第二十四話、忘れられた契約の庭へ
薄明の空の下、奏は風の精霊ヒューラ、琥珀の目を持つアウラスとともに、魔法学舎の門を出た。
目的地は、古代契約の地──“忘れられた契約の庭”。
アラウィンの地図にも載っていない、かつて精霊と魔法使いが“対等な言葉”を交わしたという伝承だけが残る場所だ。
「本当に……この道で、合ってるのかな?」
奏が手にした古地図とにらめっこしていると、ヒューラがくすりと笑った。
「風は迷わないよ、奏。君の心が向いている方へ吹くから」
「その言葉、ちょっと格好良すぎない?」
隣でアウラスがからかうように言い、三人の間に柔らかい笑いが生まれる。
道中、かつて使われていた風の巡礼路を進みながら、奏は自分の中にある“名”への意識が変化していることを感じていた。
風と魔法と、名を呼ぶという行為。
それは誰かの存在を祝福することでもあり、時には束縛する力にもなりうる。
「ねぇ、奏」
アウラスがふと真剣な表情で言った。
「この旅の先にあるものって、ただ古い知識だけなのかな? それとも……僕たち、もっと変わることになると思う?」
奏はしばらく考えてから、答えた。
「うん。変わると思う。だから行きたいんだ。
精霊としてじゃなく、“アウラス”として生きようとしてる君と、
“名前を与えた”意味を本当に考えたい。わたし自身も──“風の魔法使い”として」
アウラスは、目を細めて小さく笑った。
「それなら、ぼくも……ちゃんと君と旅をするよ」
彼の言葉に、ヒューラが頷く。
「契約の庭は、君たちの“次の扉”になる。きっとね」
そう言った風の声は、どこか遠く懐かしい響きを含んでいた。
やがて、森の奥へと続く霧の道が現れた。
森を抜けるにつれて、空気が変わっていく。
肌を撫でる風には、言葉にならない響きが混じっていた。音にもならない声が、枝葉をすり抜け、どこかで誰かが名を呼んでいるような気配がある。
「……聞こえる?」
奏が小さくつぶやくと、ヒューラも頷いた。
「これは……残響だよ。かつて、ここで交わされた名の契約の声の」
やがて、木々が開け、小さな泉と石造りの祭壇が現れる。
空が広がり、風が静かに渦を巻く。
アウラスが一歩、前に出る。
「……懐かしい匂いがする」
その場に立った瞬間、彼の足元に柔らかな光が広がり、地面に刻まれた古代文字が浮かび上がった。
奏は、そっとその中心に立ち、深く息を吸った。
「ここが……“忘れられた契約の庭”」
その名の通り、時に忘れられてもなお、風と精霊が互いの声を交わした場所。
そして今、その記憶は再び呼び起こされようとしていた──。
突如として、空気が震えた。泉の水面がざわめき、祭壇の周囲にいくつもの光の粒が浮かび上がる。
「これは……」
ヒューラが顔を上げた。
「庭が君たちを試そうとしている」
光の粒が集まり、ひとつの人影のような形をとる。
それはぼんやりとした輪郭を保ちながら、奏たちをじっと見つめていた。
「……精霊?」
奏が声をかけると、影は小さく頷いた。
『名を結んだ者よ。名を与えた者よ。その責任を知るか?』
声は心の内に直接響いてきた。
奏は一歩踏み出し、静かに答える。
「……まだ、全部は知らない。
でも、知りたい。名を与えるって、どういうことか」
『ならば示せ。名を結ぶに足る、心と魔法を』
その瞬間、風が大きくうねり、空間がゆがむように広がっていく。
試練は、始まったばかりだった──。
そしてその試練の中で、奏は見つけることになる。
名とは、ただの印や記号ではなく、その存在の本質を言祝ぐものであること。
名は力を引き出すが、決して縛るための鎖ではないこと。
風が語りかけるようにささやいた。
――名は、その者が“その者である”という祝福だ。呼ぶことで、形が宿る。
奏はその意味を胸に刻みながら、一歩ずつ試練の中心へと向かっていった。




