進路希望を「先生の旦那さん」と書いたら、本当に結婚させられた
『ピーンポーンパーンポーン。3年4組河合春高くん、至急生徒指導室まで来て下さい。繰り返します――』
とある平日の放課後、俺・河合春高は校内放送で生徒指導室に呼び出された。
何だろう? 全く身に覚えがない。
自分で言うのもなんだが、勉強はそこそこ出来る。これでも定期試験ではいつも10位以内に入っているくらいだ。
目立ちたくない性分なので、問題行動も起こしていない。
だから、呼び出される理由なんてない筈なんだけどな。そう思いながら生徒指導室のドアを開けると、中では担任の秋山楓先生が俺を待っていた。
「えーと……失礼しまーす」
生徒指導室の中に入ると、秋山先生は目の前に置かれている椅子を指差す。……あっ、はい。そこに座れってことですね。
俺は指示された通り、椅子に腰掛ける。そして、
『……………………』
およそ十数秒、沈黙の時が流れた。
「……あのー、先生? どうして俺は呼び出されたんですかね?」
沈黙に耐えきれなくなり、俺は恐る恐る秋山先生に尋ねる。
「どうして? 本当にわからないのかしら?」
言いながら、秋山先生は一枚のプリントを差し出してきた。
プリントの表題には、『進路希望調査』と書かれている。……あっ(察し)。
「進路希望調査、出してないの河合くんだけなんだけど」
「……すみません」
現在高校生三年生の俺には、目下進路という難解な課題が与えられている。
文理選択こそ三年生に進級するタイミングで済ませていたけれど、具体的にどの大学に行きたいのかはまだ決めていなかったのだ。
だから進路希望調査も提出出来ておらず、「また明日で良いや」を毎日繰り返した結果……お呼び出しという現状に至ったというわけだ。
「もう受験生なんだから、本気で進路について考えなさい。……と、教師である私は言うべきなんでしょうけど、ぶっちゃけそんなのどうでも良いわ。私が困るから、テキトーな大学の名前書いて早く出しなさい」
「……先生の立場で、その発言はマズいんじゃないですかね?」
「私自身高3の秋くらいまで志望校を確定させてなかったし、自分がやっていなかったことを生徒に対してあまり強く言えないのよ。……あっ、今の発言はオフレコね」
「内緒」と言わんばかりに、秋山先生は人差し指を唇に当てる。
微かに笑うその姿からは、大人の魅力が滲み出ていて、思わずドキッとしてしまう。
秋山先生って、男子生徒から凄え人気あるんだよな。その理由が、わかる気がする。
「だからほら、どこでも良いから大学名書いちゃいなさい。なんなら、私が代わりに書いてあげましょうか? えーと……一番近場の女子大で良い?」
「良いわけないでしょ。アホですか、あんたは」
おっと、いけない。うっかり担任をアホ呼ばわりしてしまった。
秋山先生から睨まれたので、俺は即座に視線を逸らした。
「じゃあ、早く書いて」と正論と共に進路希望調査を突きつけられ、俺は考える。
知ってる大学名を書くだけなら、簡単だ。10秒もしないで終わる。
でも……どうせなら、秋山先生を少し困らせてやりたいな。ふと俺の中で、そんな悪戯心が芽生えた。
(……ていうか、別に進路希望って、進学だけに限った話じゃないよな?)
進学校だから大学受験が一般的になっているだけで、就職という選択がないわけじゃない。もちろん、その他の選択肢も。
その瞬間、さながら神の啓示のごとく、俺の頭に最適解が思い浮かぶ。
俺はニヤつきながら、その最適解を進路希望調査に記入した。
「出来ました」
俺は秋山先生に、進路希望調査を手渡す。第一希望に『先生の旦那さん』と書かれた、超絶ふざけた進路希望調査を。
どうだ。テキトーに書けというから、言われた通りテキトーに書いてやったぞ。説教覚悟で、俺はドヤ顔をする。
揶揄い100パーセントの進路希望調査を受け取った秋山先生はというと、
「……」
怒ることも蔑むこともせず、ただ呆然として進路希望調査を見つめていた。
驚きのあまり声が出ないのだろうか? 目だって、見開かれている。
若干頬が赤いように見えるのは、よくわからないけど。
進路希望調査と睨めっこするほど数十秒。秋山先生は、ようやく口を開く。
「……君、誕生日いつ?」
ようやく発せられた言葉は、叱責ではなく質問だった。しかも理解不能なやつ。
誕生日? 今それを聞く必要があるのだろうか?
脳内にはてなマークを浮かべながらも、一応聞かれたことには答える。
「5月15日ですけど?」
「そう……」
……えっ、それだけ? 本当に怒られないの?
その後「帰って良いわよ」と言われた俺は、結局「冗談ですよ、てへっ!」と白状するタイミングを完全に逸してしまった。
◇
放課後。
帰宅した俺を待っていたのは、母親からの「おかえり」ではなく「おめでとう」だった。
「おめでとう! 春高、本当におめでとう!」
「……いや、今日俺の誕生日じゃないんだけど?」
今は7月。俺の誕生日である5月15日は、随分前に過ぎている。
「もうっ、とぼけなくても良いのよ! それとも、照れくさいだけかしら? ……結婚おめでとう! 母さんは心から嬉しいわ!」
……結婚? 母さんは一体何を言っているんだ?
彼女いない歴=年齢の俺が、結婚なんてするわけないだろ?
妄想に歓喜している母親に現実を突きつけようと口を開いたその時、玄関のチャイムが鳴った。
帰宅したばかりで丁度玄関にいた俺がドアを開けると、そこに立っていたのは……秋山先生だった。
「……先生?」
秋山先生はチラッと俺を見て、すぐに視線を母さんに移す。そして深々とお辞儀をした。
「ご挨拶に来ました、コーチ」
「もうコーチじゃないでしょ?」
「あっ、遙さん」
「そうじゃなくて」
先生は「はっ」となる。因みに遙というのは、母さんの名前だ。
「……お義母さん」
「はい、よくできました」
恥ずかしそうに母さんを「おかあさん」と呼ぶ秋山先生と、それに対して満足そうに何度も頷く母さん。……うん、全く意味がわからない。
「おい、母さん。どうして秋山先生が、母さんを「おかあさん」と呼ぶんだ? まさかとは思うが……実は秋山先生が俺の姉とか、そういうオチじゃないよな?」
「そんなわけないでしょ。楓ちゃんは姉じゃなくて、あなたのお嫁さんでしょ」
「あー、成る程ね。お嫁さんね。…………って、お嫁さん!?」
恐らく俺は、ここ数年で一番大きな声を出して驚いた。
「先生が俺のお嫁さんって、どういうことだよ?」
「どういうことも何も……あなたが楓ちゃんにプロポーズしたんでしょ? 「楓ちゃんの旦那さんになりたい」って」
母さんのセリフに合わせて、秋山先生が進路希望調査という物証を俺に見せてくる。……もしかして先生、そのおふざけを本気にしたの?
「それは冗談っていうか……。そもそも先生は結婚相手が俺で良いのかよ? 母さんは認めるのかよ?」
「認めるも何も、そういう約束だからね。だって――」
◇
母さんと秋山先生は、テニスのコーチと生徒という関係だったらしい。
秋山先生が高校生の頃、特別コーチとして一年間だけ母さんが指導していたとか。世間とは、狭いものである。
今でこそ完全無欠な秋山先生だけど、当時はテニスの実力もメンタルも未成熟で、よく試合に負けては落ち込んでいたらしい。
「どうせ、自分なんて」。それが先生の口癖だった。
ある時練習試合でボロ負けして抜け殻のようになった先生を、母さんは自宅に招いたことがあった。その時、先生は俺と初めて会ったらしい(俺自身、全く記憶がない)。
当時小学生だった俺に、先生は寂しそうに微笑みかける。
「君は自分が好き?」
「ん? そりゃあ、好きだよ」
「そっか。即答できる君が、凄く羨ましいよ。どうせ私なんて……どうせ自分なんて……」
先生だって、その質問に即答できたはずだ。だけどその答えは、俺のそれとは正反対のもので。
「私は自分が大嫌いだ」。言葉にしていない先生の本心を、俺は子供ながら感じ取ってしまった。
それはきっと、無意識の行動だったのだろう。俺は先生の頭を、優しく撫でていた。
「君……」
「お姉ちゃんは、自分のことが嫌いなんだね。じゃあ僕が、お姉ちゃんのことを好きになってあげる。お姉ちゃんの「大嫌い」がなくなっちゃうくらい、お姉ちゃんのことを「大好き」でいてあげる」
「……優しいね」
「あっ! お姉ちゃん、信じてないでしょ!」
子供の言葉だからと信じてくれない先生に、当時の俺は拗ねたのだろう。だからつい、口にしてしまったのだ。
「僕、将来お姉ちゃんと結婚する! そしたら、僕がお姉ちゃんのことを大好きでいるって、信じてくれるでしょ!」
◇
「……思い出した」
先生があの時の「お姉ちゃん」だと気付いて、ようやく俺は先生と交わした「約束」を思い出した。
……ていうか、ちょっと待て。もしかしなくても俺は、先生に2回プロポーズしたことになるのか?
再確認して頭を抱える俺を、先生は不安そうに覗き込む。
「河合くんは……私と結婚するの、嫌かしら?」
「嫌っていうわけじゃないですけど、俺にとって先生は先生ですし、あまり現実味がないというか……」
先生を性的な目で見たことはないと言えば、嘘になる。
だってめっちゃ美人だし、スタイル良いし。言動が時々エロいし、近くに寄ると良い匂いするし。思春期の男なら、誰でも邪な感情を抱くっつーの。男子高校生舐めんな。
でも、俺と秋山先生はあくまで生徒と教師だ。その枠組みが、先生への感情を羨望に留まらせる。
だから、いきなり結婚と言われても……。
「あの約束は、子供の頃の話だ」、「進路希望調査だって、ふざけて書いたものだ」。喉まで出かかったセリフを押し留めたのは……秋山先生の涙だった。
「わかってる。河合くん……ううん、君が私をそんな風に見ていないって。でも、これだけは知っておいて欲しい。君が私を大好きでいてくれると信じ続けたから、私は自分が大嫌いだってどうでも良いと思えた。君の大好きが、私の大嫌いをかき消してくれた。だけど、だけど……」
秋山先生はまだ未熟な女子高生のように、その場で膝を抱えてうずくまる。そして、あの一言を口にするのだった。
「どうせ自分なんて……」
俺は反射的に、先生の頭を撫でていた。
秋山先生は、完璧な人なんだと思っていた。強い人なんだと思っていた。
きっとそれは、間違っていないんだと思う。大人になった彼女は、強く完璧な女性になった。
そんな強くて完璧な彼女を支えていたのは、他ならぬ俺だったのだ。
その事実が、無性に嬉しく感じられて。これまでだけじゃなく、これからも支えたいと思えてしまって。
……認めよう。
今この瞬間俺は、秋山先生を教師としてではなく、一人の女性として見ている。
「……君」
「先生は、今でも自分のことが大嫌いなんですね。仕方ないから、先生が自分を好きになれるまで、代わりに大好きでいてあげますよ」
「それって……私と結婚してくれるってこと?」
「……」
俺は答えなかった。
しかしこの沈黙が意味するのは、否定でなく肯定だ。照れくさいんだよ、馬鹿野郎。
「〜〜っ!」
秋山先生は、勢いよく俺に抱き着く。
「ごめんなさい。私が自分を好きになることは、一生ないみたい」
「……俺もそう思いますよ」
俺は自身の親指で、先生の涙を拭う。
「いい加減泣き止んでくださいよ、先生」
「もう先生じゃないわよ」
「……楓さん」
「はい、よくできました」
うん、すっごいデジャヴ。
翌日、俺は楓さんに真面目に書いた進路希望調査を提出した。
俺の志望学部は「教育学部」。楓さんと同じ職場で働くのが、今の俺の夢だ。
さて、進路希望調査を出し終えたことだし。真面目に書いたもう一枚の紙を、楓さんと二人で提出しに行くとするかな。