第二十六話、名を持たぬ声たち
契約の庭の深奥で、アウラスはひとり立ち尽くしていた。
彼のまわりには、姿かたちを曖昧にした精霊たちが、風に溶けるように漂っている。
それは、名を持たぬ精霊たち。
名を与えられることも、望まれることもなく、ただ存在の気配だけで世界にとどまっていた。
『我らは縛られぬ。けれど、かたちを持たぬ』
『名とは、呪いか。祝福か』
その声は、風のざわめきのなかに紛れていた。
アウラスは、かつて自分に与えられた“名”を思い出していた。
幼いころ、ある術者によって呼び出されたとき──彼はただ「力を貸せ」と命じられ、名を一方的に与えられた。
それは誇りではなく、命令だった。契約ではなく、命令。
彼の心には、深くそれが刻み込まれている。
その名を拒み、契約を拒み、自らの存在を曖昧にしていった。
記録からも消え、他者から呼ばれることもなくなった。
それが、彼の自由の代償だった。
──また、縛られるのか?
その恐れが、今も胸の奥で燻っている。
そこへ、風を切って駆ける音が近づいてきた。
「アウラス!」
奏の声。
振り返ると、彼とヒューラが森を抜けてこちらへ走ってくる。
その姿は、なぜだか眩しく見えた。
「……怖いんだね」
奏が、まるで心を読んだかのように言う。
「名を与えられることが、誰かの意志に従うことになるんじゃないかって」
アウラスは、はっと目を見開く。
「でもね、君のことを“アウラス”と呼んだとき、わたしは命令をしているつもりなんてなかった。
君を、君として呼びたかったんだ」
ヒューラがそっと歩み寄り、名もなき精霊たちに目を向ける。
「名は、確かに力を持つ。けれど、それをどう使うかは呼び手の在り方次第。
名を通して結ばれる関係には、祝福もある。名づけが、存在を照らすことだってあるんだ」
名もなき精霊たちが、そっと風をまとい、さざめきながら言う。
『祝福の“名”……忘れていた響き』
『その声、覚えておく』
アウラスの胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
「……僕は、本当は、誰かにそうやって呼ばれたかったのかもしれない」
「だったら、これからそうすればいい」
奏の言葉はまっすぐで、あたたかかった。
名を恐れるのではなく、名に宿す想いとともに歩んでいく──
その決意が、アウラスの中で芽生えていた。
彼はそっと頷き、風の中に消えていこうとしていた名なき精霊たちに言った。
「……ありがとう。君たちのこと、僕も忘れない」
精霊たちは声なき声で笑った。
『風が名前を持つとき、また会おう』
その夜、契約の庭の風は、まるで春のように柔らかかった。




