第三十八話、記録官の名
試練の間の空気がわずかに揺れ、記録官の青年──黒衣の男が静かに前へ歩み出た。
「……私は、幼いころ“風の精霊”に名を贈られた」
その声は、これまでの冷淡な響きとは異なり、どこか遠い記憶をたぐるような静けさをまとっていた。
「けれどその名は、父によって剥奪された。精霊との自由な契約は“血統の統治”を乱すとされ、私は“無名”に戻された」
彼の眼差しは、試練の間に集う精霊たちを捉えていた。
「それから私は、“名とは許可された力でなければならない”と教え込まれた。
名は支配のための道具だと」
奏はその言葉に、ふと胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
「……だから、あなたは?」
記録官はわずかに頷いた。
「この塔で精霊の名を記録し、制御する立場についたのは、自分の過去を受け入れるためでもあった。だが……」
彼の視線が、名を取り戻し始めた精霊たちに向く。
「君たちのように“名を贈る者”を見て、心が揺れている自分がいる。
名とは、そんなにも自由で、優しいものなのかと」
ヒューラがそっと微笑んだ。
「名は、枷にもなるけど、翼にもなるよ。どちらになるかは、贈る人と、受け取る人次第なんだ」
沈黙ののち、青年は一つ深く息をついた。
「……私の本当の名は、カイリウス。けれど、この名を口に出すのは、今日が初めてだ」
その名が響いた瞬間、空気がわずかに震えた。
塔の上層部から、眠っていた風がそっと流れ込む。
「ようやく……風が、戻ってきた」イリィアが小さく呟いた。
その風は、名を取り戻す者たちに、祝福のように触れていった。




