第三十話、エオリスの記憶
白い光が、世界を満たしていた。
風が過去の記憶を運び、奏たちの意識はまるで夢のなかに引き込まれるように、別の時代の情景へと落ちていった。
目の前に広がったのは、今とは異なるアラウィンの姿だった。
空は高く、風は澄んでいた。魔法使いたちは精霊と並んで歩き、互いを名前で呼び合っていた。
そこには支配も管理もなく、ただ願いと祈りに基づいた“名”が在った。
「この風を、おまえと分かち合おう」
「この名を、私の一部として受け取ってくれるか」
交わされた言葉は、いずれも祝福だった。
──祝福の名。対等の契約。
そして、その中心にいたのが、「エオリス」と呼ばれた者だった。
白銀の風をまとい、性別も年齢も定かではないその魔法使いは、人と精霊を繋ぐ“名の架け橋”であり、最初に「名の意味」を魔法体系として定義した存在だった。
しかし、映し出される光景は次第に翳り始める。
「名」が“権限”として使われるようになり、
「契約」が“束縛”へと変わりはじめた。
記録の管理と整理は、やがて分類と抑制へと姿を変え──
純粋だった契約の記憶は、書物のなかで歪められていった。
ヒューラが苦しげに眉をひそめた。
「……これは、エオリスが最も恐れていた未来だ」
奏は、風のなかで微かに響いた声に耳を傾けた。
──わたしの名を、忘れないで。
──名とは、互いの存在を結ぶ橋なのだと。
記憶の最後、エオリスはひとつの言葉を残して姿を消す。
「風の名を呼ぶ者へ。願わくば、再び祝福として“名”を授けよ」
光がふっと消えた。
奏は、気づけばまた始まりの樹の前に立っていた。
アウラスもヒューラも、黙って風の名残を見つめていた。
「……エオリスは、“名の魔法”を本当の意味で使っていたんだね」
奏の言葉に、ヒューラが静かにうなずく。
「今のアラウィンに欠けているのは、あの祈りのような想いだ」
奏は胸に手を当てる。
名を与えるとは、ただの行為ではない。
相手の存在を、力を、尊厳を認めること。
「──なら、わたしは名を“祝福”として使いたい」
その誓いは、始まりの樹に静かに届いた。




