20:それはもはや不敬
一難去ってまた一難。
ラスボスがアッシュフォードに到着したのは、ベアトリーチェらをエレノア子爵に引き取ってもらった翌日のことだった。
すでに疲労困憊な男爵家の使用人たちは内心、もうやめてくれと叫びたい気分だった。
だがそう言っていられないわけで。
春の香りを運ぶ爽やかな風が吹く、とても気分の良い朝。
男爵家は総出で第一皇子ダニエル・ローレンスを出迎えた。
「ようこそおいでくださいました、ダニエル殿下……」
「久しぶりだな、アイシャ。会いたかったよ」
白馬に乗り、颯爽と現れた第一皇子ダニエルは、精一杯の引き攣った笑顔で挨拶をしたイアンの横をすり抜けると、アイシャの手を取り、紳士らしくその甲に口付けた。
まだ少しだけ友人であるダニエルを信じたい気持ちのあったアイシャはその瞬間、スッと何かが自分の中から消えたのを感じた。
気づいてしまったのだ。友達の友達は友達ではなく、ただの顔見知りでしかないということに。
「殿下。ここにおりますのは私だけではございませんが」
絶対零度の冷たい声に、使用人たちは頭を下げたまま隣の者と顔を見合わせた。今のはなんだったのだろうか、と。
「殿下?」
アイシャはさりげなくダニエルに口付けられた手を拭うと、とても穏やかに微笑んだ。
けれどその微笑みの裏には、微かな怒りが見える。
ダニエルは仕方がないなと、わざとらしく肩をすくめた。
「そう怒るなよ、アイシャ。君との再会が嬉しくてつい失礼なことをしてしまっただけだ。すまないな、男爵」
「い、いえ……」
「そうか、気にしていないか。なら良かった」
気にしていないとはひと言も言っていないのに、イアン返事など待たずに自己完結するダニエル。
一応イアンと軽く握手を交わしたものの、この屋敷の門をくぐってから今まで、彼の目線はアイシャにしか向いていない。
「アイシャ、見ないうちに綺麗になったね」
「ありがとうございます」
「そのドレスもとても似合っているよ。まあ、私の好みではないが」
「ありがとうございます」
「そうやって髪を結っているのはとても新鮮だね。素敵だよ」
「ありがとうございます」
ダニエルのわかりやすいお世辞に、アイシャは全く興味なさそうに、淡々と返す。感情のこもっていない返事にランもリズベットも吹き出しそうになるのを堪えていた。
どれだけダニエルが物語の王子様のようにかっこよくても、アイシャが彼に靡くことはないだろう。
だが、イアンにはそれを笑う余裕はなく。彼は最愛の人が真横で口説かれているのを、ただ黙って聞くという苦行を強いられていた。
(ぶん殴ってやりたい)
そんなことが頭をよぎる。イアンはあまり上手でない笑顔を貼り付けたまま、拳をギュッと握った。
アイシャはそんなイアンの様子に何かを察したのか、彼に半歩近づき、力の入った拳を解いて指を絡めた。
突然のことにイアンは動揺した。
「えっ……あの、ア、アイシャ……?」
「ダニエル殿下。もし私が綺麗になったのなら、それはきっと、こちらにいらっしゃるイアン様のおかげです」
「……………は?」
「彼がたくさん愛してくれるから、大切にしてくれるから私は自分が少し好きになれました。ねぇ、イアン様?」
アイシャはそう言うと、同意を求めるようにイアンを見上げた。
イアンはキョトンとした顔でアイシャを見下ろす。
「え……、えっと……?」
「好きですよ、イアン様」
「アイ、シャ……?」
「世界で一番好き。大好き。愛しています」
潤んだ瞳でジッと見つめ、頬を紅潮させながら少し甘えるような声でアイシャは愛を囁いた。
そういえば、彼女にこうして真正面から『愛している』と言われたのは初めてな気がする。
イアンは驚いたように大きく目を見開いた。そして体内で何かが暴発したように一瞬にして顔を赤く染め上げると、何故か爆速で後ずさった。どこか懐かしい反応だ。
「あ!どうして逃げるのですか!?」
「ど、どどどどどうしたんだ、急に!みんなの前でこんな!」
「イアン様の真似をしただけです」
「俺の真似ぇ!?」
真新しい天使の石像の後ろに隠れて、………とはいえ、そのでかい図体のせいで何一つ隠しきれていないが、イアンは間の抜けた声を上げた。
「イアン様だって、いつもこんな風に不意に愛を囁いてくださるでしょ?最近は特に、みんなの前だろうと二人きりだろうとお構いなしなんだから」
「いや、まあ。そ、それはそうなんだけど」
「じゃあ、私だってそうしても良いはずです。イアン様、好き。大好き」
「ア、アイシャ。だめだ。良くない。これは良くないよ。すごく恥ずかしいというか……」
「いつもの仕返しです。少しは私の気持ちがわかりましたか?私だっていつも恥ずかしいんですからね」
「わかった。ごめん、気をつける。ごめん」
イアンはプシューッと音を立ててながら、天使像の後ろで崩れ落ちるようにしてしゃがみ込み、膝を抱えて丸くなってしまった。
アイシャはそんな彼を「可愛い」と言ってクスクス笑いながら眺める。
「………………何これ」
取り残された者たちの中の誰かがつぶやいた。
誰がつぶやいたのかはわからないが、その場にいた誰もがその心からのつぶやきに同意したに違いない。
この人たちは皇子殿下の前で一体何をしているのだろう。
不敬だ。ものすごく不敬だ。
男爵家の使用人も、ダニエルの護衛の騎士たちも、ごく一部の人間を除いて、この瞬間だけ心を一つにした。
ちなみにそのごく一部の、ラン、リズベット、オリバーは口元を押さえて必死に笑いを堪えている。
「……………アイシャ。男爵。話があって来たんだが、屋敷の中に入れてはくれんだろうか?」
とうとう耐えられなくなったダニエルは口元を引き攣らせながら、この突然湧いて出て来た甘ったるい空気をぶった斬った。
アイシャはわざとらしく手を叩き、そうでしたそうでした、とダニエルに向き直る。
「申し訳ありません。こんなところで立ち話をさせてしまって」
「………………いや、大丈夫だよ。うん」
「さあ、どうぞ。ご案内いたしますわ、ダニエル殿下」
期待に添えるようなもてなしはできないかもしれないが、とアイシャは薄らと目を細め、ダニエルを屋敷に招き入れた。