第十七話、旅立ちの風、再び
奏は風の精霊の存在を強く感じるようになります。
そして、名前について考えるきっかけとなる回です。
風と共にあるとはどういうことか──どうぞ、奏の心の旅路を見守ってください。
町の外れで風が騒いでいた。
低く唸るような音が、森の上を走っていく。雲の切れ目からこぼれた光が、波のように木立を照らしては消えていく。
奏は、その渦の中でじっと耳を澄ませていた。
声にならない言葉が、風のなかを走っている。名もない響き。だが、確かに誰かが、そこにいる。
「……いるんだよね?」
風が、そっと枝葉を揺らした。肯定とも否定ともつかない気配が、答えるように空を流れていった。
姿を見せる気配はない。でも、そこに“いる”。
ここ数日、奏はたびたびこの風の気配を感じていた。
始まりは、偶然だった。小さな旋風が足元に巻き起こった朝。眠る前にふと吹いた、髪を撫でる風。何気なく呼びかけた言葉に、ふわりと返ってきた気配。
それは魔法ではなかった。契約でもない。けれど、ただの自然とも思えなかった。
「……名前ないから、呼べない、か」
ぽつりと、口に出してから、はっとする。
名を問うこと、それは時に、相手を縛ることでもある。
そう教えられてきた。
風の精霊は、名前を持たずに漂う者が多い。名を与えることは、存在を確かなものにする一方で、かたちを決めてしまう。
誰かに名を与えるということは、責任を伴う行為だった。
それでも。
今このとき、目には見えないその存在を“誰か”として呼びたい、と思ってしまった。
『おまえ』とか『風』じゃなくて。
ちゃんと、言葉で。
けれど奏は、すぐには口を開けなかった。
「……ごめん、なんでもない」
風は、何も言わなかった。ただ、あいかわらず森の奥を通り過ぎていった。
朝露の残る野道に、二つの影が並んでいた。
一人は、風の魔法使いとして旅を始めたばかりの奏。 もう一人は、洒脱な装いに水色のストールを巻いた流浪人。
日の出とともに町を発ち、南へ向かう。風の気配が指し示すのは、古くから名を重んじる魔法王国──アラウィン。
「風がそっちだって言うのか?」
流浪人が軽い調子で問いかけると、奏は頷いた。
「うん。呼ばれてる、気がするんだ。たぶん、そこに……何かある」
「何か、ねぇ。あそこはお堅い国だよ。精霊も名前も、全部“管理”されてる。君みたいな風任せの魔法使いは、少々目立つかもしれない」
流浪人は笑っているが、その言葉にはどこか陰りがあった。
そのとき、奏の傍らで、ひゅう、と小さな風が舞った。
「……ついてきてるんだ」
奏がそう呟くと、流浪人もその風の気配に目を細めた。
「まだ“名”はないようだね。けれど、はっきりと君に惹かれている」
風は葉を揺らし、草をなでる。けれど、どこか輪郭が曖昧で、つかみどころのない存在だった。
「……風の子って、こんな感じなの?」
「名づけられる前の精霊は、まだ“誰でもない”。名前を与えれば、形を持ち始める。でも同時に、それは枷にもなる」
奏はふと立ち止まり、その風の中心に手を伸ばした。けれど、掌に何も触れない。
「……もう少しだけ、このままでいい」
そう囁くように呟いて、再び歩き出した。
精霊との関係が、まだ言葉にならないままに。
やがて分かれ道に差しかかると、流浪人は足を止めた。
「……さて、そろそろ僕はこっちだ」
「えっ、来ないの?」
「まさか。君とその風の子だけで行くべきだろ。名の国で、“名を与える魔法使い”が何を見るか──僕も知りたいけど、君自身で見て、感じる方がいい」
奏は戸惑いながらも、その言葉を受け止めた。風の気配もまた、少しだけ色を変えたように見えた。
「また会える?」
「もちろん。君が困ったときには、いつでも風に乗って現れるさ」
そう言って、流浪人はウィンクひとつ残し、森の小道へと姿を消した。
残された奏は、足元の風に向かって語りかけた。
「……行こう。きっと、君の“名”を見つける場所がある」
風が頷くようにそっと草を揺らし、二人──ひとりと一柱──は、霧の立ちこめる山道へと歩き出した。
名もなき風と、まだ名づけぬ魔法使いの旅が、静かに始まった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今回は、風の精霊を通じて、奏が自身の魔法と向き合う回となりました。
精霊に名前をつけることについて、魔法使いとして奏は考えます。
次回は、改めて風の精霊と向き合うことになります。
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どうぞよろしくお願いいたします。