第三十一話、風が再び吹き抜けるとき
始まりの樹の根元に吹いた風は、静かに渦を巻きながら奏たちの足元へと戻ってきた。
記憶の余韻はまだ胸に残っている。
だが、それはもはや痛みではなく、あたたかな光のようなものだった。
彼らが立つ記録の庭は、今や風の精霊たちの気配に満ちていた。
周囲を囲む古木の葉が柔らかく揺れ、空は高く澄み渡っている。
庭の中央には始まりの樹が静かにそびえ、その根元には風の流れを感じさせる細かな文様が浮かんでいた。
それはまるで、この場所そのものが奏たちの変化に呼応して息づいているようだった。
奏はアウラスと顔を見合わせる。どちらからともなく、微かに笑った。
「行こう」
そう言ったのは奏だった。
だが、その声には新たな確信があった。精霊の名を“祝福”として呼ぶ魔法使い──そんな未来を思い描く者の声だった。
再び扉をくぐり抜けた彼らを迎えたのは、記録の庭の守り手である青年──証人だった。
彼の立つ場所の背景には、褪せた石の記録棚が並び、その一つ一つに光の糸のようなものが走っていた。
それは名を記録した魔法の痕跡であり、触れることなくしても確かな存在感を放っていた。
記録棚の背後には、小さな噴水のような水の柱があり、そこから絶えず霧が立ちのぼっていた。
その霧は、精霊たちの囁きのように薄く空間を包み、過去と現在の境界を曖昧にしていた。
「……君たちは、名の重さを知った者として戻ってきたんだな」
青年の目は、どこか安堵しているようでもあり、どこか試すようでもあった。
「アラウィンは、名を記録することで秩序を守ってきた。
だが今、その秩序の名のもとに“本来の名”が失われている」
アウラスが口を開いた。
「それは……僕たち精霊が、自分の名を忘れてしまったということ?」
「忘れたのではない。思い出すことを、許されていないのだ」
その言葉に、ヒューラが強く頷いた。
「だから僕は、奏と共に風を吹かせたい。名を、祝福として呼び戻す風を──」
証人は少しだけ微笑んだ。
「ならば、次の扉を開けるといい。そこには、名を取り戻そうとする者たちの足跡が残されている」
奏は深く息を吸い込む。
胸の奥に、名を授けたときのヒューラの言葉がよみがえった。
──名とは、形を与えるだけではない。
──共に在るという意志そのものだ。
「行こう、ヒューラ。アウラスも。一緒に確かめに行こう」
三人の背に、ふたたび風が吹いた。
それは過去からの導きではなく、未来への一歩を促す風だった。




