第四十話、風のことばと呼ばれるもの(前編)
アラウィンの塔を包む魔力の帳は、朝焼けの光に淡く照らされ、まるで空気そのものがうたうように震えていた。
塔の中庭に集められたのは、奏、リアガン、リウ、そしてシフ──それぞれが「名」にまつわる真実と覚悟を胸に抱いたまま、次なる問いかけに臨もうとしていた。
白い衣をまとった塔の使者たちが静かに扉を開く。現れたのは、再びあの記録官。だが、その面差しには前夜のような高圧的な気配はなかった。
「ようこそ、風の契約者たち。今宵、あなたたちに塔の深奥より届いた“本当の問い”を明かしましょう」
その声は塔に共鳴するように響き、重々しくも透明だった。
「君たちは“風のことば”を探してきたという。では、問おう。“風のことば”とは何だ?」
一同は沈黙した。思わず目を合わせる者も、視線を伏せる者もいた。その問いは、明確な答えを求めているようでいて、同時に彼らの在り方そのものを量ろうとしていた。
奏は一歩前に出た。
「……わたしにとっての“風のことば”は、風と交わす対話です。形あるものでも、決まった式でもなく──“名前”の奥にある本質と向き合うこと。わたしが風と出会い、風を知って、自分の名を問い直したように……それは、生き方に重なる“ことば”だと、思います」
記録官の目が細められる。
「面白い。だが、塔はそれだけでは満足しない。君の仲間の名は偽り、契約に縛られ、その本質に他者の意志が介在している。君はそれをどう思う?」
リアガンが目を細めた。静かな怒りがこもっている。
「“名”とは本来自由なものだ。だがこの塔は“名”を縛ることで力を保っている。過去の我が家もそうだった。“名”を封じ、縛り、政を守るために人の意志をねじ伏せる──その歪みが、俺をここまで導いたのさ」
「……リアガン」
奏はそっと彼の名を口にした。今はもう偽られることのない、その名。
記録官は目を伏せたまま、静かに語った。
「かつて、私も名を失った者だった。記録官という役目を継いだその日、わたしの名は塔の書に編まれ、“記録官”という名が与えられた。個としての我は、この塔の記憶と同化した。私は生きているが、自由にはなれない。君たちを試すのは、かつての私自身を問い直すためでもある」
沈黙が流れる。
リウがぽつりと呟く。
「けれど……名は縛られても、響きは風に残る。たとえば、誰かが思い出すたびに、その名のかけらは自由に揺れるんだ。塔に書かれた“名前”だけが、すべてじゃない」
シフも微笑を浮かべて口を開いた。
「ふふ。大体にして、風は名前を好まない。呼ばれたくないときは姿を消すし、呼ばれたくない“名”では答えないこともある。人間たちがどんなに定義づけようと、精霊はいつも逃げ道を知っているんです」
奏の胸に、再び風が吹いた気がした。
風は、形を持たない。けれど、そこに確かに在る。呼びかける声が本物であれば、風は応える。
「……わたしは、自分の“名”を持ち帰ります。誰かに与えられたものではなく、自分が選んだ名。風と、仲間たちと、一緒に築いてきた“ことば”を──わたし自身の魔法として」
記録官は静かに目を閉じた。そして、笑った。
「ならば、進みなさい。“風のことば”は君の内に在る。塔が望んでいたのは、定義された答えではない。名と対話し、言葉の奥にある本質を見出せる者。……君たちは招かれた者であり、選び取った者だ」
扉が開かれる。
塔の奥深く──未だ明かされぬ、新たな魔法理論の実験場へと続く回廊が、奏たちの目の前に現れた。
風が、吹いた。
風の通い路に立っていた。
アラウィンの外れ、苔むした階段を登りきった先に、それはあった。
地図にも記されぬ古道。その道は、高く低く、山を渡り、谷を潜り、そして人の住まぬ場所へと続いている。
奏は立ち止まり、振り返った。
陽光を受けてきらめく水の都の輪郭が、遠くかすんで見える。
だがその光景に、もう未練はなかった。
「……行こう」
小さく呟いた声に、リウが肩越しに振り向いた。
白銀の髪が、風に揺れる。
「名に縛られた街を超え、次はことばに触れる旅、か。まったく、風の子らしい歩き方だな、奏」
からかうような口調の裏に、確かな期待と興味が滲んでいた。
その隣で、シフは無言のまま森に目を凝らしていた。
まるで何かの気配を探っているかのように。やがて彼女は、目を伏せ、低くつぶやく。
「風が変わった。この先には……何かが待ってる。善し悪しじゃなく、きっと“選ばれた問い”だ」
「選ばれた問い?」奏が聞き返す。
「そう。答えじゃなくて、“問われる”こと。──でも、きっとそれを越えたら……君の魔法は、また違う色を持つ」
シフの言葉は、確信というより祈りに似ていた。けれど、それは決して空虚ではなかった。
リアガンは一歩前に出て、道の先をじっと見つめた。
「風のことば」というもの──
それが何なのか、彼にはまだ完全に理解できてはいない。けれど、あの記録官が最後に残した言葉が、胸の奥で熱を帯びていた。
《ことばは過去の遺物ではない。ことばは、常に“いま”を呼び起こす。》
リアガンは、アラウィンの“名の契約”に抗えなかった自分を知っている。
それでも、奏たちとともに進む今の選択を、過ちとは思っていない。
「風のことばが、もし“世界を読む力”だとするなら……おれは、それが生きている証だと信じたい」
彼が口にしたその一言に、風が、ひとつ、弾んで応えた。
その風は、誰かの呼びかけのようにも、精霊たちの囁きのようにも聞こえた。
──おまえたちは、まだ知らぬ。
けれど、問いは始まっている。
風に問い、風に応え、風に、名をゆだねよ。
四人の姿は、やがて森に溶け、古き道へと吸い込まれていった。
風のことばが、まだ言葉になる前に。
誰かの問いに答えるためではなく、自分たちの「ことば」を見出すために。




