第十六話、風が導いた先に
魔法学舎の平穏を揺るがす“異変”が、ついに姿を現します。
今回は、封印された闇と、それを前にした奏の恐れ、そして“ある人物”との再会が描かれます。
風が導く先に、何があるのか――ぜひお楽しみください。
その夜、風が狂っていた。
封印塔の高みに、黒い瘴気がまるで血管のように脈打ち始めていた。
通常の感覚では捉えられないその異変を、風は怯えながらも、奏の耳元で告げていた。
通常では察知できないその異変を、奏の風だけが感じ取っていた。
「――来る、何かが来る……!」
奏は眠る学舎を駆け抜け、封印塔の外縁に辿り着いた。
そこでは、すでに警戒の魔導結界が膨張し、空間がきしんでいた。
「何か」が中から蠢いている。
突然、塔の表面に浮かび上がる魔紋がひとつ、爆ぜた。
何かが封印を打ち破ろうとしている。
そこにいた奏に、結界が反応し──
「っ……!」
凄まじい風圧と魔力の奔流。
風たちは奏をかばうように、必死に流れを逸らしていた。
それでも、ひとつの裂け目から〈それ〉は顔を出す。
まるで怨嗟そのものが形を取ったような、闇の魔性。
それは声なき怨嗟が、黒く濁った影となって蠢いたようなものだった。
意志も理もない。ただ、壊すことと、巻き込むことだけを望む、負の塊。
(逃げなきゃ、でも――)
足が動かなかった。
魔力の奔流の中、風たちの声すら掻き消えていく。
奏の心が“恐れ”に支配されようとしたその瞬間だった。
不意に、全ての風が凪いだ。
闇を裂くように、一閃の銀色の光が走った。
「まったく……塔のくせに、締まりがないな」
闇を裂いた一閃の銀光の中、男の声が冗談のように響く。
それは滑らかでいて、何か鋭利なものを内包した声音だった。
軽やかで、どこか愉快そうな男の声。
奏が顔を上げた先に、ひとりの人物が立っていた。
長身で、洗練された旅装。
色の薄い長い髪はサイドだけ結び、水色のストールが風に揺れている。
どこか皮肉を含んだ笑みを浮かべた男は、片手を軽く振り上げた。
「悪いけど、ここは立ち入り禁止区域。無断侵入の魔性さんは、お帰り願おうか」
指先から放たれた一陣の風が、空間を切り裂いた。
それは“風”だった。
けれど、奏が知っているものとは違う。
もっと鋭く、もっと深く。
ただの魔力の操作ではない。
それは風を“命令”するのではなく、“説得”していた。
奏が呼ぶ風が友ならば、彼の風は盟友か、あるいは古き誓約。
風は、彼の意志に応えるように、自らの力を解き放っていた。
〈それ〉は音もなく崩れ落ち、塔の亀裂がふたたび結界によって閉じられていく。
静寂が戻った。
男は、ほっと息を吐くと、奏の方を振り返った。
「おや、君……風を感じ取ってここまで来たのかい?」
奏は呆然としながら頷いた。
「わたし……封印が、ゆるんでるって、風が……」
「ふむ。随分と、風と親くなったんだな。普通は、なかなかそこまでは至らない」
男はゆっくりと歩み寄ってくる。
「あなたは──」
「別に名乗らなくてもいいだろう? 今はただの通りすがりさ」
そう言いながら、彼は奏の髪にかかる風をひと筋なぞる。
「……風が、よく馴れている。君の心と、ちゃんと繋がってる」
「でも……わたしは、まだ怖いです。風が……この子たちが、離れてしまうことが」
男は少し驚いたような顔をして、それから声を立てて笑った。
「いいじゃないか、怖がるのも才能だよ。無知な自信よりずっと信頼できる。
けど、ひとつ忠告しておくなら──」
男の声がふっと低くなる。
「風はね、置いていけないんだよ。震える誰かを」
「……だから、君の歩みが止まれば、風も迷う。逆に、君が歩けば、風はその背を押してくれる」
奏の目が見開かれた。
(……それは、わたしが風にしてきたことそのままだ)
「じゃあ、そろそろ行くよ。こういう場所、長居は性に合わなくてね」
男が踵を返す。
「ま、また会えますか?」
「さあ、どうだろうね。世界は案外、狭いもんだよ」
彼が歩き出した瞬間、風が舞った。
あまりにも自然な流れに、奏はつい、呼びかけた。
「……あなた、本当にただの人ですか?」
男は振り返らなかった。ただ、ひとこと。
「それは、君が決めればいい」
ただそう言い残して、夜の風の中へ溶けていった。
その背中を見送りながら、奏は気づいていた。
今夜の風は、奏の頬を撫でて、ひとすじ耳元でささやいた。
“おかえり”。
それは言葉ではなく、ただ風の鼓動として。
夜が再び静まる中、奏の中にひとつ、新たな確信が芽生えていた。
こまで読んでくださり、ありがとうございました。
奏が「風の力」とどう向き合うか、その核心に触れる一夜が描かれました。
また、再登場した謎の流浪人とのやりとりも、今後の鍵となる気配を含んでいます。
次回は、新たな仲間や導き手との出会いが描かれます。
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