第二十八話、記録なき契約
青年は、古の風のように静かな声で名乗った。
「名は、いらないかもしれないね。ただ、呼ばれたのは久しぶりだ……」
その目は、アウラスを真っすぐに見つめていた。
「君が、その名を選んで受け取ったとき。私たちの契約は、もう一度結ばれた。
でも、それをこの国は望んでいない」
青年──証人は、契約の庭を一望しながら続けた。
「この庭は、本来、すべての名が祝福として与えられる場所だった。
だが、いつの間にか“名”は秩序を保つ道具となり、管理され、記録され、力の枠組みに縛られるようになった」
ヒューラが小さくうなずいた。
「記録なき契約は、それを拒んだ精霊たちと、拒まれた魔法使いたちの最後の約束だったのね」
アウラスが声をしぼり出した。
「じゃあ、僕は……その失われた契約の残響だった?」
証人は目を細め、かすかに微笑んだ。
「そう。君は名を持って生まれながら、それに従うことを望まなかった。
それゆえに、記録から消され、忘れられた。
でも今、君を呼ぶ声があった。
それは、新しい契約のはじまりなんだよ」
奏は、その言葉に何か強いものを感じていた。
名は祝福であり、重さでもある。だが、それをどう使うかは──自分次第なのだ。
その時、風が強く吹き、庭の一角に古い扉が現れる。
まるで封じられていた記憶が、次の真実へと導こうとしているかのようだった。
「この先に、記録されたすべての“名”が眠っている。
アラウィンが今の姿になった、その源流だ」
証人の指差す先にある扉は、どこまでも静かで、重く、しかし──奏には確かに聞こえた。かすかな呼び声が。
「行こう」と、ヒューラがそっと言った。
奏はうなずき、一歩、扉へと歩を進めた。




