第二十九話、記録の扉を越えて
古びた扉の前で、奏は足を止めた。
その木は、どこか生きているかのように呼吸していた。刻まれた文様は意味を超えて語りかけてくる。
風が枝葉をわずかに揺らし、その音さえも扉の一部のように思えた。
証人が静かに言った。
「この扉を開けば、“記録されたすべての名”と向き合うことになる。
アラウィンがどのようにして名を管理する国となったか──その始まりを、君たちの目で見ることになるだろう」
アウラスが顔を曇らせた。
「……まだ僕は、そこへ行くのが怖い」
それは過去の記憶を掘り返すことへの恐れでもあり、再び“名”に縛られるのではないかという葛藤でもあった。
奏がそっと彼の手を取った。
「でも、君がいてくれるなら、わたしは開けるよ」
ヒューラが微笑み、足元からふわりと風を巻き上げる。
「風は、名に込められた意志を運ぶ。なら、名を持つ者たちの意志に、僕らも応えよう」
扉の文様が淡く輝いた。
文字ではない何か──記憶そのもののような模様が浮かび上がる。
そして──ゆっくりと、記録の扉は開き始める。
内側には、無数の“名”が漂っていた。
音でもなく、光でもなく、しかし確かにそこにある気配。
まるで誰かの想いがそのまま記録として空間に刻みつけられたような世界だった。
「ここは……」
奏が息を呑む。
一本の樹がそびえていた。
根は地の奥深くへと伸び、枝は見えない空へと続いている。
その幹に浮かぶのは、すべて“名”。過去の魔法使いたちと精霊が交わした契約の記録だった。
証人が言う。
「これは“始まりの樹”。記録と契約が生まれた場所──かつて、名に宿された願いと意志が純粋だった頃の痕跡だ」
アウラスは震える声で呟く。
「このなかに……僕の、記録されなかった名もあるの?」
「いや、それは……まだ、ここにはいない。
君がその“名”を受け入れたときに初めて、ここへ記録されるだろう」
アウラスは黙ってうつむいた。
その肩を、奏がそっと支える。
「無理にじゃなくていい。でも、きっとここで見ていくことは、わたしたちの旅に必要なことなんだと思う」
ヒューラが前へ進み、樹の前に立つ。
「この記録は、かつての契約者たちの“真の名”だ。
だが今は、管理のための“外の名”ばかりが残され、形骸化している」
奏の中で、師匠の言葉がよみがえる。
『名は呪縛ではない。けれど、そうして使われてしまうときもある』
──名を与えること、名を呼ぶこと。
それが、相手の存在を認め、尊ぶ行為であるはずだった。
静寂のなか、始まりの樹の幹が揺れ、ある“名”がかすかに輝いた。
奏はその名前を、無意識に読み上げた。
「……エオリス」
風が吹いた。
その瞬間、空間が震え、古い記憶が解き放たれる──
精霊と人とがまだ対等だった時代、たった一つの名を分かち合い、互いに祝福として呼び交わしていた、その原初の契約の記憶が──今、甦ろうとしていた。
そして奏は思う。
──この記憶と向き合い、わたし自身の“名”を見つけるための旅が、ここから始まるのかもしれない、と。




