第二十一話、名を喪(うしな)った精霊
名を失った精霊は、存在の形すら失う。
それでも、誰かの声に応えたいと願ったなら──。
どうぞ、奏の心の旅路を見守ってください。
魔法学舎の中庭が、抑えきれぬ風と魔力で荒れ狂っていた。
回廊の封印が破られ、名を失った精霊──“無名”がその姿を現したのだ。
人のかたちにも獣のかたちにもなれず、ただ歪んだ影と風の渦となって咆哮する。
周囲の魔法士たちが結界を張り、押さえ込もうとするも、力は衰えず、むしろ増していく。
「名前を……返せ……! 私の名を……!」
それは、断末魔にも似た叫びだった。
ヒューラは震えていた。
自分も、もし名を得なかったら、あのような存在になっていたかもしれないという恐れが、胸を締め付ける。
それでも、奏は一歩を踏み出した。
「……話を、聞かせて」
無名の精霊は唸るように唾を飛ばし、反射的に魔力を放つが、奏はそれを風で逸らす。
ヒューラがその横に立った。
目はまだ揺れているが、踏みとどまっている。
「あなたの名は、どこへ行ったの?」
奏の問いに、影が一瞬揺らいだ。
「奪われた……この国の、制度に……」
名の魔法を巡る過去の歪み。
ある時代、魔法士たちは強力な精霊に名を与えることで力を得たが、精霊自身の意思は顧みられなかった。
与えられた名に縛られ、望まぬ役割を強いられた精霊たちは、次第に“自らの名”を忘れていったという。
そして、名前を失った精霊は、存在の形を保てなくなり、怒りと悲しみの化身と化した。
奏は息を呑んだ。
名は、祝福にも、呪いにもなる。
──僕は、ヒューラに、名を押し付けてしまったのか?
そのとき、ヒューラが奏の前に出た。
「ぼくは、ヒューラ。奏が呼んでくれた。君には、名をくれる誰かがいなかったんだね」
その声は震えていたが、確かに届いていた。
影のような精霊が、わずかに動きを止める。
「……名を、“くれる”? お前たちは、奪うものではないのか……?」
奏が言葉を継いだ。
「違う。わたしは、君に名前を“返したい”と思ってる。君がそれを望むなら」
回廊の風が止まり、時間が静止したかのように感じられた。
ヒューラが、影にそっと近づいた。そして、そっと呼びかける。
「君の風の色は……琥珀色だね」
光が、影の中心に生まれた。
奏が、そっと囁くように言った。
「アウラス──風の歌をたたえる名。……それが、君の名であってほしい」
その瞬間、風が爆ぜるように広がった。
光が影の中から溢れ、叫び声とともに、無名だった精霊は静かにその姿を変えていく。
琥珀色の衣を纏った、年若い精霊の姿がそこに立っていた。
目を開け、息を吸い、そして小さく微笑む。
「……アウラス」
風が、祝福のように学舎を巡っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
少しでも奏の物語に風を感じていただけたなら嬉しいです。
アウラスの名は、奏が「誰かに名を返す」力を持ち始めた証です。
次は、名を奪う制度そのものと向き合っていきます。お楽しみに!
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