第1話 不吉の瞳と運命の出会い
エリスティア王国の北東、霧深い森に囲まれたヴェルディ辺境伯家の屋敷。
その夜、産声が石造りの廊下に響き渡る。使用人たちは新生児の部屋に集まり、柔らかな毛布に包まれた赤子を見つめた。乳母が微笑みながら呟く。
「なんて愛らしいお嬢様……」
赤子の髪は月光のように淡い金色で、頬はリンゴのようにふっくらとしていた。
この地を収める辺境伯ロドリックとその妻エレノアも、ベッドに横たわる赤子を見下ろして微笑む。
「我が家の宝だ。リリエッタと名付けよう」
ロドリックは誇らしげに言った。
エレノアは赤子を抱きしめ、幸せに目を細める。
新生児の誕生に、普段は厳しい雰囲気を持つロドリックも今はなりを潜め、感化されるようにエレノアもただただ幸せそうに微笑む。屋敷は祝福に満ち、まるで春の花園のような温かさに包まれていた、この時までは。
赤子の瞳が開き始めた頃、乳母が悲鳴を上げる。
「こ、この瞳は……!」
リリエッタの左目は澄んだ青、右目は輝く金色。
オッドアイ――エリスティア王国では不吉の象徴とされる、忌まわしい異端の瞳だった。
「なんてこと……!」
エレノアは口を押さえ、震える。
ロドリックは顔を青ざめさせ、大きくかぶりを振ると部屋を飛び出した。
使用人たちの囁きが廊下に響く。
「不吉な子だ」
「呪われているに違いない」
リリエッタは無垢に笑い、乳母の手を小さな指で握ったが、その笑顔も幼児特有の愛らしさも、誰の心も溶かす事はなかった。無邪気に笑えば笑うほど、使用人たちは顔をしかめていく。
その日の夜更け、ロドリックとエレノアは暖炉の前で重苦しい議論を交わす。
「殺すべきだ」
ロドリックの声は低く、冷たかった。
「もしこのままリリエッタを生かせば、いずれ我が家に災いが降りかかる」
「ですが……」
エレノアは唇を噛んだ。
リリエッタを出産した時に医者に言われた言葉が頭をよぎる。
『これ以上の出産は、奥様の体に負担がかかり過ぎる』
子供はリリエッタを含めて三人だけ。長男のガレス、次男のエドウィン、そしてオッドアイであるリリエッタだ。これ以上の出産はエレノアの命の危険につながる。だからこそ最後の子供として愛そうとしていた。
「あなた……うちには娘がリリエッタしかいないわ。それなら災いが起きる前に嫁ぎに出せば良いでしょう?」
彼女の目は打算に光った。もしリリエッタを殺すとなれば、これ以上の出産は命の危険がある自分ではなく、誰か妾を取る事になるだろう。そんな事をすれば、自分の立場が悪くなるかもしれない。
「それに、もしリリエッタが災いが起こすなら、嫁がせる先に丁度良い相手はいくらでも居るんじゃないかしら?」
ロドリックは渋々頷く。自分の立場を狙う貴族はいくらでもいる。
そんな相手にリリエッタを嫁がせ、災いが起きてくれるなら儲けもの。もしそうならなくとも、警告にはなる。
オッドアイが原因で嫁ぎ先でリリエッタに何か問題が起きたのなら、それを口実に批難する事が出来て、どう転んでも悪い方向にはいかないだろう。
「ならば、人目に触れさせず育てろ。屋敷の奥で、誰にも見られぬように」
リリエッタの人生は、そこで閉ざされた。
彼女は屋敷の最上階、窓のない小さな部屋。扉は常に施錠され、食事はいつも一人で、使用人が運んできたものを部屋で取る。
外の世界を知ることは許されず、彼女の遊び相手は古い絵本だけ。
だが、リリエッタの心は純粋だった。絵本の挿絵に描かれた草花に目を輝かせ、運ばれてくるスープに笑顔を浮かべる。
「綺麗……! なんて素敵な匂いなの!」
彼女の声は、鳥かごの中の小鳥のさえずりのようだった。
使用人たちはそんな彼女を冷ややかな目で見る。「不吉な子が何を喜んでも、意味はない」と。
リリエッタはそれでも笑い続けた。こんな小さな世界に閉ざされた彼女にとって、どんな小さな喜びも、宝物だったから。
月日は流れ、リリエッタは16歳になった。
淡い金髪は腰まで伸び、青と金の瞳はまるで夜空に輝く星と月のように。彼女の美しさは、閉ざされた部屋の中でも隠せなかった。だが、彼女の世界は依然として狭く、絵本と数少ない使用人との会話が全て。
もちろん、そんな彼女の待遇に異を唱える者がいなかったわけではない。
長男のガレス。誰よりも正義感の強いガレスは、使用人や親の目を盗んではたびたびリリエッタに会いに行っていた。オッドアイが不吉の象徴など、たかがおとぎ話でしかない。そんな下らない理由で、可愛い妹が幽閉されている事に普段から憤っていた。
お前は呪われた子だからここに幽閉されていると彼女に直接伝えるのは酷、なのでいつも去り際に彼は言う。
「リリエッタ、もし俺が家を継いだら、その時は外の世界を見せてやるよ」
彼の笑顔と言葉で、こんな世界でも純粋に育つことが出来た。
彼女にとってはガレスの存在が心の支えであった。
ある日、屋敷に悲報が届く。ガレスが狩りの最中、魔獣に襲われて死に、遺体すら見つからず仕舞い。ロドリックは怒りに震え、エレノアは泣き崩れる。リリエッタは部屋の扉越しに使用人から伝えられ、胸を締め付けられた。
「お兄様……どうして……」
その夜、扉が乱暴に開かれる。
ロドリックが血走った目でリリエッタを睨みつけた。
「お前のせいだ! オッドアイの呪いがガレスを殺した!」
彼の手がリリエッタの腕を掴み、引きずるように階段を下りさせた。
エレノアが冷たく続ける。
「不吉な子め。もう我が家に必要ない。出て行け!」
「待って、お父様、お母さま! 私は……!」
「うるさい! お前が生まれたから、あの時ちゃんと殺しておくべきだった! いや、今からでも……」
リリエッタの叫びは届かず、血走った目で自分の事を見てくる両親から、彼女は命からがら家から逃げ出した。荷物も持たず、靴すら履く暇もなく。あるのは着ていた薄いドレス1枚だけ。
どこをどう歩いたか分からない、気が付けば森の中にいた。冷たい夜風が彼女の肌を刺し、足元は石と木の根で傷だらけになっていく。それでも、リリエッタは歩き続けた。どこへ行くあてもなく、ただ生きるために。
三日目の夜、彼女は力尽き、森の木の根元に倒れ込んだ。
空腹と疲労で意識が薄れる中、どこからともなく聞こえてくる馬車の音に、彼女は最後の力を振り絞って声を上げる。
「おい、こんなところで何をしている?」
低く、落ち着いた声が響く。
リリエッタの視界に、黒いマントを翻した青年が映った。綺麗を通り越し、不健康そうな程に白い肌と、目の下には大きなクマ。灰色の瞳は鋭く、黒髪は夜の闇に溶け込むよう。どこか枯れた雰囲気を出しながらも、整えられた身なりがアンバランスさが不気味な雰囲気を醸し出している。
だが、何より目を引くのは、鎧の胸に刻まれた銀の紋章……それは公爵家のものであった。
男の名はアルヴァン・クローヴェル――「冷血公爵」と恐れられる男。
リリエッタの唇が震える。
「助けて……ください」
その言葉を最後に、彼女の意識は闇に落ちた。
アルヴァンは倒れた少女を見下ろす。ボロボロのドレス、傷だらけの足。そして、わずかに覗く青と金の瞳。
オッドアイ――不吉の象徴。彼の眉が一瞬動いたが、すぐに表情を消した。
「……全く。面倒なことになりそうだ」
呟きながら、彼はリリエッタをマントで包み、馬車に運ぶ。
馬車が動き出すと、アルヴァンは彼女の顔を見つめる。汚れていてもなお、可憐な顔立ちは色あせる事はない。
なぜこんな娘が森で倒れていたのか? 彼の心に、かすかな好奇心が芽生えた。
だが、それをすぐに打ち消す。
「どうせ、貴族の策略だ。関わらなければいいものを……」
それでも、彼の手は無意識に彼女の冷たい手を握っていた。
馬車は霧深い森を抜け、クローヴェル公爵領の城へと向かって走る。
リリエッタの運命は、ここで新たな一歩を踏み出す。
これは彼女の笑顔が、冷血と呼ばれる男の心を溶かし始める運命の始まりである。