第三十三話、風の名に刻まれたもの
イリィアの姿が確かになったその瞬間、空間を満たしていた沈黙がひとつ、深く息をつくようにほどけた。
少女の姿をとった精霊は、奏の目をじっと見つめた。
「……ありがとう、奏」
イリィアの声は、風鈴のように柔らかく響いた。
言葉の一つひとつが、かつて失われた時間を少しずつ取り戻すように空間に染み渡っていく。
封印の間の水晶の柱が、再びゆっくりと明滅を始めた。
その光は、祝福として名を呼ばれた精霊が確かに存在するという証だった。
アウラスがそっとイリィアの隣にしゃがみ込んだ。
「君の記憶は……まだ全部は戻っていないんだね」
イリィアは小さく頷いた。
「でも、奏が名を呼んでくれたとき、心の奥にあった何かが解けたの。
まだ怖さもあるけれど……わたし、また風になれる気がする」
奏は思わず胸に手を当てた。
イリィアの言葉は、どこかヒューラと重なる響きを持っていた。
名を得ることが、ただの記録ではなく、心の深い場所にある“存在の肯定”になる──その確信が、胸の奥にじわりと広がった。
証人が静かに歩み寄る。
「この間に再び灯った名は、アラウィンにとって新たな希望の記録になるだろう」
その言葉に、奏は静かに首を振った。
「いいえ、それだけじゃない。この子たちが忘れていた“声”が、もう一度この国に吹き渡ってほしい」
ヒューラが微笑んだ。
「それが、“名を呼ぶ魔法”の本質──だね」
奏は、イリィアの手をそっと取った。
「一緒に行こう、イリィア。もう誰にも、君の声を奪わせない」
扉の先へと向かう一行の背に、封印の間の風がやさしく舞い上がる。
それは、新たな風の精霊が、この世界で再び歩み出した証だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
少しでも奏の物語に風を感じていただけたなら嬉しいです。
次回は、風を断つ者たちとの激突──奏の風の魔法、真価が問われる場面が描かれる予定です。お楽しみに!
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