第二十七話、風の裂け目にて
朝靄のなか、契約の庭の空気は少し変わっていた。
風の流れが緩やかに反転し、泉の水面に淡い光の模様が浮かんでいる。
ヒューラがそれを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……この庭、何かを思い出しはじめてる」
奏が顔を上げた。
「思い出す?」
「うん。昔、この場所はたくさんの“名”と“声”が行き交っていた。
でも、それを記憶するものが誰もいなくなって、風さえも忘れていた。けれど今……君たちが来たから、少しずつ思い出してる」
アウラスはそっと泉のほとりに膝をつき、掌を水に浮かべた。
「……僕たちが、目を背けてきたもの。精霊と人の間にあった“契約”の意味」
その言葉に、泉の中心が揺れ、そこから一筋の風が立ち上がる。
風は声を持たず、ただ静かに奏たちのまわりをめぐる。
「これは……?」
風の中に、文字のような輝きが走る。だが、それはどの書にもない“名もなき言葉”だった。
ヒューラが慎重に呟く。
「これは……裂け目。“名”の魔法体系の根底にある、最初の契約の断片」
奏はその言葉に、直感的な不安を覚える。
風が語ろうとしているものは、アラウィンの魔法体系の矛盾そのものかもしれない。
そこへ、新たな足音が草を踏みしめる音が響いた。
現れたのは、一人の青年。
金褐色の髪を束ね、淡い灰緑の外套を纏った、見知らぬ旅人──その表情には、どこか懐かしい風を感じさせるものがあった。
「やっと見つけた。君たちが“扉”を開けてくれたんだね」
彼はそう言いながら、契約の庭の中心へと歩み出た。
「君は……?」
奏が警戒を含んだ声をかけると、青年は柔らかく微笑んだ。
「僕はアウラスの“記録されなかった契約”の証人。かつて、この庭で精霊と魔法使いが交わした、最後の契約の末裔」
その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
だが、ヒューラが深く目を伏せるようにして言った。
「……まさか、まだこの世界に残っていたなんて」
風がざわめく。
この庭に隠されていた真実が、いま、風の裂け目から流れ出そうとしていた。




