第8話 金の獅子と嫉妬の影
クローヴェル公爵領の城は、舞踏会の成功で穏やかな活気に満ちていた。
リリエッタの純粋な笑顔が冷血公爵の凍てついた心を溶かしたことで、貴族たちの偏見を和らげた話は領民の間でも持ち切りになるほどに。
リリエッタ自身はそんな変化に気づかず、城の庭園で花に水をやりながら幸せそうに鼻歌を歌っていた。淡い金髪が風に揺れ、青と金のオッドアイは朝日を映し輝き、柔らかな緑色のドレスを纏う姿は絵画から抜け出した春の妖精みたいに様になっている。
「アルヴァン様、おはようございます。今日も素敵な日ですね!」
リリエッタは水差しを手に、執務室の窓に向かって笑顔で手を振る。窓辺で書類に目を通していたアルヴァン・クローヴェルは、彼女の声に一瞬手を止め、灰色の瞳を上げた。
「……今日も騒がしいな」
口元にはかすかな笑みが浮かべながら、軽く呟く。舞踏会での彼女のぎこちない踊りと無垢な笑顔が、彼の心に深く刻まれていた。
その穏やかな朝を破るように、城門から馬の蹄の音が響く。豪華な馬車が到着し、金獅子の刺繍が入った赤色のマントを翻した青年が降り立つ。赤みがかった金髪、輝く琥珀色の瞳、自信に満ちた笑み。彼はレオン・ヴァルモンド、ヴァルモンド伯爵家の次男で、アルヴァンの幼馴染を自称する男性である。
「おお、クローヴェルの城! 相変わらず無骨だが、今日は特別な香りがするな!」
レオンの声は明るく、まるで舞台の役者のように響く。
庭園にいた全ての者が彼を見た。
「レオン様、いかがなさいましたか? 事前の連絡もなく……」
慌てて迎えに出た執事オルウィンに対し、レオンは笑いながら手を振る。
「堅いこと言うなよ、オルウィン! アルヴァンの婚約者とやらに会いに来たんだ。噂のオッドアイの令嬢がどんな娘か気になってな!」
彼の軽快な口調に、オルウィンはため息をつく。レオンはアルヴァンを「親友」と呼び、事あるごとに訪れては騒がしく振る舞う男だったが、アルヴァンにとっては「ただの煩い奴」に過ぎなかった。
このままお引き取り願ったところで素直に引き下がる男ではない。だが、そのまま通せば主人であるアルヴァンから小言を頂戴するのは目に見えている。
当然のように、オルウィンや使用人たちの制止に耳を貸す事なく、レオンは堂々と庭園へと足を踏み入れる。
庭園ではリリエッタが花に話しかけていた。
「あなたの名前は、確かラベンダーよね。この前、村の子供たちが教えてくれたの!」
彼女が笑顔で呟いていると、レオンの声が響く。
「おや、まるで花の妖精だ! こんな美しい令嬢がクローヴェルに隠れていたとは!」
リリエッタは驚いて振り返り、水差しを落としそうになった。彼女の青と金の瞳がレオンを捉える。レオンはまるで役者のような大仰な振る舞いをしながら胸に手を当て、一礼した。
「レオン・ヴァルモンド、アルヴァンの親友さ! 君がリリエッタ嬢だね? 噂以上の美しさだ!」
彼は琥珀色の瞳が輝せ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
ここまでストレートに褒められた事など生まれて一度もないリリエッタは、動揺から顔を赤らめ、ぎこちなくぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、ございます! あの、アルヴァン様のお友達なんですね! 私は、リリエッタと申します。です!」
彼女の無垢な笑顔と振る舞いに、レオンは一瞬目を奪われた。
今までのどの令嬢とも違う初々しい反応。軽い口説き文句を口にしたところで、所詮は良いところの次男とあしらわれるか、家の繋がり目的が透けて見える相手ばかり。だからこそ、レオンにとって彼女の反応が嬉しかった。いや、楽しかったというべきだろう。
「おお、なんて純粋な! アルヴァン、あの無愛想な奴がこんな天使を娶るなんて、なんと羨ましいことか!」
先ほどよりも更に演技がかった動きと声色で、リリエッタの前で跪くと、彼女の手を取ろうとする。その時、アルヴァンが庭園に現れた。書類仕事の合間にリリエッタの様子を見に来たのだ。
「レオン……何の用だ?」
彼の声は低く、灰色の瞳は冷たくレオンを射抜いた。レオンはひるまず、笑いながら肩を叩く。
「おお、アルヴァン! 今日は親友の君の婚約者を祝福しに来たんだよ! リリエッタ嬢、さぁ、俺と庭を散歩を致しましょう! 花の事を知りたいのでしたらいくらでもお答えしますよ」
リリエッタは目を輝かせ、「わあ、いいんですか? お花、もっと知りたいです!」と飛びついた。その反応にアルヴァンが眉をピクリと動かす。
「リリエッタ、俺が庭園は案内しよう。レオン、貴様は帰れ」
彼の声には、普段の冷たさに加えて何か鋭いものが混じっていた。
「冷たいな、親友! リリエッタ嬢、こいつはいつもこんな感じで不愛想だろ? 俺なら君を楽しませてあげられるよ。さぁ俺の手を取ってくれはしないか?」
取ってはくれはしないかと言いながらも、レオンはやや強引にリリエッタの手を取り、軽やかに庭を歩き始める。もしここでアルヴァンが「行くな」と一言言えば、リリエッタは足を止めただろう。
だが、「ふん」と言うだけで止めようとしない彼の態度を、行って来いと受け取り、レオンの手に引かれるままについて行く。
戸惑いながらもリリエッタは無邪気に笑う。今までの誰とも違う、まるで旧知の友のように軽くおどけた振る舞いを見せるレオンが、彼女にはとても新鮮に思えた。
「レオン様は面白い方ですね。この赤い花、なんて名前ですか?」
「これは薔薇、情熱の花さ!」
「これも薔薇って言うの!? 前に見た白い花の名前も薔薇だったわ!」
「その白い薔薇と一緒の薔薇さ。薔薇にも色んな色の種類があるんだ。色によって意味が違ってくる、面白くないか!」
「そうなんですか!? 凄く面白いです!」
リリエッタの質問に、レオンは身振り手振りで大げさに答える。
アルヴァンはその光景を黙って見つめていた。リリエッタの笑顔はいつものように無垢で、誰にでも向けられるもの。それが、彼の胸の奥で何か熱いものが疼かせる。
「……ふん、騒がしい奴らだ」
彼はそう冷たく呟くが、握った拳はわずかに震えていた。レオンの軽薄な態度、リリエッタの手を取る仕草、なぜかそれが我慢ならなかった。