第四話、風が導く朝へ
※この物語は、風に導かれる奏の旅の記録です。
第四話では、村を離れる決意を固め、風に導かれて最初の一歩を踏み出します。
不安と希望のあいだで揺れながらも、確かに進みはじめるその瞬間を、見届けていただけたら嬉しいです。
旅人が去り、風の声を聞いた数日後。
奏は自分の中に芽生えた決意と、言葉にならない不安のあいだで揺れていた。
旅に出る。それは明らかに“決まってしまったこと”のように感じられた。
けれど、実際に荷物をまとめようとすると、指先が止まる。
——これで、本当にいいのかな?
答えは何度考えても出ない。
けれど、もう元には戻れなかった。
旅人と出会い、風たちと心を通わせたあの瞬間の感覚は、今も奏の中で生きている。
夜。母が庭で洗濯物を取り込んでいた。
「ねえ、お母さん」
奏が声をかけると、母はちょっと驚いたように振り返った。
「どうしたの、そんな顔して」
「……なんでもない。ただ、少し……、遠くに行ってみたいなって、思っただけ」
母は一瞬動きを止め、それから笑った。
「そう。若いときは、そんなふうに思うもんよ。
私だって、一度くらいはね、都会とかに行ってみたかったなあ。叶わなかったけど」
「怖くなかった?」
「怖かったわよ。知らない場所なんて、行けるわけないって思ってた。
でも……本当は、行こうと思えば行けたのよね。たぶん」
母の言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
できなかったんじゃない。行かないことを選んだだけだったのかもしれない。
「奏は……行ってみたいの?」
「……うん。行かなくちゃ、いけない気がするんだ」
それが何のためなのか、明確には言えなかった。
ただ、風が吹くたびに心がざわめき、歩かずにはいられないような焦燥感に駆られていた。
母は、そっと頭を撫でた。
「……あんたが選ぶなら、それでいいと思うよ。どこにいても、あんたはあんただから」
夜更け、眠れずに布団の中でじっとしていると、風がそっと障子を揺らした。
開け放った窓から、草の匂いを含んだ涼しい夜風が入ってくる。
「……やっぱり、行くしかないよね」
誰にというわけでもなく、呟く。
風が返事をするように、頬を優しく撫でた。
逡巡はあった。
この村を離れたら、もう戻れない気がする。
風を知ってしまった自分は、もう「ただの村人」ではいられない。
でも、それでも——
世界を見てみたい。
どこまで風が吹いていくのか、この目で確かめたい。
風が自分に何を見せたがっているのか、知りたい。
誰に言われたわけでもなく、道が敷かれたわけでもない。
それでも、奏は今、ひとりで「行くしかない」と思っていた。
朝。
村の空は、どこまでも穏やかだった。
静けさは、なにかが終わり、なにかが始まる前の、張り詰めたような静けさだった。
奏は荷物を最小限にまとめ、母にだけ「行ってくる」と告げた。
父には、何も言わなかった。
たぶん、気づいていた。けれど、いつものように何も言わずに見送った。
坂を下ると、村の空気がどんどん背中に遠ざかっていった。
それは心細さでもあったが、どこかで解放的でもあった。
——世界が広がっていく。
風が、吹き抜ける。
軽やかで、少しだけ急かすようだった。
奏は立ち止まり、振り返った。
そこには、今まで過ごしてきた村の景色が広がっていた。
「ありがとう」
ひとこと、そう呟いて、背を向けた。
足は、まだ重たかった。
けれど、その一歩は確かだった。
誰にも強いられず、誰のためでもない、自分の旅の始まりだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
奏の旅がようやく始まりました。
大きな決断の前に訪れる揺らぎやためらいは、誰にとっても特別なものだと思います。
次回は、旅の最初の出会いが描かれる予定です。
少しずつ広がっていく世界と、奏が何を感じていくのか。どうぞ楽しみにしていてください。
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