陣取り合戦6
(side 瀬戸 伊三郎)
今か今かと待っていた知らせ。
「紅は無事じゃ〜」
まだ佐吉の姿は見えないのに、佐吉の声が先に届いた。
「よっしゃ!」
山の麓の寺の前に集まっていた大勢の人たちが一斉に喜ぶ。
「良かった。本当に良かった」
「あぁ」
笑い合うみんなには悪いけど、やはり姿を見るまでは、俺の気持ちは落ち着かないようだ。
他の場所を探しに行った者達を戻し、
栗林家への伝言を頼み、
紅が乗る籠の用意もした。
だが遅い。
数人が既に山に入り紅を迎えに行く。
「伊三郎は?行かないのか?」
「俺はここで待つ」
そう決めたんだ。
ここでって。
何があっても俺がここから指示を出すって。
なのに遅い。
遅すぎる。
大吾は何をしておる。陸は?
俺が行っていたなら、もうとっくに紅は山を降りていたはず。
やはり大吾に譲らなければ良かった
しばらくすると、ようやく山に入っていった者たちの声が聞えてきた。
「来たか」
首を伸ばして後ろの方を見ると、先に降りてきた藤次郎たちがため息をこぼしたり、肩を叩いていく。
なんだ。その顔は?
紅が怪我したとかそういう雰囲気じゃなくて、例えるなら……同情されている?
周りがワっと騒がしくなった。
やっと来たか。
山の出口に視線を戻すと、
嬉しそうに笑っている紅が……
大吾におぶられていた。
「お……」
おぶられている。
紅が無事だったことは嬉しい。
やっと紅の無事を確認できて、ホッとしている。
だけど、大吾の背中で恥ずかしそうに頬を染めてる紅。
どことなく嬉しそうに見える紅は、見たくなかった。
大吾も、堂々と紅をおぶって、まるで夫婦みたいだ。
あぁ、藤次郎の顔はそういう意味だったのか……
全てにおいて敵わない大吾に、最後の負けを突きつけられた気がした。
大吾はそれでもまっすぐに俺の方へやってくる。
「……」
「……」
何を言えばいい。
一瞬には長い間、黙って視線を交わすと、大吾は背中から紅を下ろした。
紅が地面に下りると、ふらっと倒れそうになるから、咄嗟に手が出て、紅を支えた。
「伊三郎。心配をかけた」
紅が微笑む。
一晩中心配していた紅が、
生きてさえいてくれればと思っていた紅が、
今、腕の中にいる。
生きて俺に微笑んでいる。
もうそれだけでいい気がした。
紅が無事ならそれでいい。
紅の手をとると、冷えきった手が、一晩の辛さを物語っている。
白くて細い紅の手。
思わずギュッと握りしめた。
「俺は……」
「心配かけた」
紅がギュッと握り返してくる。
紅、お前が無事でいてくれて、俺はそれだけで何もいらない。
「紅、お前が……たいして心配などしておらん。なんだおまえの手は、雪女みたいではないか。早う風呂に入って来い。そのあと、説教じゃ。紅も陸も覚悟しろ」
◇◇◇◇◇
紅は栗林家から来ていた大人たちによって家へと運ばれていった。
なんだか疲れた。
寺の柱に寄りかかった途端、まぶたが重たくなる。
「伊三郎……」
その声は大吾。
「茶だ。飲め」
コトリと茶器が縁側に置かれて、茶の香りが漂ってくる。
茶器を取り上げると、ちょうどいい暖かさに癒され、一口飲むと喉から流れ込む茶の香りに、
「はぁー」
ため息まで漏れた。
「お前、つくづく素直じゃないな」
「ほっとけよ」
大吾が笑っている。
昨夜はあんなに怒って、取り乱した大吾を初めて見た。
他の奴らはもっと驚いただろう。
大吾で良かったのかもしれない。
他の奴を紅が選んでいたら、俺は許せなかった気がする。
「ありがとう。大吾」
「俺の方こそ礼を言う」
なんで大吾が?
「紅の迎えに行かせてくれて……」
あぁ、そのことか。
だけど茶器を持ったり置いたり、大吾の様子がおかしい。
「どうしたのだ」
「伊三郎」
「うん」
「俺は長崎に行こうと思う。俺たちはもう学問所も卒業だ。勝之進が長崎に勉学に行くと言っておる。一緒に行かぬかと誘われていたんだ」
長崎か……
「良い話ではないか」
「そうだな。栗林の奥方が俺の給金を溜めておいてくれたらしい」
「きゅうきん?」
「紅の先生としての金じゃ。俺が栗林家に行っていたのは仕事だった。決して仲が良いからという理由ではない。俺はあくまで栗林に雇われた人間」
知らなかった。
「大吾……」
「勘違いするなよ。俺だって長崎に行きたいし、行ける機会を与えてくれた栗林家には感謝している」
「……あぁ」
じゃ、なんでそんなに嬉しくない顔をしている。
「伊三郎……」
「うん……」
「紅のことだが……」
やはり来たか
紅をどうすると言うのだ。
長崎に行く前に夫婦になると言うのか。
それならそれで仕方ない。
俺ができることは、受け入れることだけ。
「俺や勝之進は、もう紅の側にはいられん。だが俺たちは紅を大切に思っている。あとはおまえだけだ。伊三郎。これからは、おまえが、紅を守ってやれ」
え……
嫁の話ではないのか。
「今度は、おまえの番だ。俺は、もう紅を助けには行けん」
「大吾が長崎に行ってる間だけだろう?そんな言い方して、一生の別れのように言うなよ」
「……戻ってからもだ」
「何を、言うておる」
戻ったなら、その時こそ、大吾が紅と結婚するのだろう?
俺はそれまでの間だけ……
「戻ったなら、俺は砲兵部隊に志願しようと思う」
「大吾っ」
砲兵部隊と言えば、平賀藩の戦隊の要。花形の部署。入れるのは相当の訓練を積んだような優秀な者だけ。
大きな戦闘力は、敵にとっては一番の脅威となる部隊。
だから戦闘では一番に命が危険にさらされる部隊。
「俺の身分で、あの部隊に入れたら、かなり名誉なこと。そうなったら、家中が大喜びじゃ」
悲しそうに笑う大吾を見ていられなかった。
「大吾は、そこに行きたいのか?」
「あぁ。外国からのすごい大砲を入れるという噂を聞いた。おまえも聞いたことがあるだろうアームストロング砲という名を。俺は、そのために長崎に行くんだ」
アームストロング砲……
書物で読んだことはある。軽くて持ち運びが楽な上に命中率が高く、これまでの大砲とは比べ物にならない威力。
これからの戦は、刀で戦うものではなくなると。
「そうか……」
俺だって見てみたいと思う。
もし、戦が始まるとしたならば、平賀藩を守るために、俺だって戦わなければならない。
だけど……
「学問所で学べたことは、俺にとって最高だった」
遠い目をして語る大吾。
「勝之進や多くの友に出会えたし、本当なら口もきけないような藩主の息子殿を、弟のようにこき使った。はは…今だからできることだな」
「そんなことはない!」
過去を語るように言うな。
「伊三郎殿。ありがとうな」
「殿なんてつけるな!大吾は……大吾は、ずっと俺の兄貴だ!」
「泣くなよ、伊三郎」
こみあげる涙を隠すように袖で顔を拭った。
「楽しかったよ。栗林家の書斎で、勝之進やおまえと競ったり、紅と…」
大吾が黙り込んだ。
おそらく紅の事を思い出しているんだろう。
いつも大吾のことを見ていた紅を
にこにこと大吾の後ばかりついて回っていた紅を
「結婚の、約束はして行かないのか?」
少しだけ胸が痛い。
だが大吾は驚いた顔をしている。
「紅と俺が?」
返事をしたくなかったけど、首を縦に動かした。
「紅は俺のことは兄貴としか思っておらん」
は?
どう見ても、紅は大吾に惚れているだろうが。
それを俺の口から言わそうとしてるのか?
「ああやって安心して抱き付いてくるのは、俺を男と思っていないからだ」
「……」
確かに、紅はいつも大吾の横にピタリと寄り添って座る。
男と思ってないからなのか?
でも、勝之進の横にはくっついて座らないし、勝之進が来ても大吾が来た時ほど嬉しそうな顔はしない。
考えれば考える程、良くわからない。
「だが、大吾は紅が好きなのだろう?」
「だからどうした?」
あっさりと認めたな。
くそっ。
その認め方も格好いいじゃないか。
「ならば、紅に言えばいいではないか。紅だって、大吾に言われたなら断らないだろう」
大吾は大きなため息を吐いた。
「俺が言ったところでどうなる」
これまでの大吾と声が違う。
「紅は栗林家のお嬢様。俺は栗林家に雇われた人間。これから砲兵部隊の一兵隊になろうというのに、ご家老のご息女をもらい受ける訳にはいかんだろう」
「……」
「栗林には勝之進という立派な跡継ぎもいる。紅が婿をとることもあるまい。俺は、兄たちがいるから、いずれはどこかの婿養子として出される。俺と紅では、身分が違い過ぎるんだ」
朝陽が陰影を深めていく。
昨夜の雨が、湯気となって空に向かっていく。
「大吾……」
大吾は、何かを堪えるようにグッと拳に力を入れていた。
本当は紅と夫婦になりたいに違いない。
「大吾。言えよ。紅に、好きだと言えよ」
「言える訳ないだろう」
「たとえ結婚できなくても、おまえの想いを紅に告げることくらい構わないではないか!」
「告げたところでどうなる!もし紅が許してくれても、辛い思いをさせるだけではないか!」
「紅は、そんな女じゃないだろう。言ってやれよ。好きだって」
「紅にだって未来がある……おまえが羨ましいよ、伊三郎」
大吾がうな垂れる横で、言葉すら出てこない。
「おまえなら、紅と結婚できるではないか……」
ポツリと漏らした言葉は本心からのものだろう。
大吾は身分違いの恋を諦めようとしている。
「俺は大吾の方が羨ましいよ」
持ってた茶器を盆に戻した。
「だって、紅が惚れてるのは俺じゃないからな……」
大吾が顔を上げたのが分かった。
「どんなに結婚できる身分でも、紅の気持ちがなければ一緒だ。その方が嬉しくはないだろう。紅だって、惚れた相手に想われる方が嬉しいに決まっておる。例え、結婚できなかったとしても。
ここを離れる前に、紅に告げてから行けよ。そしたらあいつも泣かずに待っていられるだろうし……」
「紅は、俺のことは兄貴としか思ってないさ」
「まだ言うか!」
「はは……おまえも相当あいつが好きなんだな」
大吾が笑いながら俺を見るから、視線を逸らした。
負けた感が半端ない。
「好きではないわ」
「今更かよ」
「俺は紅のことなどなんとも思っておらん」
「…そうかよ。なら、俺の留守は陸に頼んでいくかな。陸も紅のことを憎からず思ってそうだしな」
「え、陸が?」
「何を慌ててるんだ」
「慌ててなどおらん」
大吾が笑いながら俺の頭をなでた。
まだ子供扱いかよ。
「頑張れよ」
そう言い残して行った大吾。
たぶん紅には告げずに長崎に行くんだろう。
「くそっ。勝ち逃げかよ」
早く誰かのものになってくれたらと思う反面、誰のものにもならないでいてほしい。そんな気持ちが渦を巻いている。
「ふん。持ち越しだな」