢を思い出す。
「きみは……ほんとうに、あの時の……」
呟いた言葉に、風がそっと返事をくれる。声ではない。だが、間違いようもなくそこにいる。
《ここは、おまえの名が目覚める場所》
ひときわ強い風が、奏の胸元のペンダントを揺らした。風とともに振動したその魔石は、音もなく浮かび上がり、淡い光を放つ。
塔の中央、広間の床に描かれた円環の紋章が共鳴するように、ひとつ、ふたつと内側から浮かび上がり、奏の周囲に幾重にも光の環を作った。
その中央に、風の形をした何かが現れる。
それは人でもなく、動物でもなく、ただ「風の意思」の化身のような存在だった。あの日、夢の中で会った風の民の子と似ていたが、より大きく、より古く、より透明だった。
《風に選ばれし子よ。風のことばに触れ、風の名を刻め》
「風の……名……?」
《名とは、おまえの在り方。言葉は、その橋渡し》
風がささやくように語る。
風の塔――この場は、「風に選ばれし者」が、風と本当の意味で言葉を交わすための場。これまで、奏が感じてきた風はほんの入り口にすぎなかった。
風と契りを結ぶとは、風と“言葉を共有する”ということだった。
「でも……そんなことが、本当にできるの?」
奏の声が震える。自分はまだ未熟で、名を刻むなんて恐れ多い。
《風は、おまえが語るのを待っている。世界の理を、名を、言葉を、つむげ。おまえ自身の音で》
風が奏を包む。その胸に、無数の風の声が渦を巻いた。
過去、現在、未来。言葉にならない感情、断片、思い。それらが一つにつながり、形になっていく。
そして――。
「……私は、奏」
奏の唇から、ゆっくりと、自分自身の言葉が紡がれた。
「風の名を、受け継ぐ者。誰かのために、風を届ける者。知らぬ世界に触れ、知られざる声を聞く者。私は……」
一陣の風が、彼女の髪を高く持ち上げ、塔中を駆け抜けた。
塔の文様がすべての光を放ち、天井の開口部から空へと駆けのぼっていく。
――その時、遠く離れた場所にいたリアガンも、同じ風の高鳴りを感じていた。
「……始まったな」
彼はそっと目を閉じ、胸元に隠した古い契約の印に触れる。
風は、ただ一人に与えられるものではない。
だが、風と共に在る者には、必ず“使命”がある。
風が静かに囁いていた。言葉にもならない音の連なりが、奏の心をひとつひとつ叩くように響いてくる。
夜の森、アラウィンの外れに広がる月草の野原。淡い光を宿す花々が風に揺れ、その間を縫うように、小さな精霊たちが戯れていた。リウとシフ、そしてリアガンの姿も、奏のすぐ傍らにあった。
「風のことばとは、言葉ではない」と、シフがぽつりと呟いた。
彼の金の瞳は月草の波の彼方を見つめていた。
「意味が先にあるんじゃない。感情や祈り、願いが、風に溶けて響きあって……やがて誰かに届く。それが"ことば"になる」
リウが頷き、軽く指を振る。すると、宙に淡い光が灯った。
「これは、私の名を示す記憶のかけら」
光の粒が集まり、風に乗って形を変える。花のつぼみのような形になり、やがてそっと開いた。
「私たちの名は、記録でも、命令でもない。ただの符号でもない。けれど、忘れ去ることも、縛られることもある。――だから、奏。君は、自分の名をどんなふうに使う?」
静かに問うリウの声が、風に溶けた。
奏はしばし目を閉じた。風を感じる。心の奥底に息づいていた問い――なぜ自分は、風の魔法を選んだのか。なぜ旅に出たのか。名を、言葉を、探していたのは、誰のためだったのか。
「……名前って、本当は、心を渡すことなのかもしれない」
そう言った奏の声は、わずかに震えていた。
リアガンが、その横顔を見つめる。彼の顔からは、いつもの冗談めいた仮面がすっと剥がれていた。
「そうかもしれないな。俺が名を明かせないのは、誓いでもあるし、罰でもある。けれど――」
風が、リアガンのマントをはらりと舞わせた。
「名を預けるに足る人間がいるなら、俺はそれを、もう一度思い出してもいい気がしてる」
シフがリアガンを見て笑った。あの無愛想で、鋭さを隠さない笑いだったが、不思議と柔らかさもあった。
「そうやって、また世界は少しずつ回るんだ。奏、おまえの旅は、始まったばかりだな」
「――はい」
風が、頷くように野原を撫でていった。
そのとき、遠く空に小さな光が走った。風の塔からの、新たな信号。
招待の真意が、ようやく明かされるときが近い。
そして、奏たちはそれぞれ、自分の「名」と「ことば」と向き合う旅の続きを、再び歩き出すのだった。




