episode7 飛鷲青年伝 その弐
ところ変わって、街のはずれの小さな廃工場跡。
門は固く閉ざされ、壁の上には有刺鉄線が走って、勝手に入れないようにされているのだが、乱暴者の多いジロウとテツのグループ。有刺鉄線をペンチで切り落として壁によじ登れるようにし、門の鍵も電動ドリルで無理割り壊し。
そのおかげで廃工場跡はしっかりとヤバげな連中がたむろするようになった。もっとたちが悪いのは、街のはずれで人の行き来も少なく所有者も夜逃げし責権者も全然来ないから、皆調子に乗って、不良のたまり場と化す一方である。
廃工場の中はほの暗く、むせるような古びた機械油の匂いがし、錆びだらけで変色した機械が無造作に置かれる中、ジロウとテツはバイクを停め子分の用意したパイプ椅子に腰掛けタバコをふかしている。周りには地べたに座る子分ども。
「ポリ公が来るのがもうちょっと遅けりゃ、ゴネリュウなんざぶっちぎりだったぜ」
馬鹿笑い響く中、ジロウとテツが自慢げに自分の走りを子分どもに話しこんでいる。子分どもも、親分の自慢話を自分の自慢話のように聞いて、やんややんやの喝采を送っている。
「で、これからあのクソ五音の野郎はどうするんで?」
子分がわくわくしながらジロウに聞く。ジロウ一派の連中はゴネリュウのことを嫌っている。相当嫌っている。良い子ちゃんぶって生意気だ、というお約束の理由で。
「そりゃおめえ、わかりきったことを聞くんじゃねーよ。ぶっ潰してやらあ」
わあ、ともうゴネリュウを潰したかのような歓声があがる。
「あいつの王子様ぶったツラは前から気に入らなかったんだ。それでもまあ今までこらえてやったが、もういいだろう。オレたちの怖さを思い知らせてやるぜ」
ギャハハ! という馬鹿笑い。その馬鹿笑いをする大口はまさに、馬鹿笑いするためにあるようなほど開かれて、普通の人が聞けば不快に思うようなほど下卑た馬鹿笑いだったが、ジロウ一派にはとても心地よい笑い声のようで。みんなジロウと一緒になって馬鹿笑いをしている。
ジロウがそんな馬鹿笑いをしたときが、獲物が潰されるときだと皆知っているからだ。しかしテツは押し黙って馬鹿笑いを聞いているだけだ。
じっと、思案にくれるように口を真一文字に結んでいる。かと思えば。
「おいジロウ、オレのことも忘れるなよ」
とまるで空気を読んでいないような反応をする。そんなテツだけこの一派の中で妙に浮いていた。
ジロウと違いテツは古風な不良、番長とでもいおうか、そんな風格を持っていた。それがどうしてジロウとつるんでいるのだろうかと言えば、どうこう言ってもバイクで走ることをメインにしている走り屋の端くれ。昔テツはジロウと張り合って、負けてしまってその傘下に入った。子分とはいえ速く、喧嘩もそれなりに強いのでナンバー2待遇だ。
好きではないヤツだが、負けたら子分になるという約束を交わした以上、それは果たさねばならない、ということでテツはジロウとつるんでいたりする。もちろん、ずっとこのままでいるなどとも考えていない。
(ゴネリュウが片付いたら、今度はオレがヤツ(ジロウ)を潰してやる)
ジロウもそんなテツに感づいているが、まあそれはテツが下克上とバトルを挑んだときの話だ。
で、どうやってゴネリュウを潰すかということに話しは及んだ。
「そうだな、まあ横に並んで、ケリでも入れてやるか」
わはは! と馬鹿笑いが響く。けっ、と面白くなさそうなテツ。オレたちゃ走り屋だろうが、と心の中で毒づく。
「そうそう、ゴネリュウの次にあの生意気な若造もやっぱりやるんでしょ?」
生意気な若造、タケシとヒデのことだ。ゴネリュウを尊敬し、追い付け追い越せで頑張っている爽やかスポーツ好青年。それも不良が嫌うタイプの人間だ。
だがジロウは首を横に振り、
「目じゃねーよ。相手にするだけ無駄だ」
と言う。
また、わはは! という馬鹿笑い。もう馬鹿笑いしっぱなしだ。
(ふん、じゃ次はオレってか)
皮肉っぽくほくそ笑むテツ。
ともあれ、黒沢峠に一波乱ありそうなのは確かだった。
そうとも知らず、甘いひと時をすごしているゴネリュウと楓子。
予約していたホテルの最上階にあるレストランで夜景を見ながら、ワインの入ったグラスを心地よさそうに空けている。その、紺のスーツと青いネクタイ姿のゴネリュウは、普段峠で見ているゴネリュウと全然雰囲気が違っていた。
気品がある。
今のゴネリュウから、黒沢峠最速の走り屋であることを見つけ出すのはとても困難なことだ。
なんでも父親は数学者で大学教授というエリートの血筋。一時は父親に反抗していた時期もあり、そのときにバイクが好きになった。
さすがに今は落ち着いているものの、もちろんバイク好きは治まっていない。おかげで父親は今でも気が抜けない。
そんな父親と約束していることがある。
イッパツ廃車になるような事故を起こしたら、バイクをやめる。
ゴネリュウはやっぱり良家の家の人で、律儀で。もしものときを考え、演劇というもう一つの趣味を見つけ、ロミオ様を演じることになったのだった。
(イッパツ廃車になるほどの事故を起こして、果たして無事でいられるかどうか)
と思いつつも、走りたいという気持ち、父親に心配かけたくないという気持ち、その相反する気持ちが、胸にわずかばかりの葛藤を生んでいた。
「どうしたの?」
楓子の声にはっとするゴネリュウ。ぼお、と夜景を眺めていて、目の前の彼女には目もくれない。楓子も場所をわきまえ、さすがにジュリエットを演じたときのようなドレスではないが、落ち着いた紺色のこざっぱりとした洒落たスカートスタイルだ。
「あ、ああ。ちょっと酔ったみたいだ」
「うそ」
「わかるのかい?」
「ええ。酔ったんじゃなくて、お昼走って疲れてるんでしょ」
図星だった。今日は一段と気合を入れた上にパトカーにも追いかけられて、思った以上に気力も体力も使ってしまった。
「ねえ」
「なんだい」
「バイクって、楽しいの?」
またいきなりな質問だった。ぎくっとしたゴネリュウは、
「ああ楽しいぜ」
と軽く応えて、他の話題でかわそうとしたが、楓子は逃がさない。
「弟もはまってるし、妹も影響を受けてはまっちゃって。楽しそうなんだけど、はたから見てたら、やっぱり……」
「心配か?」
「うん」
意外な答えだった。自分に対してだけではなく、ヒデに対しても同じ思いを抱いているようだ。ヒデから聞いた楓子像は、キツい女(事実その通りだが)というものばかりだったから、姉弟仲はあまり良くないと思い込んでいたし。こりゃひょっとしたら仲介に入らなきゃいけないときがあるか、とも思っていた。
「よく聞くしね。家族の誰かがバイクで死んだ、て。いえ、下手したら誰かを死なせることもあるしね」
「……」
楓子に言葉もない。それは、バイクに乗っている以上、いや交通社会に出る以上は避けては通れない問題だった。一見馬鹿やってるような走り屋でも、長く続けていれば少しくらいはそれを胸に抱えて葛藤している。しかし、その葛藤があるから、走り続けられるともいえる。
楓子は、疲れている様子のゴネリュウを、潤んだ目で見つめて。
「私は、あなたにはそんなになってほしくはないわ」
そっと、テーブルの上に置かれた彼氏の手に、自分の手を重ねる。
「皮肉なものね。同じ劇団の人を好きになるならともかく、それが弟と一緒に走ってる走り屋だったなんて」
ゴネリュウ無言。もちろん隠していたわけじゃない。バイクで劇場に来たこともある。しかし、普段が真面目で礼儀正しいので、バイクに乗っている以上のことは考えも及ばない。
それだけに、知ったときは驚いたものだったし、心配の種を増やすことになってしまった。
そのころヒデはキミを従え自宅へと向かっていた。
あの時250キロくらい走ったが、キミの家も同じくらい走らないといけないらしい。もう陽は落ちている。メシを終えたとき、どうするんだと聞けば。
「さあ、どっかテキトーなところで寝るよ」
という。いうなれば野宿だ。
ヒデのあの時と同じように真夜中に出て、走り屋の集まりそうな峠を片っ端から当たってゆくつもりだったらしい。幸い一発目は黒沢峠でヒデもいたから、うろうろさせられずに済んだのだが。帰りのことまでは考えてなかったようだ。
ヒデの場合バトルが終わってすぐに帰ったから泊まらずには済んだものの(それでも相当掛かった)、キミの場合無理矢理にヒデと一緒にメシを食ったから、出立はどうしても遅くなる。それに疲れてもいるので無理は出来ない。
かといって、金もない。キミとて働いてはいるのだが、カタナの修理で貯金を使い果たしてしまった。にもかかわらず、ヒデを追ってきたのだ。財布の中にはガソリン代と軽いものを買う分しかない。
(無茶しやがるぜ)
苦虫を噛み潰したような顔をし、食ったメシが美味かったことも忘れ頭を抱えた。
「心配しなくてもいーよ。伊達にカタナ振り回してないって」
というものの、女一人が野宿などいくらなんでも心もとない。
(こいつは、馬鹿か)
と苦々しく思いつつも、そんな無茶をしてまで自分を追いかけてきたキミが、少しは健気に感じられ。
こうなればやむをえん、と自宅に泊まることをすすめた。
「マジで? あたしは安くないよ」
谷間を見せて挑発したのに、冷たくそんなことをいう。いやそれはいい。
「あのな、知り合いの女を野宿させたなんて周りに知れ渡ったらオレが何ていわれると思う? かといって宿賃出せないのはオレも同じだしよ……」
「だからウチに泊まれって? ふん、セオリーだよね」
「セオリーってなんだよ」
「さあ、自分の胸に聞いてみな」
「こ、こいつ」
かっ、となって拳を握りしめたが、まさか女を殴るわけにもいかない。はあ、と怒りを吐き出すようにため息をついて、姉がひとりに妹がふたりいることを告げる。そこで、初めて会ったときに上にひとり、下にふたり、女兄弟がいることを話したことを思い出した。
「そういえば、そうだったね」
家族の者がいれば、やましいことはしてこないだろう。それにやっぱり、床に転がってもいいから、ちゃんとした屋根のある部屋で寝たかった。その誘惑は疲労を味方にしてますます強くなってゆく。
「な、悪いことはいわねえから」
「わかったよ。でも、恩に着ないよ」
「ああ、オレも恩に着せるつもりもねえよ」
こうして、キミはヒデの家に泊まることになった。
途中、交差点で赤信号。ヒデにキミが並び、シールドを開けて話しかけてくる。
「ねえ」
「なんだよ」
「お風呂使ってもいい?」
「い、いいけど……」
「なんか食わせてくれる?」
「さっきメシ食ったじゃないか」
「そうだけど、また腹が減ったの」
「もう。妹に使っていいのを聞いて、それでなんか作れよ」
「えー、作ってくれないの」
「あのな、お前オレたちを何だと思ってるんだ」
最初あれだけ断っていたのに、いざ「うん」といった途端に、これだ。
「まったく、調子のいいヤツだな」
「ふん、あたしゃそれで世の中渡ってるのさ」
青になって、発進。ヒデが前、キミ後ろ。
ミラーを少し覗いて、鼻で大きく息を吐く。なんともお転婆というか、天邪鬼というか。こんなんで世の中渡っていけるんだろうか。
「オレがついてないと、道踏み外しかねんな」
ふと、ぽそっとそんなことをつぶやいたのは自分でも気付かなかった。
同じ時間、一旦帰宅した三木眞明ことマサアキだが今は七人寺峠にいて、軽く流していた。
ハチロクレビンの中で、女性ボーカルの歌声が切なげに響き。
「こっこいいなあ」
と走りながらつぶやいている。
そうとも知らず、リンとタケシはまだショッピングモールにいて。モールにあるシネマコンプレックスで映画を観ていた。
観ている映画は昔の時代劇のリメイク作品。前から気になっていたから観ようよと、とリンがタケシを誘ったのだった。
オリジナルに比べて二枚目過ぎる主人公に、リンはご満悦だ。
(カレもあと数年して、こういう風になったらいいのにな)
とか考えている。
ところが隣のオトコノコときたら、眠たそうにあくびをしている。
(疲れた)
ただそれだけを思い、睡魔と必死に格闘している。それもそうだ、峠でひたすら走って、気力も体力も相当使ってしまった。
主人公が椿を見上げて名乗るシーンでは、疲れているあまりぼけて、
「オレは鷲津、鷲津タケ……」
と主人公につられて名乗りかけ、慌てたリンに口をふさがれてしまう始末。しかもその手がまたいい匂いがするもんで、それがまた眠気を誘う。
おかげでリンは映画に集中出来ない。
(しまったなあ。悪いときにタケシ君を誘っちゃった)
心中申し訳ない気分。
あれだけ必死に走ってたのを知ってるのに、一緒に食事するのはまだしも映画を見に行こうと誘ったのはいささか軽率であったか。
走り終えて気が抜けて、シートに座って夢うつつのタケシ。しかたなく、リンはそのまま寝かせることにし。
映画を観ながらもちょいちょいとその横顔を覗く。そうすれば、ついに目を閉じ、夢の世界の住人のタケシ。もはや映画の声も入っていないようだ。
(疲れているのに、付き合ってくれて)
隙だらけに寝入る横顔を見ていると、タケシはなんのかんのでまだ十九なのだというのがわかる。
きょろきょろとまわりを見回す。自分たちは最後尾にいて、人はほとんどいない。
(ごめんね。そして、ありがとう。これはほんのお詫びとご褒美)
そっと、タケシに軽く口づけする。これでサードキスになる。
しかしほんとに軽くなので、タケシは気付かず寝息を立てている。リンのみが知るサードキス。くすりと笑ってその寝顔を見て、画面に向き直る。
(まあふたりの間には、ひとつやふたつ秘密があるものよ、うふふ)
映画が終わったところでタケシは目覚め、リンと肩を並べて駐車場に向かう。
「あの、ごめん」
とかいって、謝っている。せっかく誘ってくれたのに、途中で寝てしまったことを悔いているようだ。しかしリンは気にしてないどころか、にこにこと笑って。
「いいよ、気にしないで」
と軽く受け流し。また顔をにこにこさせている。
その寛容な心が嬉しくて、タケシもつられて笑顔になる。リンの笑顔の裏に、秘密が隠されているとも知らず……。
それからまた数日は過ぎる。
ヒデは自宅にキミを泊めてやったのはいいが、妹からは白い目で見られるしデート帰りの姉からはからかわれるしで散々だ。
もちろん同じ部屋では寝ず、キミを自分の部屋で寝かせ自分はリビングルームのソファで毛布をかぶって寝た。それでもゆきずりの女を自宅に連れ込むヒデの神経はどうであろう。
長期の海外出張にいっている両親には黙ってもらえたものの、しばらくは三姉妹からの攻撃に耐えなければならない。
朝にキミが帰るとき、
「世話になったね」
というやヒデのほっぺにちゅうをした。
ヒデは一瞬にして凍りついたのはいうまでもない。こういう場合ほっぺに口紅のあとがつくのだが、キミは化粧をしないのでそれはなかったものの。
そのキミの顔はツンととんがっていたが、赤くなってもいた。
そのせいか、どうもこのごろのヒデは精彩を欠く。タケシの挑発にも乗ってこず、上の空でバイクを転がしているだけだった。
これにはゴネリュウも不思議がり、しきりに首をかしげていた。
(なにがあったんだ)
と考えてもわかるわけもなく、まあそのうち治るだろう、とほっとくことにした。が、聡いところのあるリンは、それが恋わずらいではないかと、なにげに勘づいているようだ。
今日も黒沢峠で、みんなの後ろをマイペースで走っているヒデ。そのペースはコーナーを攻めるには程遠く、もはやツーリングだ。
(あのカタナのコを待ち焦がれているんだ)
と思うと、ちょっと、うるっと来ないでもない。
あれからキミは姿を現さない。もう来ないのだろか、なら自分から行こうか、とのんびり走りながらヒデは考えている。
それを見てほくそ笑むヤツがいる。ジロウだ。
こないだまで派手にやりあっていたのが、ウソのように今は気が抜けている。ヒデだけじゃない、タケシも、ゴネリュウも。
峠で最速を競う三人のうち一人でも精彩を欠けば、残りの二人も同じように気が抜けるらしい。本気でないヤツを相手にしても面白くない、というところだろうか。
このごろどこか黒沢峠には、ゆるんだ空気が漂いはじめていた。その緩んだ空気を察し、
「だから良い子チャンは嫌いさ」
とジロウはいう。
だからこそ潰せるのに、それをしない。何が正々堂々だ、ふざけんな。ときたもんだ。
ジロウにとって、まさに好機到来。ゴネリュウを潰すなら今だ。
へへへ、とほくそ笑みながら愛機にまたがり、走り出す。後ろにテツが続く。
前のようにゆっくり走ってゴネリュウを待つ。しばらくして、ミラーにイエローのGSX-R1000があらわれた。その後ろには、ブルー・ホワイトのYZF-R6。タケシだ。
二台でつるんで走っているようだ。ってことは、ゴネリュウは本気じゃない。本気なら、タケシがついてゆけるわけもなかった。ちなみにヒデは今は駐車場で空を見上げて感傷にひたっている。
(ジロウ?)
前に現れたCBR900RRとZX-9Rを見て、またこないだのように、やろうってのか。と思ったが、意外とあっさりと道を譲った。
あれ、と思いながら追い抜いてゆく。タケシも続いて抜いてゆく。
「なんだなんだ、ヒデよろしくツーリングかよ」
一瞬後ろを振り向きジロウたちに悪態をつきつつ、ゴネリュウについてゆく。本気でないのか、ついていける。こっちは九分で走っているけど。
と思ったら、後ろからけたたましく鳴り響くマシンサウンド。
「そういうことか!」
今度は後ろからあおろうってのか。やれるもんならやってみやがれ。抜けていた気が一気に身体に戻ってくるような、内に力がみなぎってくる。
ゴネリュウも後ろの気配を察して、本気を出そうとする。しかし、なぜかこんな時に、
「皮肉なものね。同じ劇団の人を好きになるならともかく、それが弟と一緒に走ってる走り屋だったなんて」
という、楓子の言葉が思い浮かんだ。あのとき楓子は、ゴネリュウのことが心配でたまらない、と打ち明けた。それ以来、どうも力が出し切れないような気がする。
(楓子……)
心でつぶやく。
力はますます入らない。
これに驚いたのはほかならぬタケシ。ヒデもどうかしてしまったばかりか、ゴネリュウも同じように、どうかしてしまった。と思ってしまうような、気合のなさ。
「な、なんで」
とつぶやいても、変わらない。前がペースが上がらなければこっちも上げようがない。抜いていこうか、と思ったが、ゴネリュウを先輩として信じるあまり、抜けない。
晴れていた空には、いつの間にか雲が幾重にも重なって太陽を覆い隠してしまっていた。まんま、雲行きがあやしかった。
と思う間もなく、びゅん! とジロウとテツがタケシを抜いた。かみそりですぱっと切られるように、なすすべもなく……。
「あ、くそっ!」
やられた! 次はゴネリュウさんだ。
さっき自分を抜いたジロウとテツが、ゴネリュウを追い掛け回し抜こうとしている。
ゴネリュウは抜かれまいと意地を張るのかと思いきや、あっさりとジロウに抜かれてしまった。
「そんな馬鹿な!」
自分ならともかく、ゴネリュウさんが。信じられなかった。この目で見ても信じられなかった。
テツは何を思ったのかゴネリュウを抜かず、そのまま後ろ。
「はっはー! どーしたどーした王子様よう」
悪態をつきながら後ろを振り向き、中指を立てる。あからさまな挑発。さすがに力が入らないゴネリュウも、これには我慢ならず。
「調子こいてんじゃねえぞ!」
と叫び追撃を開始する。
前に向き直り逃げようとするジロウ。それを追うゴネリュウ。
コーナーを数個クリアしてゆき、その間もゴネリュウはぴったりと後ろに着けて抜く機会をうかがっている。が、どうもペースがさほど上がっておらず、ジロウは本気ではないようだ。
相手が何を考えているかなど知らず、挑発に乗ってしまったゴネリュウはしつこいくらいにCBR900RRをあおり倒している。
(なんか、嫌な予感がする)
ごくっとつばを飲み込む。ゴネリュウの後ろにつけるテツは、黙って着いて行っている。仕掛ける気配が感じられなかったが、それだけに何を考えているのかがわからず、なんだか嫌な予感を感じさせた。
このまま、何事もないまま、峠を往復し、駐車場を折り返してゆく。
ジロウが先頭、以下ゴネリュウ、テツ、タケシ。
そこにいた連中はまたこないだのようなバトルが繰り広げられるのか、と山々に響きわたるマシンサウンドを耳に、はらはらしながら手に汗握る。
駐車場のヒデは、相変わらずうわの空で、しゃがみこんで黙って四台と四人を見送った。四台と四人の様子を見ていたリンは、すぐさま愛機に乗って着いていこうかと思ったが、なぜだか曇り始めた空を見上げて、ためらい、やめた。ちなみにマサアキは今日はホームコースの七人寺峠だ。
ともあれ、なんだか嫌な予感がする。
(タケシ君、気をつけて)
どうしたんだろう、と思いつつ、タケシの背中を見送った。
そのとき、遠くからマシンサウンドが響いてくれば、それはシルバーのカタナだった。
ヒデはそれに気付くやいなやがばっと立ち上がって、カタナが駐車場に入ってきてCBR600RRの横に着けて停まるのを見届けた。果たして、メットを脱げば、それはやはりキミだった。
ヒデは弾かれたように、キミのもとへと駆けつける。
駐車場でのことなど知らず、四台は熾烈とは言いがたいどこか本気でないバトルというか、隊列を組んで走っている。
先頭は後ろを引き離そうとしない、が抜かせもしないいやらしい走り方だ。
(何を考えてやがる)
しかし、その背中からはわかりようもなかったし。ヘルメットの中でほくそ笑んでいることなどもっと知らない。
かと思うと、何を思ったかすぐ後ろにゴネリュウが着けているのもかまわず、コーナーのかなり手前からの突然のブレーキング。
ぱっと灯るブレーキランプ。それにまっしぐらに突っ込むGSX-R1000。
「なにぃ!」
あまりのことにジロウのブレーキタイミングが信じられないながらも、イン側に、どうにかそれをかわそうとしてコーナーに入り。
コーナー立ち上がり、タケシは信じられないものを見た。いや、信じられないのはジロウとテツも同じだった。
イエローのGSX-R1000は、立ち上がりで溢れんばかりのパワーを路面にスルーされてスライドしたかと思った刹那、
ぶぅん!
とひっくり返って暴れてライダーを投げ出し、マシン自身はごろごろ身を潰しながら破片を撒き散らしながら転がってゆく。
ライダーは路面に叩きつけられて、これもごろごろところがってゆく。
(マジか!)
三人が同時にそう思い。
ジロウとテツは咄嗟にGSX-R1000とゴネリュウを避けて走り去って、タケシは慌てて停まって、ゴネリュウのもとへと駆け寄る。
「ゴネリュウさん、ゴネリュウさん!」
大声で叫ぶものの、うつぶせに倒れた身体から返事はなかった。どうしたらいいのかわからなかった。そのとき、耳に入り込むマシンサウンド。誰かが来ている。まずい、この事故のことを知らせて停めなきゃ、と音の方へ駆け寄ろうとするがその前に音の主はやってくる。
それはキミのカタナとヒデのCBR600RR、リンのアルファロメオスパイダーだった。駐車場でヒデと再々会を果たしたキミは、メットを脱いでヒデに自分が来たことを告げるとともに、またメットを被って走り出し。ヒデは慌ててそれを追い、リンはこりゃ面白そうだと着いて来たわけだが。
まさかゴネリュウがクラッシュして倒れこんで、タケシがおろおろしている場面に出くわすなど思ってもおらず、皆一斉に急ブレーキをかけ危うく二次災害を起こそうとしていた。
気の抜け気味だったヒデもさすがにこれには驚き、慌ててゴネリュウのもとに駆け寄る。タケシははっとしたようにGSX-R1000を起こそうとする。
「救急車救急車!」
リンは急ぎ携帯電話を取り出し119に通報する。じれったそうに、黒沢峠のどこそこと通話先に告げている。
キミは突然のことに呆然として、目の前のことを眺めるしか出来なかった。かつての自分のクラッシュを思い出してしまったらしい、身体には鉄の芯でも入ったのか硬直状態だ。
なによりゴネリュウが動かないのが、気がかりだった。最悪の事態が脳裏をよぎる、その時、かすかにうめきが聞こえた。
「ざまあ……、……ねえぜ」
と聞こえたような気がしたが、また意識はなくなった。
夢中で応急処置を施し、それから何がどうなったのかわからないまま、駆けつけた救急車を見送って、たたずんでいた。イエローのGSX-R1000は、破片を足元ならぬタイヤ元にかき集めて、道端でぐしゃぐしゃになったボディをガードレールにもたせかけられていた。
救急車と入れ違いに、一般車が脇を通りすぎてゆく。一般車の中から、タケシらやぐしゃぐしゃになったGSX-R1000に、突き刺すような冷たい視線が送られるのがわかった。
「暴走族が事故ってるよ。まったく迷惑だな」
そんな言葉が、その場にいた四人の脳裏にひらめく。
そうだ。どう言い訳しようが走り屋は法律違反の反社会的行為だし、暴走族で、どう贔屓目に見てもただのお遊びでしかない。
普通に考えれば遊びに命を懸ける馬鹿もいないだろうし、それで事故っても自業自得で誰も同情なんかしてくれやしない。
一般車を見送って、タケシは自分が今まで夢中になってしていたことがなんなのか痛感させられて、呆然とたたずむしかなかった。
ヒデとキミも同じように、愛機のぞばで立ち尽くす。すると、ぽつ、ぽつ、と雨が降り出した。
急いで幌を綴じるリンだったが、バイク乗りたちが雨に打たれても動かないのを見て慌てて、
「雨だよ」
と声をかけるものの。バイク乗りたちは無反応。まるで魂が抜けたようだった。いやリンとて魂が抜けそうなのをこらえていたのだが、年の功で持ちこたえられている。
しかし三人は若い分、一度魂が抜けるとなかなか戻らないようだった。
雨の中を、数台のバイクが廃工場に吸い込まれてゆく。
ジロウ一派の連中だった。
ゴネリュウがハイサイドでクラッシュしてしまってから雨が降り出し、雨から逃げるように廃工場にもぐりこんだ。
ふー、と一息つきながらメットを脱ぐジロウとテツ。互いに目を見合わせてバイクから降り、子分の用意したパイプ椅子に腰を下ろし。子分の差し出したタバコをくわえ、火をつけ、ふー、と一服する。
「しかしびびったなあ」
「そうだなあ」
ふたりはゴネリュウのクラッシュのことを話し出す。
「まさかいきなりハイサイドかますなんざ、思ってもいなかったぜ」
「まったく。あいつらしくもねえな」
「おかげでオレまで巻き込まれちまうところだったぜ」
(巻き込まれりゃよかったけどな)
とテツが思っているなんて、ジロウは知らない。
雨が屋根を叩く音が、廃工場内にこだまする。空気がひんやりしてくる。
「まあいいや、どの道ヤツにはああなってもらうつもりだったからな」
あの進路妨害は、ゴネリュウを撹乱してクラッシュさせるためだったのだ。もしあそこでハイサイドしなければ、まだまだしつこく食らいついてやったところだった。しかし、まさかいきなりとはジロウとテツも思ってもいなかったので、この結果に半分驚き半分喜んでいる、といったところだった。
勝つためなら手段を選ばない。そこに正義の入り込む余地はなく。勝ってこその力であり、ジロウはその力の誇示に取り憑かれていた。
ゴネリュウを潰す、これ以上の力の誇示があるだろうか。
さる伝説的武道家もいう。力なき正義は無力と。
「これでオレたちに敵うやつはいねえぜ」
ぎゃはは! とジロウは馬鹿笑いをする。子分たちもつられて馬鹿笑いをする。
テツも少し顔をほころばせて笑っているが、内心は、
(さあ次はてめえだぜ)
と思っている。
波乱はまだまだ続きそうで、雨音激しい中、割って入るように馬鹿笑いの声が廃工場の中、高らかに響きわたっていた。
病院に搬送されてから、ゴネリュウは意識を取り戻した。脳には異常なし。右腕を骨折してしまっていたが、それ以外に怪我はなく、一ヶ月弱の入院でいけるだろう、とのことだった。
雨の中をずぶ濡れになりながらタケシ、ヒデ、キミが、そしてリンも病院に駆けつけ。ゴネリュウが生きていることに心から安堵していた。
打ち所が悪ければ、即死もありえたのだ。
しかし、右腕に巻かれた太いギプス。これが物語るもの。
「よお、心配かけて悪かったな……」
意識が戻り、病室に移って、四人との面会で笑顔を見せるゴネリュウだったが。その面持ちは、悲しそうだった。
四人は、ベッドに横たわる男がもうバイクに乗らないだろうということを、その悲しげな面持ちから察し、言葉が出なかった。
ゴネリュウも、わかっている。GSX-R1000が廃車になってしまったことを。
路面に叩きつけられたとき、自分ではなく、マシンの断末魔の叫びを聞いた気がした。そのとき、終わった、と思った。
右腕はリハビリに励めば大丈夫だろう。しかしバイクが一発廃車になるほどの事故をしたら、バイクをやめる。という父親との約束がある。その約束は、守らないといけない。約束を破らないと誓ったから、今までバイクに乗れた、だからなおさら守らないと。
拳をぎゅっと握りしめるタケシ。それを見たゴネリュウは、
「クラッシュしたのはオレのミスだ。誰のせいでもない」
といった。
その瞬間を見ていないヒデとキミ、リンは何のことかわからなかったが、タケシは口をつぐみ、ますます握り拳に力を込める。
そしてやりきれないと、病室を出て、ヒデやキミ、リンが止めるのも聞かず、雨に打たれながら走り出す。
雨のしずくがシールドに叩き潰されてゆく。雨粒がシールドを覆って、風に吹き飛ばされてゆく。
言葉などなかった。
ただ、走った。雨の中を。
それだけだった。タケシが出来るのは、それだけだった。
ゴネリュウクラッシュは、黒沢峠に暗い影を落とした。
今まで守護神のような存在感を示していたものがいなくなって、かわりにジロウ一派が台頭し、峠の雰囲気はめっきり悪くなってしまった。
一体なんでゴネリュウがクラッシュしたのか、ヒデは雨の中突然走り出してそのまま帰ってしまったタケシを翌日どうにか捕まえ、重い口を開けさせて語らせた。
ちなみにキミとは、ほとんど話すことなく、病院で別れた。再々会に浮かれたかったのは山々だが、それどころではなかった。キミもそれを察して、ヒデに少し微笑んで帰っていった。電車で。
雨の中250キロ走るのはきついから、カタナはヒデの家に置いて……。
「あ、あいつらぁー!」
話を聞いたヒデはぶち切れ。
「仇討ちだ、仇討ちだ!」
と大声をあげてタケシに詰め寄った。しかし、
「いや、オレはいい」
と言うではないか。ヒデは耳を疑い、もう一度聞いてみたが、やっぱり同じだった。ますます切れて、さらに詰め寄り、
「お前、ゴネリュウさんがあんなになって、悔しくねーのかよ!」
「悔しいさ。でも、ゴネリュウさんは誰のせいでもないっていってるし、無理に仕返ししなくてもいいんじゃないか。バイクはオシャカでも骨折で済んだんだし」
「そういう問題か! ゴネリュウさんはああいってても、後輩のオレたちがやらないで、誰がやるんだよ! あいつらにあのまま好き放題させるのか!」
「させりゃいいじゃん」
「な、なに……」
タケシは面倒くさそうにため息をつき、よそを向いてほうけた顔をする。
「あの時、悟ったんだよ。オレたちのやってることがどんなことか」
「そりゃどういう意味だ」
「峠で走るなんて意味がないことさ。オレはいままで、峠で速いってことがどこかかっこいいって思ってたけど、違ったよ」
「なにぃ」
タケシの言葉を聞くうちに、ヒデの顔が赤く染まってゆく。今にも殴りかかりそうだ。
「オナニーだよ、オナニー。走り屋は所詮ジコマンオナニーなんだよ。峠で速くたって、それがなんだってんだ。ゴネリュウさんも、これをきっかけにオナニー卒業できるから、かえってよかったじゃないか」
「て、てめえ、マジで言ってんのかよ」
拳をぎゅっと握りしめ、タケシを睨み、いまにもぶん殴ってやろうというとき。はっとひらめくもの。
(こいつ、怖がってるのか)
「てめえ、びびってんだろう、そうだろう。だからそんなことを言うんだな」
「……」
タケシ無言。図星のようだ。
その力のない呆けた顔に、何を言っても無駄そうで。ヒデは舌打ちし、回れ右をしてタケシから離れていった。
話にならない。なら、自分ひとりでやるしかない。
ゴネリュウと付き合っていた楓子は、ヒデから事故を聞いたときはひどく取り乱して、病院にかけつけ。彼氏の横たわるベッドに、すがるようにしがみつき。
「よかった、よかった」
そればかりを繰り返す。
「楓子、悪かったな、心配かけて。もうバイクはやめるから、安心してくれ」
ゴネリュウはベッドにすがりつく楓子の頭をなでながら、優しく語り掛ける。
「オレもヤキがまわってな、コントロールミスさ。おかげでバイクはパー。でもそのおかげで決心がついたよ」
「バイクを、やめる?」
「うん」
うなずく彼氏の横顔。楓子は、もうこれで心配をしなくて済む、と思う一方で、何か違うような気もしていた。
バイクをやめる、というゴネリュウの横顔は、憂いに満ちているようだ。それは事故で骨折もしたから、というのもあるだろうが。女のカンというやつか、他にも何かありそうだった。
ふと、ベッドのそばの棚に置かれているヘルメットに目がいった。頭の塗装は剥げてしまって、ところどころに傷がノイズのように走っていて、痛々しい。
「ほんとうに、バイクをやめるの?」
「ああ、やめる。親父との約束もあるしな」
その言葉を聞いて、言いようのない寂しさを感じて。でもどうして寂しいと感じるんだろう。彼氏がバイクをやめる、心配しないで済むようになる。万々歳じゃないか。だけど……。
「ねえ」
「ん?」
「そのヘルメット、あたしにくれない?」
「え、あ、ああ。いいけど。どうしたんだよ、まさか形見なんて言うんじゃないだろうな。オレはこうして生きてるぜ」
「そうだけど。なんだか欲しくて。あなたがバイクに乗ってたっていうことを、忘れないために」
それを聞き、ゴネリュウは軽くため息をつき、ヘルメットを取って楓子に渡した。
「大事にしてくれよ、ってもうボロボロだけどな」
言いながら可笑しそうに笑うゴネリュウ。それでも、感じた寂しさは消えず。いたたまれなくなって、
「じゃあ、また来るからね」
と言って病院を後にし、家路を急いだ。
ヒデなら何か知ってるかも、と帰宅後に詰め寄って問いただしたが。頑として口を割らない。どうにか吐かせようとするのだが、なかなかラチが明かない。それでもしつこくつめよりながら、数日が過ぎた。
このごろヒデは前にも増して気合を入れて走りに行き、あの事故があったにもかかわらず、えらい頑張りようだ。やっぱりなにかある、と楓子は確信していた。
「なんとか言いなさいよ。ゴネリュウさんになにがあったのよ」
「だから、ゴネリュウさんの言うとおり、コントロールミスだって」
なかなか白状しないヒデ。ええいこうなれば、とやむなくゴネリュウのヘルメットを持ってきて、ヒデに差し出す。
「これが何かわかる?」
「……!」
ヒデ硬直。楓子がゴネリュウのヘルメットを持っていたなんて知らなかった。
「あの人は、もうバイクはやめるって言ってるわ。最速になりたがっていたあんたには、またとない朗報でしょうねえ」
皮肉たっぷりな物言い。まるでヒデがゴネリュウの事故を喜んでいるようだ。
しつこいのに加え、こうまで言われてはさすがに黙っていることも出来ず、
「落ち着いて聞けよ」
と言って、やむなくタケシから聞いた話をした。
話を聞いた楓子は、ヘルメットを持って呆然としていた。それを見て、ヒデは眉をしかめた。
(やっぱり意地でも黙っているんだった)
と後悔もする。
姉にいらぬ心配とショックを与えまいと、黙っていたのだったが。
楓子は呆然としたまま、
「そう……」
といって、部屋に引っ込んでいった。
その背中を見送って、歯を食いしばって、走りに行こうと玄関ドアを開けた。すると、家に置いているキミのカタナに、イリアが乗っているではないか。
ハンドルを握り、ハングオンの姿勢をとったりしたりしながら、
「ぶぉ~ん、ぶぉんぶぉん」
とか口ずさんでいる。そこへ、ヒデ。
「あっ」
顔を紅くして、気まずそうに降りる。
「イリア、なにしてんだよ」
苦笑しながら妹の方をぽんとたたく。しかしキミを家に泊めた時は、ぶぅぶぅ批判ごうごうだったのに、まったく調子のいいもんだ。
「人のバイクで遊ぶなよ。何かあったらオレが弁償するんだぜ」
「ごめん、おにーちゃん」
申し訳なさそうに、しゅんとするイリア。ヒデは優しげに、ふう、とため息をつく。
「バイク、好きなんだな」
「うん、好きだよ。早く免許とって、走りたい」
「バイクに乗るって、事故もあるんだぜ」
「……」
イリアもゴネリュウの事故は知っている。あのとき劇でロミオを演じていた役者が、ヒデの走り屋の先輩だと知って驚いたものだった。
それからゴネリュウを目当てに劇場に時々足を運んでいたが、最近になってしばらく休むという。なんで? と思っていれば……。
それでも、キミのカタナにまたがって、遊んでいる。
不妊治療の甲斐なく子供が出来ず、悩んだ末に兄夫婦から末っ子を養子にもらった義父母は気が気でないだろう。
「あたしには、難しいことはわからなけど。好き、が止まらないの。事故の話を聞いて、怖いと思うけど、それでも……」
うつむいて、押し黙る。言葉が出ないようだ。
「そうか」
妹の言葉を聞き、にっ、と笑い。ヘルメットをかぶり、CBR600RRにまたがり、エンジンをスタートさせる。
マシンは、目覚めの雄叫びを上げる。
「オレもよくわかんねーけど、お前と同じだよ」
といって、走り出す。
イリアは走り出す兄の背中を見えなくなるまで見送って、またカタナにまたがった。
一方タケシは、ゴネリュウの事故以来変わり果ててしまった。
YZF-R6はアパートの駐輪場に置きっぱなしでホコリを被っている。
で、人間はというと、仕事場とアパートの部屋の行き来だけの日々を送っていた。通勤は実家からかっぱらった自転車だ。
何もする気が起きず、無気力だけがタケシの中にある。そんな状態だった。
憧れが全て無残に打ち砕かれて、いまや抜け殻。
暇な時間はほとんどメシと睡眠に費やしている。そこまでタケシは堕落していた。
そんなんだから、休みになっても部屋で寝ている。ヒデはもうそんなタケシに見切りをつけて、ひとりでジロウとテツとやりあう気でいる。
それをリンが黙って見過ごすはずもなかった、が、いかんせんタケシの家を知らない。会うときはいつも峠で会っていて、どこに住んでいるかさえ互いに聞く事もなかった。
(それでよくも三度も……)
と思いつつ、峠やショッピングモールに出向きタケシの姿を捜し求めたが、見つかることはなく。
日々が過ぎてゆくにつれて、切なさが胸いっぱいに広がって、破裂しそうだった。
「どこにいるの? タケシ君。会いたい、会いたいよ……」
タケシを求めて、愛機を走らせ、その中で、涙が溢れてくる。それまで当然のように会っていたのが、突然断ち切られた。その時になって、胸の奥に潜んでいた気持ちに気付いたようだった。
アルファロメオスパイダーはオーナーの涙に応えるように、優しくさえずっていた。
そんなことなど知らず、ヒデは黒沢峠でひたすら走りこみをしていた。
復讐心に心をたぎらせ、アクセルを開ける。
ヤツらのたむろする待避所では、ことの他ぶっ飛ばしてその存在感をアピールする。だがしかし、それを見ているジロウとテツは知らん顔。
勝手に走らせていた。
ちなみに、峠にはヒデ以外の「カタギ」はいなかった。
ゴネリュウの事故以来、峠はすっかり雰囲気が悪くなってしまった。そこに来て、ジロウらの一派がここぞとばかりに睨みを効かせはじめてきて、それを恐れてひとり、またひとりと峠から去っていった。
誰もが、ゴネリュウの二の舞を恐れて。
峠はもはやジロウたちに占領されてしまった、といってもいい。そこを、ヒデは気張って走っていた。
が、シカトされっぱなしだ。
「目じゃねえってか」
苦々しくつぶやく。アクセルを開け、愛機を吼えさせる。しかし、どこか虚しい響きに聞こえた。自分でも、変だとは思うものの。
そのせいか、ヤツらにバトルを売ろうとしない自分にもいらだった。
何かが、足りない。何かが。
「タケシ、なにやってんだよ」
ぽそっとつぶやき。そのつぶやきに気付いて、舌打ちする。
結局そのために集中できず、走れば走るほどフラストレーションが溜まってゆくことになってしまった。
そのタケシは、チャリでショッピングモールに行って、そこのマクドで腹ごしらえをしていた。
YZF-R6はやはり駐輪場の肥やしになってほこりをかぶっている。
ハンバーガーを口にしながら、ぼーっとして、目はうつろ。
それは目的を見失い、荒野を彷徨って(さまよって)いる迷い人そのものであった。
そのうつろな目にうつる、白い服の女。お盆に乗ったハンバーガーとジュースをもって、空いている席を探している。
「!!」
ぎょっとして、そそくさとハンバーガーを口につめこみ、出てゆこうとする。しかし、向こうもタケシを見つけて、こっちにやってくる。
「タケシくん!」
リンだった。この日もタケシを探して、その合間に腹ごしらえとこのショッピングモールのマクドにやってきたのだ。
タケシは名前を呼ばれて金縛り状態になってしまった。
その間に、リンはタケシのいた席に来た。来るなり、
「探したよ~。よかったー、見つかって」
と笑顔で言った。
その言葉に、タケシは力が抜けて、力なく椅子に座る。
タケシを見るリンは、タケシを見つけた嬉しさから無邪気なほど笑顔だ。その笑顔を見て、胸が痛む。痛い思いをしながら、おずおずと口を開いた。
「探したの? オレを?」
「うん。探したよ……」
リンは真正面からタケシを見つめ、感無量の面持ちだった。
「ここに来たときも、タケシ君のバイクがないか探したけど、見つからなくて。今日も会えないかな、と思ってたけど……」
それから、喉に何かつまったようにリンは押し黙った。せっかく買ったハンバーガーもジュースも手をつけない。
それが辛いか、タケシは立ち上がって、出てゆこうとする。慌てて追いかけるリン。ハンバーガーにジュースは席に置きっぱなしで。
「どうしたの、どうして何も言わずにわたしから離れてゆくの? わたし何か君を怒らせるようなこと言った? なら謝るから、黙って行かないで」
タケシと並んで歩きながら、リンは哀願に近い声を出している。しかしそれがやけに耳に痛い。振り切るように歩を早め、リンを引き離そうとする。
それでもリンはタケシから離れようとしなかった。
ようやく見つけたタケシを逃すまいと必死だった。
その様子を見て、ようやく悪いと思ったのか、ベンチのところで止まって、リンの方を振り向いた。
(あっ)
一瞬、タケシに得体の知れない影が取り憑いているように見えた。
変わった。タケシはしばらく会わないうちに変わっていた。
(何があったんだろう)
しかしわかるわけもない。だからと言ってまた行かせれば今度はいつ会えるかわからない。勇気を振り絞ってその手を握り、
「とにかく、ゆっくり話しましょう」
と一緒に座った。しかし都合よくベンチの前で止まったもんだ。いやもしかしたら、そうして欲しかったのかもしれない。そう思うと、
(タケシ君も苦しんでいるんだ)
と思えて、胸が詰まりそうだった。
無理もないかもしれない。憧れの先輩、ゴネリュウのクラッシュをその眼で見てしまって。それ以来、姿を見せていない。やっぱり、それが原因でタケシの心の何かが押しつぶされるように歪んでしまったのか。
周りは買い物客でごった返して賑やかだったが、ふたりはそれを意識せず、一緒にベンチに座ってただ時間が経つのに任せていた。
何を言えばいいのかわからない。
でもそのままも辛く、タケシはようやく重い口を開いた。
「オレ、バイクやめようと思ってるんだ」
「え?」
信じられない言葉だった。
タケシがバイクをやめるなんて。驚くあまり、あやうく飛び上がりそうだった。それをなんとか抑えて、聞き返す。
「バイクを、やめるの?」
「うん」
こくりとうなずき、それからまた押し黙った。たまらないやらやるせないやら、リンは取り乱しそうだった。まさかやっと会えたと思ったら何か変わってしまってて、それどころか、バイクをやめる、だなんて。
「どうして、どうしてバイクをやめるの?」
「それは……」
言いかけて、口をつぐんで、また重く口を開く。その漏れるような言葉は、リンの心に侵食してゆくようだった。
「なんか、オレもよくわかんねーけど、バイク、だからどーした、って気になっちゃって。そうなると、何にもする気が起きなくて」
「そりゃ、そりゃあ、バイクをやめるやめないは君が決めることだから、わたしは何とも言えないけど、でも、でも……。バイクをやめて、それからどうするの?」
「それは……、考えてない」
そのうつむいて無気力な横顔。見ていて辛かった。ほんとうに彼は鷲津武志なのだろうか。
そう思うと、胸の中で何かが弾けた。
「わたしにキスしてくれた君はどこ行っちゃったの!」
我知らず立ち上がって、そう叫んでいた。周りはリンの叫びに驚いて、一斉にふたりに目をやって、何事かと勘ぐりながら通りすぎてゆく。
「……」
突然のことにタケシは唖然とリンを見上げていた。
その目に、涙が浮かんで、ぽろぽろと頬をつたってこぼれ落ちてゆく。
リンは涙をぬぐい、いてもたってもいられなくなって、足早に立ち去っていった。
残されたタケシはリンを見送ると、ゆっくりと立ち上がって反対方向へと立ち去ってゆく。
その参に続く