第十八話、その風に、名を与えた日
静かな夜、風は名前のない小さな声を運んできました。
その声に応えることで、ひとつの契約が結ばれます。
どうぞ、奏の心の旅路を見守ってください。
山道を抜けた先、霧の底に包まれた谷間の丘にたどり着いたとき──空気の匂いが変わった。
奏は足を止め、深く息を吸った。花や草の香りに混じって、どこか乾いた、静かすぎる風の匂い。
足元には、小さな風の渦が漂っていた。名を持たぬ風の子──いつもそばにいた存在が、今日は一層静かだった。
ふと、その風が止まった。
草も葉も、ひとときのあいだ、まるで時を忘れたように凪いでいる。
風が、息を潜めていた。
名もなきものとして存在していた精霊が、名を欲している。
──いま、奏の中で、何かが確かに目覚めていた。
「……君は、風だ」
小さな囁き。
「でも、それだけじゃない。君は、僕にとって……」
言葉にならない思いが、胸を打つ。けれど、その先にある“名”は、たしかに口の中に宿っていた。
「ヒューラ」
名が、風に放たれた。
その瞬間、風が大きくうねった。
葉が舞い、空気が震え、周囲の世界がひとときだけ風に染まる。
風の渦の中心に、光が集まっていく。
まるで、その名に応えるように──
光はやがて人のかたちをとり、透き通る衣と白い髪を持つ少年が、そこに立っていた。
「……ぼくは、ヒューラ?」
震える声だった。けれど、その目はまっすぐ奏を見ていた。
奏は頷いた。胸の奥が、ふるえていた。
「そう。君の名だよ。君が、そうだとわたしが信じたから」
ヒューラは、その言葉をじっと噛みしめるようにして、掌を見つめた。
「これは……ぼくの手……?」
名を得て、彼は“誰か”になった。
その瞬間、名を与えることの意味が、奏の中で重くのしかかる。
存在を定めるということ。形を与えるということ。
そして、自由だった風に、一つの輪郭を与えるということ。
「……ありがとう、奏」
ヒューラが微笑んだ。
その笑顔を見たとき、奏は心から思った。
この名は、きっと枷じゃない。風のように、どこまでも広がっていくための、翼の名前だと──。
霧の谷の上空に、風が晴れわたっていく。
名を得た風の子と、名を与えた風の魔法使いの旅が、いま始まった
ヒューラという名に込められた想いが、これから奏とともに旅をします。
名を与えることの意味を、少しずつ掘り下げていきます。
どうぞお楽しみに。
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