Mad sunday ~RUN! 続編の短編~
その島は、ケルト神話の神の名を冠した島。
マン島。
アイルランドとイギリスに挟まれたこの島には、初夏になると世界中から多くのバイカーがつどってくる。
この島で百年以上続くバイクレースがある。人々は、そのレースを、
Isle of Man TT
マン島ツーリストトロフィーと呼ぶ。
長年この島はバイカーを魅了し、また、その命すら飲み込んできた……。
しかし、バイカーたちは、マン島で走り続ける。
栄誉のため金のため。いや、栄誉や金なら、他でも手に入る。だがそれは、レーサーたちの話である。
レーサーではない、バイカーたちは、何を求めてこの島につどい、走るのか。
それは、ケルトの神のなせる業なのかどうか。
太陽の光を受け、黄金に輝く草原を貫く道を走ったとき、バイカーはそこに何かを見出すのかもしれない。
ここにも、ケルトの神に魅入られたのか、二台のマシンがマン島の草原の道を走っている。
レースウィークの前週、まだバイカーの少ないマン島に入り、草原の道、レースコースのマウンテンセクションを駆け抜ける、ブルー/ホワイトカラーのYAMAHA・YZF-R6と、レッド/ホワイトカラーのHONDA・CBR600RR。
ナンバーを見れば、日本から来たバイクのようで。
YZF-R6に乗るのは、鷲津武志。CBR600RRに乗るのは、左文字秀樹。
YZF-R6を前に、CBR600RRがそれを追いかけている。
右に左に、道はうねる上り坂の道。坂の上の雲は、悠々と空を泳いで下界を見下ろし。刺すような日差し、草原を黄金に輝かせる。
その道を、すべての景色を吹き飛ばす勢いで、ふたりはアクセルを開け、走っている。
全身で風にぶつかり、全身で風を打ち砕いてゆく。
バイクのカラーリングに合わせたレーシングスーツ越しに、打ち砕かれてゆく風を感じて。自身も風になっていた。
その時、前から、ゆっくりと流している二台のバイクが、武志と秀樹に迫ってくる。それはイエローとレッドの、二台のDucati・748Rだった。
色違いの同じバイクが二台仲良く走っているのは、やや珍しい思いもしたが、どこかのドゥカ(Ducatiの略称)愛好家だろうと、さほど気にすることもなく追い越しをかけようとした。
が、しかし。
イエローとレッドのドゥカ・748Rは、ミラーで後ろの二台を確認したと思ったら。突然ペースを上げた。
ナンバーにはもちろん日本語の地名はなく、黄色いプレートで打たれているのはアルファベットと数字のみ。武志と秀樹と同じように早めにマン島入りしたヨーロピアンライダー、ふたりと同じ、バイクに合わせたレーシングスーツを身にまといさながらレーサーそのものの、飛ばし屋。
しかもご丁寧に、後ろに振り向き、人差し指をくいっくいと曲げて手招きまでして、
「かかってきやがれ!」
とばかりに、YZF-R6とCBR600RRから逃げる逃げる。
「そう来たか!」
売られた喧嘩は買おうじゃないかっ! と、武志と秀樹はドゥカ・748Rに追いすがる。
四台のバイクが張り合っている、はるか後方で、屋根を開いた赤いアルファロメオスパイダーがゆっくりとマン島の草原の道を走っている。
乗っているのは女ふたり。左側のロングヘアのドライバーは赤いオークリーのサングラスをかけ、鼻歌をうたいながら風になでられるにまかせ、となりのショートヘアのは、切れ長の鋭い目をコーナーの向こうに向けて、何か遠くを見つめていた。
これこそ武志と秀樹の彼女の、五十山田鈴に、浜松君子だった。鈴が武志の彼女で、君子が秀樹の彼女だ。
武志の年上の彼女で、歳も気がつけば四捨五入して三十で、大人の女性の雰囲気を漂わせる鈴は、まだ子供っぽい不良の匂いを残す、となりの君子がそわそわしてるのをみて、ふふっと笑って。
「まだマン島の雰囲気に慣れないの?」
と、すこしおかしそうに言った。君子ははっとして、首を横に振り、
「違うよ。ヒデのやつがこけてるのをおがんでやりたいの」
と強がりを言う。
もう何年になるだろう。マン島にかよい始めて。
最初来た時は、はじめての海外であることに加え、島中バイカーだらけという日本では考えられない「異常な」シチュエーションに戸惑いを隠せず。そこへ来て、マッドサンデーを走るヨーロピアンライダーの走りっぷり切れっぷりは、日本の走り屋の比ではなく。
それに圧倒されまくった武志と秀樹は、首根っこをつかまれた猫の子の様におとなしかったもんだった。言うまでもなく、鈴と君子も一緒だった。
が、それが武志と秀樹のケツに火をつけて。以来、マン島にかよいつめている。今年でもう四度目になる。
金もかかる。朝から晩まで馬鹿みたいに働き、借金すらして、それでどうにか今年もマン島に来れた。
すべては、マン島を、マッドサンデー(Mad sunday)を走るために。
もともと車やバイクといった趣味は金がかかるものだが、同じ金がかかるなら、近場の峠を走るより、マン島を走ったほうがどれだけ有意義なことか。
(っていうか、そんなゴタクはどーでもよくて)
なんだかんだ言いながらも知らないうちに色々考えていた鈴だった。が、考えるのはやめた。
走る場所を選ぶのは、理屈じゃない。
彼らと同じく愛車をマン島に持ってきて、彼らのサポートをしているのも。彼女らは彼女らなりに、マン島に何かを見出したからだった。
さて張り合っている四台のバイク。YZF-R6とCBR600RRに、イエローとレッドの748R。
順番は赤の748R、黄色の748R、YZF-R6、CBR600RR。
マシンサウンド、空を揺らし。マシン、風になる。
それはあたかも草原の風に乗って、舞を舞っているような。
四台のマシンサウンドはうたっているような。
ギリギリまで走っているわけではないようだ。それもそうだ、まだ本番まで間がある。いまは、そう、練習だ。練習で、マシンはおろか、人間までオシャカにしてしまっては意味がない。
と、前二台の748Rは流している。後ろは、結構本気のようだ。
二気筒の748㏄、四気筒の600㏄、性能はほぼ同じ。なら、ウデ勝負。となるのだが、軽く流しているやつを前にして、それを本気で追いかけるという悔しい展開。
(オレらはまだまだってか)
胸中に込み上げるもの。
今までマン島で走って、それを痛感しまくった。
マン島で叩き込んできたことは、己の小ささと世界の広さだった。ひたすらそればかりが、身体になだれ込んできた。
走っているうちに、上りが終わり、下りに入って。
長い直線区間がつづき、そして右コーナーが見える。コーナーの左脇には、白い建物が見える。
マウンテンコース終盤の名物、有名なクレッグニーバー(Creg-ny-Baa)のコーナーだ。
武志と秀樹は、ここで勝負に出ようとする。ここを抜ければ、市街地が近くバトルは出来ない。が、しかし、コーナーまでの直線の路面状況は、らくだのコブのようように盛り上がっている箇所があるため、アクセルを開けきれなかった。
(しまった)
コブをのぼり、それから駆け下ろうとするとき、マシンがコブから跳ね着地をしくじり、バランスを崩す。あろうことか、リアタイヤは着地とともに右に左にブレだしてしまう。ご丁寧に、ふたりして、だ。
パニックにならず、落ち着いてマシンを鎮めようとする。
となれば、減速。勝負はついた。
(くっ……)
しくじった、まったくもって、しくじった。748Rの二台はまるで路面に吸い付くようにして走っているというのに。
748Rは武志と秀樹を置いていくように、どんどん差を開き、そのまま消えていこうとする。かと思われた。
(やられた)
と思った。
そうとしたとき、ブレーキランプともる748Rの二台は、右コーナーの彼方へ消えてゆくかと思われたが、建物をすこし過ぎたところでスローダウンし、ふたりを待っているようにゆっくりと流す。
「え?」
どういうことだ、と思いつつ、すでにペースを落とした武志と秀樹は、おそるおそる、二台の748Rに近づいてゆき。真後ろまで来た。すると、レッドの748Rが後ろを向いて、
「ついてこいよ」
と言いたげに、手招きする。ペースは上げない。どこかへ案内するというのか。
「いいのかなあ」
ここは外国、マン島。知らない外国人についてゆくのは、さすがに気が引けたが。二台の748Rは途端にUターンして、コーナー脇にある建物の駐車場へと滑り込む。
この建物の名前は、そのものずばりクレッグニーバーというホテル&レストラン。コーナーの名は、この建物からつけられている。
そこで一緒に一服しようぜ、ってことか。
ほっとして、武志と秀樹は目配せしながら、駐車場に入る。748Rの二人はすでにメットを脱ぎバイクを降りている。
ふたりとも鼻も高く、西洋人らしく彫りの深い顔立ちで、ブラウンの髪に、ブラウンの瞳。
ふたりを見て、にっと笑う。ふとふと思うが、外国人は笑うときは本当に楽しそうに笑う。笑うことに慣れている感じだ。
まず、レッドの748Rが、
「I'm William Shepherd」(オレ、ウィリアム・シェパード)
つづいてイエローの748Rが、
「I'm Noel O'Flaherty」(オレ、ノエル・オフラハティ)
と、バイクを降りメットを脱いでいる武志と秀樹にぶっきらぼうに自分の名前を言うと、
「What your name? chinese?」(名前は? 中国人かい?)
とウィリアムはそんなことを言う。
「んー?」
秀樹はガン飛ばし、
「I'm Samurai.Japanese!」(オレは侍。日本人だ!)
と相手と同じようにぶっきらぼうにこたえる。武志は「何言ってんだよ」とくっくっく、と笑うのをこらえているが、748Rのふたりは、
「HAHAHA!」
と大うけして笑い。
「Seven samurai? Kurosawa Kurosawa!」(七人の侍? クロサワ、クロサワ!)
と、囃し立てる。外国に出て、巨匠と呼ばれる人物の偉大さを実感することがたびたびあったが、ここでも、それがあった。
だが、まあ、しかし。相手が東洋人で英語がきちんと話せるかどうかなどおかまいなく、遠慮なしに英語で話しかけてくる。
それにこのふたり、かなり明るい。
この島は、人を明るくする魔法で満ちているんだろうか、と思うこともたびたびだったが。このふたりも、その魔法にかかっているんだろうか。その魔法は、マン島TTなのは言うまでもない。
ノエルは、にこにこして秀樹に問う。
「Then, are your names Mifune?」(じゃお前の名前は三船か?)
(俺は仲代さんの方が好きなんだがなあ)
苦笑する思いで、
「No.I'm Hideki Samonji」(違う。俺は左文字秀樹だ)
と秀樹は名乗りをあげ、つづいて、
「I'm Takeshi Washidu」(俺、鷲津武志)
と武志も名乗りを上げる。で、それとともに、日本人を前にしても日本語を話そうとしないのを見て、日本語が通じないことをさとった。それに、なまじ秀樹が英語を話したので、相手はこっちが英語を話せると思い込んでいるようだ。
武志と秀樹の英語レベルはまだ低い。冷や汗の出る思いであった。
しかし、相手に悪意はなく、むしろ同じバイク乗りとして好意すら持ってくれていそうなので、むげに「バイバイ」と別れることもできない。
(鈴、早く来てくれ~)
後ろから来ているはずの鈴と君子とは、このグレッグにーバーで待ち合わせの約束をしている。早く来てくれ、と必死で祈って、その祈りは通じ、赤いアルファロメオスパイダーがやって来た。
「あら」
彼氏らがレッドとイエローのドゥカ・748Rのバイカーと一緒にいるのを見て、ちょっと、意外に思ったらしい。
(新しいお友達をみつけたのね)
そうとなれば、間に入って通訳してあげないと、と。愛車から降りて、
「Hi」
と間に割って入る。後ろから君子もつづく。
赤いアルファロメオスパイダーが来た、と思ったら、エキゾチックな東洋人女性がふたりこっちに歩いて来たので、ウィリアムとノエルは、笑顔をさらにほころばせた。
鈴は上手に英語を話し、軽い自己紹介をし、自分たちがマン島を走るために日本から来たことをウィリアムとノエルに告げた。
748Rのふたりも、マン島を走るためにやってきたことを告げた。ウィリアム・シェパードはイギリス人で、ノエル・オフラハティはアイルランド人だという。
(へえ)
イギリス人とアイルランド人が、仲良くコンビを組んでマン島に来ていることが、鈴にはとても感慨深かった。
両国は昔から争うことが多く、アイルランドはイギリスの植民地にされていた歴史もあるし、近代に入ってからも紛争も耐えなかったが。現在は憎しみを越えて平和共存の道を歩む努力がなされている。
「一昨年だったなあ、マッドサンデー走ってさ、そこで知り合ったんだよ。あのイエローの748Rを抜いたら、抜き返されたんだよ」
「オレもアツくなってねえ。こいつとドッグファイトさ」
「いやあ、でも楽しかったなあ。走り終わってから、『やるじゃねーか!』って話してさ。それから、友達になったんだよ」
「オレ、こいつと会うまで、イギリスなんて国はないと思っていたよ」
「アイルランド人は善良な田舎ものだと思ってたけど、なかなかどうして、こいつ速いんだよねえ」
「同じ748Rだしよ、話してて気が合うんだよな」
と、(無論英語で)無邪気に語るウィリアムとノエル。真面目で勉強家で、世界情勢にも通じている鈴は、ふたりの姿から、平和の尊さをしみじみと感じるのであった。
こういったことは、日本に閉じこもっていてはわからないことだ。だから、武志と一緒にマン島に来てよかったと思っている。
「でさあ、お前らもマッドサンデー走るんだろう。じゃさ、一緒に走ろうぜ!」
ウィリアムとノエルの出し抜けの一言だった。このイギリス&アイルランド・ドゥカコンビ、話をさせているうちに勝手にアツくなっていた。
「オレらについてこれるなんて、お前らセンスあるぜ」
とノエルが言うと、つづいてウィリアムも、
「まさか尻尾巻いて日本に逃げやしねーよな。サムライだろ?」
にこにこしながら、なんとも挑発的なことを言う。
彼らがマン島を走るのは、ライバル、速いバイカーとの出会いを求めてのこともあったのかもしれない。だが、それは武志と秀樹も同じこと。
「……」
っていうか、武志と秀樹は、ウィリアムとノエルのマシンガンのような話しっぷりに自分の話を差し込む余地を見つけられず、話すことはほとんどなくて。しまいにゃ彼らが何を言っていたのかわからない始末。
それをさとられまいと、相手に合わせて笑顔を作っている。
やれやれと、鈴がふたりに通訳して話しをすると。はたと理解をして、
「OK!」
と慌てて親指立てて答えるのであった。
それからウィリアムとノエルと別れて、マン島の首都ダグラスにある下宿先に行った。
マン島はイギリス王室の属国で、自治権を持っている独立国でもあった。
鈴は両家のお嬢さまだが、それにふさわしい勉学冴えた才女で、その才女っぷりはマン島行きにて、いかんなく発揮された。
マン島におけるさまざまなことを学び、まず歴としたひとつの国であることを知り、千年以上の昔に、世界最古の議会ができたことや、尻尾のないマンクスキャットというマン島独特の種類の猫がいることを知った。
ことに英語が堪能なことは、日本からイギリスを経て、そしてマン島へと行く過程においてはもちろん、マン島に来てから、宿泊先を見つけることにおおいに役立った。
一年目はキャンプ場でテントを張って夜を過ごしたが、二年目からは、鈴が知り合ったある婦人の家に下宿させてもらっている。マン島では旅行者に宿を提供している地元の家も多く、鈴が知り合った婦人もそのうちのひとりであった。
鈴とも個人的に親しくなり、インターネットでのメールのやりとりもしているほどだった。
今年で六十五歳になる、ご婦人のウォレスさんいわく、
「夫は十年前に天に召されて、子供たちは大きくなって家を出て。この家はわたしひとりでは広すぎるからねえ」
と、軽く冗談をまじえ朗らかに笑いながら、
「ウェルカムバック!」
と鈴ら日本から来た四人を迎えるのだった。四人はウォレスさんに温かく出迎えられて、感謝すること尽きることがなかった。
もちろんタダではないが、ウォレスさんの家に泊まれるなら、もっと出してもいいとさえ思えるのであった。
陽は落ち街には夜の帳が下りて、シャワーを浴び、ウォレスさんを交えて夕食をとり。昼間のマウンテンセクションと一転して家庭的な雰囲気を味わいながら、四人は眠りについた。
それから数日をウォレスさんの家で過ごしながら、マン島の道を走った。
レースが近づくにつれ、目に優しいヨーロッパの街のダグラスに人やバイク、スポーツカーがたくさんやって来て、雰囲気もモチベーションも高くなってくる。
もうすぐ、TTレースがはじまるのだ。
「夫も子供たちも、どのマシンがかっこいいとかライダーが速いとか、レースを楽しんだものよ」
ウォレスさんは、四人に家族とレースの思い出をよく話してくれた。
六十五歳になる婦人が、家族とともにレースを楽しんだという話は、とても新鮮な感じがして。いくら聞いても聞き飽きるということはなかった。
なにより、TTレースはウォレスさんが生まれる前から開催されているのだ。
島の道を閉鎖して行われるマン島のTTレースは、マン島国家の国家的な祭典のようなものだった。危険のつきまとうレースゆえに、様々な論議はあるものの、マン島の近代の歴史はレースとともに刻まれていったことは間違いなかった。
「こんな世界があったんだね」
秀樹の彼女の君子は、マン島に来るたびにそうつぶやくのだった。昔GSX1100S・カタナを乗り回しツッパッていた不良時代、まさかマン島に行くなど夢にも思わなかった。
「世界って、広いねえ」
「ああ、広いな」
昼走り終わって、夕方ダグラスの街をふたりでほっつき歩く。ダグラスは、昔のヨーロッパを思わせる古風で風情のある街で。日本から来た身から見ると、とても目にも心にも優しく感じる。
そんなダグラスに、バイカーがつどう。
ダグラスに来たバイカーの中には、一匹狼もいればバイクキャラバンとでもいおうか集団ツーリングチームで来ているのもあるし、恋人同士で来てるのもあるし。
ウォレスさんと同世代のベテランもよく見受けられて。中には孫と一緒に来ている老夫婦も見受けられ。
ヨーロッパにおけるモーターカルチャーというものの「根付き」をうかがわせた。そういえば、某高級車のメーカーの名は、女性の名から来ているのだ。
欧米の人々は、機械といえど、機械以上のものに感じられる感性を持っているのかもしれない。
一通り歩き終わって、ウォレスさんの家に戻ると。エプロンをしたウォレスさんと鈴と、武志がふたりを出迎えて。
「おかえり。パイをつくったのよ!」
と言う。ダイニングにゆけば、なるほど、テーブルにパイが五人分ある。
「ウォレスさん、わたしたちのためにパイを作ってくれようとしたから、わたしと武志でお手伝いしたのよ」
自分たちはバイクの世界にどっぷりと浸っているはずだ。だけど、親切な婦人の世話になり、仲間はその婦人と一緒にパイを作って。
バイク。
同じそのバイクという言葉も、西と東では、その世界観も随分と違うものだということを、じ~んと心に感動を覚えながら、パイを皆で味わいながら、しみじみと思ったものだった。
ついき来たるレースウィーク!
街は、島はお祭り騒ぎだ。
ことにバイクでごったがえし、マン島はモーターサイクルアイランドとなっていた。もうどこへ行っても、バイク、バイク、バイク!
今年はレースウィークの最初の日が日曜日だが、マン島は原則日曜日にレースをしないことになっているのでレースはなく、そのかわりに、にぎやかなイベントが種々開かれる。
その日曜日こそが、マッドサンデーであった。
もう飲めや歌えや、走れやの、どんちゃん騒ぎな日、というか。
マン島につどったバイカーや旅行者は、心の開放を楽しんでいた。
そして、武志と秀樹がマン島に来た目的といえば、レースコースのマウンテンセクションが開放され、おまけに速度制限もない、「走り」のマッドサンデーであった。
このマッドサンデーに腕自慢のバイカーたちがこぞってマウンテンセクションを走るのだ。そんなかっ飛びバイカーの中には、車載カメラで自分の走りを撮影し、それを動画サイトに投稿するものまでいる。
武志は、その動画を見て、マン島のマッドサンデーを知った。地元ではそれなりに速い走り屋であったが、行き詰っていたときにこの動画を見て、バイカー魂が点火され、マン島を目指した。ライバルの秀樹も、そんな武志に触発されてマン島を目指したのであった。
鈴と君子もそれぞれの彼氏に触発されマン島に来た。彼女らは自分では走らず、後ろからついてくるマーシャルカー的存在として万一に備え彼氏をサポートするとともに、監督と助監督の役割も果たしていた。
無理が過ぎ、最悪の事態になるのを避けるためである。
身支度を整え、さあ行こうかとしたとき、ウォレスさんはいつもの朗らかな笑顔をしながらも、
「気を、つけてね」
と、日本語で言ってくれた。
武志と秀樹は、ウォレスさんの温かさに触れるたび、自分の生命というものをを意識せざるをえず。
「I see」(わかりました)
と、お辞儀をした。
鈴が監督で君子が助監督とするなら、ウォレスさんは名誉監督といったところだろうか。
四人は、今日も一緒にディナーを、とウォレスさんと約束して、マウンテンセクションに近いラムジーの街へと向かった。そこでウィリアム・シェパードとノエル・オフラハティと待ち合わせの約束をしているからだ。
ラムジーの街につき、彼らがマン島で必ず行くというカフェを教えてもらって、それを探していれば、あったあった。
レッドとイエローの、748R。教えてもらったカフェの前に停まっている。
「おいおい」
二台の748Rの近くに止め、カフェの中をのぞきこめば、ウィリアムとノエルはふたりでウェイトレスの女の子に楽しそうに話しかけている。ウェイトレスの女の子は冷静に、ふたりをやりすごしている。
が、ウィリアムもノエルもそれは承知の上で、単純に女の子に声をかけるのを楽しんでいるようだ。
(いいなあ)
オレも、あんな風に女の子に声かけたい。と思ったのは、ふたりの胸の中にそっと仕舞いこまれた秘密だ。
ドアを開ければ、からんころーん、と鳴る鐘の音。
音を聞き、ウィリアムとノエルは女の子に声をかけるのをやめ、笑顔で武志と秀樹に手を上げて。
「Hi」
と手招きする。
席に着けば、さっきのと違う年配の女性が注文をとりにきて、四人はコーヒーとフライドポテトを頼んだ。
「今日はいい天気だぜ。走るにゃもってこいだ、なあ」
「オレのレッド(748R)も絶好調だぜ。お前らはどうだ?」
フライドポテトをつまみ口に放り込みながら、ウィリアムとノエルが言った。うきうきを抑えられない、という感じだ。それに、鈴と君子にはちらちらと笑顔を向けるも、声をかけもしない。さっきまで女の子をからかって面白がっていたのに。
人の女には手を出さないのか、それとも、それ以上に武志と秀樹と走るのを楽しみにしているのか。自分もウェイトレスのコのようにからかわれるか、と身構えていた鈴と君子は少し拍子抜けした気分だった。
(っていうか、わたし三十近いしねえ)
内心苦笑する鈴。
ともあれ、
「When it returns to the hometown so say.met the samurai」(クニに帰ったら、こう言いな。サムライに会ったぜ、ってな)
と武志は、ふっと笑ってウィリアムとノエルに告げる。秀樹も力強く頷く。バイクと違い英語の進歩遅い武志でも、これくらいのことは話せた。
「HAHAHA!」
ウィリアムとノエル、大ウケ。鈴と君子は、何を言ってるんだか、ときょとんとしている。
そのときに頼んだコーヒーとフライドポテトが来る。
ふと、君子は周囲を見回す。
「……。わあ」
バイカーばっかだ。
カフェ中バイカーばかり。男も女も、若いのから孫を連れたベテランまで、幅広く。耳を澄ませば、オレの新しいスズキ速いぜ。とか、私のBMWとても乗り心地がいいわよ、とか。今年のレースは誰が勝つんだろう、とか、あいつ今年はやってくれるぜ、とか。バイクやTTレースの話で盛り上がっている。目の碧いそばかすの坊やまでが、
「It is him that wins」(勝つのは彼だよ!)
と祖父に言っている。君子は思わず、ぷっと噴き出しそうになった。すると、君子の視線を感じたか、目の碧いそばかすの坊やがこっちを向いたので。
にっこ、と笑って手を振ると。坊やははにかみながら手を振り替えし、祖父にしがみつきながら、パフェを平らげようとする。祖父はパイプをふかしながら、愛おしげに、孫のあたまをなでる。
やけに絵になる光景だった。
顔を戻せばこっちもこっちで、緒戦を舌戦で開いて、皆してポテトを口に放り込みながら、あーだこーだと言い合っている。
といっても、どのくらい意味が通じているかどうか。
武志と秀樹は満足に英語を話せず、思わず日本語が出てしまい。それを鈴が通訳する。それを聞いてから話せばいいものを、ウィリアムとノエルは、ほぼ推測で喋りだすもんだから、話が噛み合っていない。
もろギア抜けな会話だ。
それでも会話が成り立っているのは、彼らの本分が舌戦ではなく、バイクだからだろう。言葉もろくに通じないが、バイクが彼らをつなげていた。
やがてフライドポテトも尽き、コーヒーも飲み終えた。
「さて」
行くか、と五人立ち上がり支払いを済ませて、外に出る。
日差しがまぶしい。この季節、日本より北の緯度に位置するマン島はまだ寒さも残り、雨も多いのだが。ケルトの神の思し召しか、走り日和の晴天だ。
「It's a fine day!」
ノエルがご機嫌に叫ぶと、皆の脳裏に、ぱっと、黄金に輝く草原が描き出された。
街道ではマウンテンセクション、スネーフェル山(Snaefell Mountain)へと向かうバイクや車がたくさんいる。渋滞してなければよいが。
だがそれよりも、武志と秀樹、ウィリアムとノエルの心は黄金に輝く草原の道しかなかった。いや、この道を走る者たち皆が、そうだろう。
YZF-R6、CBR600RR、Ducati748R、アルファロメオスパイダー、五台のマシンに命の息吹が吹き込まれ。それぞれが目覚めの雄叫びをあける。
胸は高鳴る。
すべては、この日のために。朝から晩まで働いて金を工面し、その合間をどうにか縫って練習走行をし、しんどかったが、苦労とは思わなかった。むしろ、歓喜があった。
バイクの聖地、マン島を走れるという歓喜が。その場限りの自己満足の喜びで終わらない、永遠の思い出として心に刻まれる。それはお金では買えない、とても価値的なものだ。
楽聖と呼ばれるベートーベンは叫んだ。「苦悩をつきぬけ、歓喜へいたれ!」と。
歓喜というものは、苦悩の向こう側にある。日本からマン島に、しかも愛車連れで行くという苦労は、マン島の道にいたったとき、すべてが歓喜へと変わる。
四人はメットのシールド越しに視線をかわして、頷いて。街道に出る。
前にも後ろにも、バイク、バイク、バイク。とにかくたくさんのバイク。四輪は少なく、アルファロメオスパイダーの鈴と君子は、自分たちが浮いているような気がしていた。それでも、エンスー(enthusiast・エンスージアスト。車・バイクの熱狂的愛好家)としての血が騒ぐ。ちなみにアルファには救急用具や工具、ステップやハンドルなどスペアパーツ数点が搭載されている。
鈴も君子も、今では彼氏のサポートに回っているが、かてつはそれなりに腕を鳴らした走り屋なのだ。
走ってしばらくすると、街道は緑まぶしい垣根や木に囲まれ、まるで緑のトンネルを通っているようだ。センターラインにはパイロンが置かれ、まだ飛ばすな! とバイカーに警告している。
一定の長さに区切られた白いセンターラインとパイロンをひとつひとつ横切ってゆくたびに、胸は高鳴り、心身の奥底から込み上げるものがあった。
そして、パイロンが終わる。と同時に、心とともにマシンの鼓動が天をも突き抜けそうなほど一挙に高鳴った。
スロットルオープン!
制限速度無制限区間の始まりだ。
緑のトンネルも終わり、ぱっと日差しが差し込む。まっさきに陽光に飛び込んだのは、ノエルのイエロー748R。つづいて秀樹のCBR600RR、ウィリアムのレッド748R、しんがり武志のYZF-R6。
「Hooooo!」
先頭でテンションは一気に上がり、ノエルは雄叫びをあげる。
先頭、といっても、集団の中の四台のうちの、だから、前にはバイクがまだまだいるのだが。ノエルはおかまいなしにかっ飛ばし。マシンも天にも届けとばかりに咆哮轟かせる。
道は右に左にうねり、イエロー748Rをはじめとするバイクたちもコーナーに合わせ右に左にバンクしつつクリアしてゆく。それに乗る人間は、まるでバイクの手を取ってダンスでも踊るかのように、軽やかにマシン上で身体を揺り動かしマシンをコントロールしている。
鈴は彼らの背中から一気にオーラが迸り出たように思えた。それから、四台はペースを上げて、後ろをぐんぐん引き離してゆく。
「はじまったわよ!」
鈴は叫んだ。
日英愛(日本・イギリス・アイルランド)の三ヵ国四人のバイカーの、バトルがはじまった。
マッドサンデーのコースは、ラムジーの街からはじまってスネーフェル山のマウンテンロードを抜け、首都ダグラスまでを貫くA18号線を駆け抜ける。無論首都ダグラスまで無制限というわけではなく、途中にある数箇所の制限区間を含め、ダグラスの手前、クレッグニーバーまでが無制限コースとなっている。
ちなみにスネーフェル山の標高は621メートル。マウンテンロードではさすがに山頂まで行かず、一番高いところは海抜319メートルだ。
スネーフェル山のスネーフェルは雪の山を意味するノルド語で、マン島最高峰の山だ。しかし高い木は目立って生えておらず、山と言うより高原といった趣がある。
イギリスとアイルランドの間、アイリッシュ界に浮かぶマン島の最高峰、スネーフェル山からは、イギリス、スコットランド、ウェールズ、アイルランドすべてが見え。
心に曇りがなければ天国も見える、と言われる。
そんなことを思い浮かべながら、鈴はアルファを走らせる。四台との距離は開いてゆくが、アルファはバトルに加わっているわけではないので、離れるに任せる。
そうしている間にも、腕に覚えのあるバイカーはびゅんびゅんアルファを抜いてゆく。乗っているのが女だとわかると、投げキッスまでするひょうきん者までいた。
愛用の赤いオークリーのサングラスのレンズ越しにウィンクし、鈴は笑くぼをつくりふっと笑い返す。屋根を開けているので、風が頬を撫でてゆく。長いロングヘアがさらさらと風に乗って流れる。
君子も太陽に備え黒いレイバンのサングラスをかける。
アルファの前にも後ろにも、バイク、バイク、バイク。いったいこの道に、どれほどのバイクがいるのだろう。山の始まりから終わりまで、ずっとバイクの行列は車間距離も様々に続いていることだろう。
それに、一体何がこれほどまでのバイカーを呼び寄せるのだろうか。自分たちも呼び寄せられている者たちに入るのだが、理由はわからなかった。
「まったくあいつら、初っ端から飛ばしすぎよ」
君子が、ぷっとふくれっ面して言う。人が心配してるのがわかってるのか、と言う感じだ。
(わかってる上でやってるんだもんなあ)
鈴は隣の君子のふくれっ面を見て、ふとふと思った。もし自分が男で武志と同じ立場だったら、どうするだろう。そう思うと、無理に武志に説教できそうにはなかった。
眼前には広がる青空と、緑の丘。
アクセルを開ければ周囲の景色は吹き飛んでゆく。だけど空は、緑の丘は、微動だにせず、バイカーたちを見下ろしている。
そんな青空や緑の丘をも追いかけるように、マシンを走らせる。
全身で風にぶつかり、全身で風を打ち砕いてゆく。
咆哮するマシンサウンド、天にも届いて空を揺るがす。
武志ははっと息を大きく吐いて、吸った。全身に空気が流れるように感じた。
身体がバイクとリンクし、自分もバイクと一体化したよう。
逃げるウィリアムのレッド748Rを射程圏内にとらえ、アクセルを開ける、YZF-R6を走らせる、吼えさせる。
見開かれた目は、レッド748Rの動きをとらえて。コーナーを右に左に、マシンを右に左にバンクさせてスネーフェル山のマウンテンロードを駆け抜ける。
すると、秀樹のCBR600RRがノエルのイエロー748Rと並んだ。右コーナーだ。わずかな隙を突き、インに飛び込んだのだ。
「Goddamn!」
やられた! ノエルは悔しい雄叫び。それとともに、耳に飛び込むCBR600RRのサウンド。目に飛び込む、マシンと秀樹のシルエット。
「Oh!」
ウィリアムが前の展開に仰天し思わず叫ぶと、同じようにYZF-R6のサウンドが耳に呼び込んで、目にはそのシルエット。
「Oh shit!」
抜きざまに武志は左手を挙げる。悪ぃな、抜かせてもらったぜ、と。
面白えじゃねえかッ! と日本語でならそう表現するだろう言葉を、ノエルとウィリアムは叫んだ。無論叫んだところで相手には聞こえない、しかし、ハナから言葉で通じ合おうとして一緒に走ってるわけではない。
この四人をつなげるのは、バイク。そのバイクでもって一緒に走ることが、四人をつなげていた。そう、四人にとってバイクこそ心であった。
心は心でないと通じない、その心こそ、バイクであった。
それぞれのミラーにうつるイエロー、レッドの748R。秀樹はミラーをちら見して、逃げにかかる。が、後ろ三台もそう簡単には逃がしてくれない。ぴったりとくっついて離れない。秀樹にとっては、まるで磁石の異極が迫ってきているようで。後ろ三台にとっては、迫れども迫れども逃げられ、まるで磁石の同極同士をくっつけようとしているようで。
「Nice ride!」
ウィリアムとノエルは、TTレースのない時期のマン島に来てこのマウンテンロードを走ったこともあり、キャリアでいえば有利なのだが。そのキャリアの差を気合と根性で埋めようとする秀樹と武志の必死の走りには、舌を巻き、感嘆するのであった。
「Good run!」
武志に抜かれたウィリアムは、YZF-R6のテールを見据えそう叫んだ。その叫びを飲み込む、マシンの咆哮。アクセルを開けて吼えさせる。
四台は山沿いを縫うように走るA18号線を突っ走りながら、他のペースの遅いバイカーや観光の車をも、右に左に縫うように追い越してゆく。
周囲の景色は吹き飛びながらも、眼前に広がる空や緑の丘は一行に近づかず。コーナーをクリアするたび、姿かたちをかえて、やはり眼前に広がり、四人を見下ろすのであった。
四台は秀樹を先頭として空や緑の丘を追っているようでもあり、追いながらも眼前に広がる景色の中に飛び込んでいるような思いにも駆られた。
四方は草原が広がり。
草原の道を駆け抜けるバイク。それは、イルカが大海原で遊ぶような開放感すらあった。
「Ha!」
叫ぶウィリアム。武志の走りは悪くない、しかし抜けないわけではない。YZF-R6が抜かれまいとインよりにコーナーをクリアしようとする、そのアウト側に並ぶ。
「……っ!」
野郎ッ! と叫びたいのをこらえ、どうにか素早くコーナーをクリアしようとするが、スレンダーな748Rは軽やかにスライドしながらコーナーを曲がり、YZF-R6と並んでクリッピングポイント(コーナー一番奥のライン)を抜け、立ち上がり加速。並んだ二台のマシンが、大合唱する。
(くっそぉー!)
武志痛恨の心の叫び。レッド748Rは無情にも、するするとYZF-R6の前に出る。やはりキャリアが気合を勝った。公道だけあって路面の食いつきはよくなく、タイヤは無理にグリップさせずにスライドして当たり前と思って、それをコントロールして走らせた方がよかったりする。むしろ欧米ではそれが当たり前だったりする。
「いよいよオレは日本人だぜ!」
恵まれた環境で、タイヤはグリップして当たり前、という概念がここぞという時に出てしまい、その心の隙を突かれてしまった。
ウィリアムは勢いに乗り、ノエルを抜くか、と思ったとき。センターラインにパイロンが現れた。制限区間のはじまりで。ここはマウンテンロードで一番標高高い箇所で、A14号線がこのA18号線と合流している地点でもあり。近くにはミュージアム&カフェとスネーフェル山鉄道の駅があり。そこから出入りする車やバイクもあるため、安全のためにこの区間はパイロンを置いて、制限を設けている。
「……」
四人はパイロン区間をゆっくり進みながら、ミュージアム&カフェの駐車場にある、ジョイ・ダンロップの銅像に思いを馳せた。彼はマン島をはじめとする数々のレースに勝利した名ライダーであったが、レース中の事故で、還らぬ人となった。
銅像は、ダンロップの功績を讃えて、このマウンテンロードを見守るようにつくられた。
「R.I.P Dunlop...」
R.I.Pとはラテン語の「requiescat in pace」の略で、安らかに眠れという意味だ。四人はそろって我知らず、その言葉をつぶやいた。
ダンロップをはじめ、尊い命を散らせたライダーたちにも、同様に追悼の祈りを捧げた。
駅を抜け、そこから少し向こうにある立橋をくぐり、パイロンも終わり。四人はバトルを再開した。
果てなどないような大空に向かって、四人はアクセルを開けた。
秀樹は逃げる。しかしノエルも黙ってはいない。後ろにウィリアムが迫るのを背中で感じながらも、プッシュはゆるめず。その甲斐あって、徐々に徐々にCBR600RRの後輪に迫り、いつしかイエロー748Rの前輪は、CBR600RRの後輪と並ぶ。
次の左高速コーナーでは、ご丁寧にノエルがイン側になる。させじと秀樹は愛機を鞭打ち、アクセルを開け風の抵抗を少しでも減らそうとマシンに精一杯伏せて、相手のアウト側ながらも踏ん張ろうとするが、いかんせんやはりイン側は強かった。
全身を風とともにマシンサウンドが叩きつける中、イエロー748Rのシルエットはするすると前に進み出る。くそっと思って次の右で挽回しようとしたそのとき、突如としてレッド748Rのシルエットが視界に飛び込む。
「うおっ!」
秀樹は慌ててバンクさせようとしたマシンを立てた。一歩間違えば激突、クラッシュものの危うさだった。
「Ha! It's a Kamikaze!」
ウィリアムは叫んだ。彼とて余裕しゃくしゃくで秀樹を抜いたわけではなく、針の目に糸を通すような繊細さと決死の覚悟の大胆さで秀樹のイン側に飛び込んだのだ。
だがさすがに悪い、もとい危ないと思ったか前に出るとともに左手を挙げた。秀樹は左手の中指をおっ立てた。
(そこまでするか!)
瞬間湯沸かし器よろしく、かっと頭に血が上る。
YZF-R6の武志もウィリアムの抜きっぷりに胆を冷やしたが、
「そっちがジョンブル魂なら、こっちは大和魂じゃい!」
と秀樹のケツを叩くように、はげしくCBR600RRをプッシュする。キレる前に追えよ! 抜けよ! と。
色々と言いたい事はあるだろうが、キレイごとは勝ってからにしようぜ、と。
やる以上は勝つ。そういう意識は、向こうの方が上のようだ。秀樹もやや冷静さを取り戻し、レッド748Rに照準をしぼる。
イエロー748Rは逃げにかかるが、やはり後ろ三台も頑張るのでそうそう引き離せるもんじゃない。
残りも少なくなってきた。武志ははっと大きく息を吐いた。神経が研ぎ澄まされてゆく、目は見開かれ、草原の道にラインが走り描かれる。
そのラインがCBR600RRと並ぶとともに、自身と愛機も並ぶ。秀樹はちぇっと舌打ちしつつ、YZF-R6を見送るしかなかった。
「いけるもんなら、いきやがれぃ!」
秀樹は武志の背中に向けて叫んだ。なんだかんだで必死の走りをかますノエルとウィリアムにやられている格好の日本人コンビ。
しばらくの間しんがりに甘んじていた武志は、いかに前に出るのか。
場慣れしている分、ノエルとウィリアムの走りは冴えている。後半に来れば来るほど、走りは冴え渡る。ことに、スライドをコントロールしつつ路面にすいつくように、まるでミズスマシのようにスムーズに走るイエローとレッドの748R。
(まさかこいつTTレースに出るレーサーだとか言うんじゃねーだろうな)
と思ってしまうほど、その走りは冴えていた。が、それでもふたりはアマチュアのドゥカティ愛好家であり、決してプロレーサーではない。
初めてマン島を走ったとき、いったい何人のバイカーに対し、そう思ったことか。それとともに、これほどのウデを持っているのに、どうしてプロレーサーにならないのだろう、と思ったものだった。
でもそれは、武志と秀樹も同じだった。よく人に言われるものだった。
よく答えられないけど、どうにも、サーキットでは、自分を見つけられず。どうしてか、ストリートで見つけてしまう、とでも言おうか。
ありていに言えば、走りたいときに走れるストリートの自由さから抜け切れない、とでも言おうか。
下手にプロ目指してサーキットを走れば、そっちの方に手間と暇と金をかけねばならず、今年で四度目のマン島に来ることは出来なかったのだから。
昂ぶる気持ち、不純物をそぎ落とし心を磨く。昂ぶる気持ち、緑の草原と一体になってゆく。
心に曇りがなければ、スネーフェル山から天国が見える。
それは、そういうことなのだろう。
ランニングハイというか、バイクはおろか周囲の何もかもとリンクするような一体感。自分を見つけた、というのではない、自分を完成させる最後のワンピースが、ここにはあるのだ。
それはケルトの神の導きかどうか、わからないが、この道を求めるバイカーたちすべてが、そうなのかもしれない。
「What's?!」
何かを背中に感じ、ウィリアムは後ろを振り返った。
「!!」
ぐんぐんと迫るYZF-R6。慌てて逃げようとするが、捕らえられてしまった。並ばれてしまった。
何て奴だ! と思いつつ思わず道を開けてしまい、次はノエルが狙われる。
風とマシンサウンドが全身を叩きつけるも、何も感じず無音のトンネルを突っ走るような集中感。昂ぶる武志の心は、最後のワンピースを組み込まれて、すべてとリンクする。
ドゥカ・748Rコンビに比べ様々な面で不利な状況が、埋め合わせをすべく武志をこれでもかと集中させたようで。
もはや阻む者はないように思われた。
左コーナーを抜け、長い下りの直線。その向こうに、右コーナーがあって、脇には白い建物。
「えっ!」
と我に還る。同時に、道にパイロンが並べられた制限区間がはじまり、まっさきにノエルのイエローの748Rが制限区間に飛び込み。なまじ我に還って集中力の途切れた武志のYZF-R6の脇を、ウィリアムのレッドの748Rが駆け抜け、制限区間に飛び込んだ。
「あ、ばっか!」
秀樹は咄嗟に武志のYZF-R6を追い越し、パイロン並ぶ制限区間に飛び込み。その後ろから、YZF-R6までが気が抜けたような音で、パイロン並ぶ制限区間に入った。
ここはマウンテンロード終盤、クレッグニーバーで。
マッドサンデー、無制限区間、終了地点。
あとどれくらいでコースが終わるか、全然計算せずに走っていた。そのためせっかく抜群の集中力が生じ、そこのけの勢いを得ても、すでに終わりは目の前で、全然意味をなさなかった。
「あ、あほや……」
武志はがっくりと頭をたれて、ぽそっとつぶやいた。
その横に、レッドの748R、ウィリアムが並ぶ。左手の親指を立てて、なにやら早口でまくしたてている。頭がボーっとして、詳しくは聞き取れなかったが、
「やるじゃねえか!」
ということを言っているのはわかった。
秀樹には同じくイエロー748Rのノエルが並び、
「楽しかったぜー!」
てなことをまくし立てて。秀樹も返礼に親指を立て、うんうんと頷いている。
勝負は、ウィリアムとノエルのイギリス・アイルランドのドゥカコンビの勝利。日本勢は惜敗を喫す。
悔しいことは悔しいが、終わってみれば、勝敗よりも今、この場にいる、ということの方が大事だった。
パイロン並ぶ制限区間に入るとともにペースを落とした四台はクレッグニーバーの駐車場に入った。そこも、バイクで溢れていた。が、幸いスペースがあって、そこに滑り込む。鈴と君子ともここで待ち合わせの約束をしているので、四輪一台停まれるだけのスペースも見つけ、確保する。
駐車場を見回せば、世界、特にヨーロッパ各国からつどったバイカーでごったがえし。会話の花を咲かせている。
四人も、通じているやら通じていないやら、英語日本語入り混じって飛び交う会話の花を咲かせていた。
こんな会話ではだいたいの意味までしか理解できないが、それでも、バトルの興奮を共有できれば、それでよかった。
しばらくしてアルファロメオスパイダーもやって来て。鈴と君子は安堵して顔を見合わせ、搭載していたものを使わずに済んでほっとする。
そのとき、草原の風が軽やか吹き、武志の頬を撫でてゆく。
それとともに、最後のワンピースが風とともに散ってゆくように思え。
それを見送るように、武志は空を見上げた。
(今年はもうおしまい。また来年!)
マン島の風が、耳にそっとそうささやいているように、感じられた。
おわり