14:泣いていたのは(2)
声が、出ない。
はたから見れば、この光景は妹をいじめて泣かせる意地悪な姉に見えるのだろう。
いつもそうだったから、アイシャにはわかる。
でも、
イアンは好きだと言ってくれた。
こちらが受け止め切れるか不安になるくらいの重量で、たくさん愛していると囁いてくれた。
だから絶対にそんなことになるはずがないのに、それなのにほんの一瞬だけ、白いタキシードを着たイアンの隣に立つベアトリーチェの姿が思い浮かんでしまった。
「イ、イアン様……」
アイシャは呆然と立ち尽くし、蚊の鳴くような声でイアンを呼んだ。
だがその声は、ベアトリーチェの甲高い泣き声でかき消された。
「イアンさま!お姉様が!お姉様が私にひどいことを言うんです!」
大粒の涙を流すベアトリーチェに胸がざわつく。
自分はそこまで酷いことを言っただろうか。確かに少し語気は強かったかもしれない。だがまともな事を言ったつもりだ。
ベアトリーチェに理解して欲しくて、彼女の誤解を解きたくて。
------本当に?
本当にそう思っていただろうか。自分のやってきた事を否定されてカッとなっただけではなかったか。
そもそも、子どもたちはあれで幸せなのか。ベアトリーチェの言う通り、真綿に包んで全て与えて愛してやる方が幸せなのではないか。
思考回路が負の方向に傾いていく。アイシャの足はほんの少しの間に地面の奥深くまで根を張ってしまい、動けない。
自分から彼の元へ駆け寄ることが、どうしてもできない。
「……はあ」
アイシャがそうして立ち尽くしていると、イアンは大きなため息をついた。そのため息が何となく怖くて、アイシャは顔を伏せる。
「おいこら、リズベット・マイヤー。仕事をサボるな」
「別にサボってたわけじゃないんだけど」
「言い訳無用だ。連れて行け」
「はいはーい」
イアンに呼ばれたリズベットは面倒臭そうに彼からベアトリーチェを引き剥がした。
状況が理解できないのか、首根っこを掴まれたベアトリーチェはポカンとした顔で固まっている。
イアンはそんな彼女を涙が止まったようで良かったと鼻で笑い、すぐにアイシャの元へ駆け寄った。
「あの……」
「ダメだろう、アイシャ。俺以外に泣かされては」
「え……?」
イアンは手を伸ばし、アイシャの頬を伝う涙を袖で拭う。
アイシャはその時、ようやく自分が涙を流していることに気づいた。
「ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
「ベアトリーチェを泣かせたから」
「君も泣いているじゃないか」
「泣いてる……」
そうだ。アイシャも泣いていた。
子どもの頃、喧嘩をしてベアトリーチェが泣いた時、確か自分も泣いていた気がする。今みたいに、声を出さずに泣いていた。
でも、誰もアイシャの涙は気に留めなかった。
誰もアイシャの話を聞いてくれなかった。
「イアン様は、私の話を聞いてくれるの?」
「当たり前だろう?」
「どうして?」
「君を信じているから。もし君が誰かを泣かせていても、何か理由があるんだと思うから。だから聞くんだよ」
イアンはそう言って大きく両手を広げた。
「おいで。甘やかしてあげよう」
とても甘い声で、とても優しく言うものだから、アイシャは吸い寄せられるようにイアンの胸元に顔を埋める。
イアンは自分の胸で嗚咽を漏らす彼女を、その腕の中に閉じ込めた。
手で髪をすき、優しく大丈夫と囁く。
それは子どもの頃、母にして欲しかったこと。
アイシャは彼の腕の中で、今の自分の正直な気持ちをそのまま吐き出した。
*
「お姉様……、どうして?」
ベアトリーチェには目の前の光景が理解できない。
だって、いつもベアトリーチェが泣いたらアイシャは謝ってくれた。どちらが悪いとか関係なく、自分が悪かった言ってすぐに謝ってくれた。
何よりもベアトリーチェを優先して、可愛がってくれた。
それなのに、結婚が決まってからアイシャは変わってしまった。
妹が泣いているのにそばに来てくれない。気遣ってくれない。わざと傷つけるような事を言う。
自分だけアカデミーに通って、自分だけ社交の場に出てお友達を作って、楽しく過ごしているくせに。
「ずるい。お姉様だけ、ずるい」
アイシャだけ幸せになるなんてずるい。
別に平民上がりの男と結婚したいわけじゃないけれど、姉が一人で幸せになるくらいならと思ってここまで来たのに。
「どうして優しくしてくれないの?どうして自分が可哀想みたいに泣くの?可哀想なのは私でしょう?お姉様、あなたの可愛い妹が泣いているのよ?どうして私を見てくれないの?どうして酷いこと言うの?いつもみたいに私のこと大事にしてよ。大切にしてよ。もっと気遣ってよ。ねえ、お姉様。聞いてるの?お姉様?ねえ、どうして?どうして!?」
リズベットに羽交締めにされ、自分勝手に喚くベアトリーチェ。
イアンはそんな彼女の方を一度も見ることなく、地を這うような低い声でひと言、リズベットの名を呼んだ。
それだけでリズベットは背筋が凍るような感覚を覚えた。
懐かしいこの感覚。戦場に身を置いていた頃を思い出す。
「頭湧いてんのかよ、この女」
リズベットはベアトリーチェの口を塞ぐと、彼女を俵担ぎにして屋敷の中に連行した。
「あの、イアン様……」
「先程、君の叔父様が来られた。今はご両親を説得しておられる。一度身なりを整えておいで」
強く抱きしめたせいで髪が乱れてしまった。
イアンはアイシャの髪にそっと口付けると、心配して様子を見にきていたランに彼女を預けた。
ランは子どもたちに届けたはずのクッキーを一つ、アイシャの口に放り込む。
「子どもたちからです。とても心配していましたよ」
そう言って笑うランに、アイシャは何だか恥ずかしくなってしまった。
いい大人なのに、みんなに心配をかけている。
しっかりしなくては。
「美味しい……」
甘いはずのクッキーは少しだけ塩味がした。




