7:噂話
いくつかの領地を経由し、エレノア子爵領に入った頃には、魔族領との境にあるシャトー山脈がだいぶ大きく見えてきた。
アイシャは今日、アッシュフォード男爵領から一番近い、ヴィルヘルムという街にあるエレノア子爵の別邸に泊まることになっている。
ここで体を一日ほど休めて、明後日の朝には男爵の屋敷に入る予定だ。長かった7日間の移動もようやく終わる。
「そういえば、アイシャ。教会には顔を出したのか? ここに来たらいつも寄っていただろう?」
「はい。こちらについてすぐに」
「そうかそうか。それは良かった」
「司祭様は相変わらずお元気そうですね。安心しましたわ」
「彼は歳を取るごとに益々元気になるからな。不思議だ」
「ふふっ。ではやはり今も毎日鍛えていらっしゃるのかしら?しばらく見ないうちに司祭様というより、騎士様と言った方が良いくらいの体つきになっておられて、とても驚きました」
「毎朝、半裸で筋トレをしているそうだぞ。シスターが呆れ顔で話していた」
「毎朝、ですか。こちらの空気はもうだいぶ冷たいのに……。お風邪を召さないか心配ですわ」
「むしろ、一度くらい風邪でも引いてみると良いと思うよ。そうすればシスターも彼が人間である事を思い出すだろう」
「まあ、叔父様ったら」
夕食の後、サロンで子爵夫妻とお茶をしていたアイシャは、変わり者の司祭のことを冗談めかして話す叔父に柔らかく微笑んだ。
実家にいるよりも落ち着く空間。意味のない世間話も、心の底から楽しいと思える。
アイシャは自分の中に黒く広がっていた、伯爵家に対する負の感情がゆっくりと浄化されていくような気がした。
「ところでアイシャ。君はアッシュフォードについてどのくらい知っているんだ?」
「……気候とか主産業とか、そういう基本的なことしか知りません。魔族襲撃後の状態は新聞などで少し見たくらいです」
「そうか。では今夜のうちにしっかりと覚悟をしておきなさい」
「覚悟、ですか?」
「ああ。アッシュフォードはここ、ヴィルヘルムと同じように街を燃やされた。今は男爵が復興に力を注いでいるが、あちらはここよりも被害が大きかったからな……」
子爵は神妙な面持ちでそう話した。
魔族の襲撃から実に5年。英雄であるイアン・ダドリーと彼が率いる傭兵団の活躍により帝国は見事勝利をおさめたが、それでも戦争の傷跡はそう簡単には消えてくれない。
箱入りのアイシャには受け入れがたい光景もあるかもしれないと、子爵は心配しているようだ。
確かに、アイシャ本人もその点は不安に思っていた。自分は裕福な家庭に育った箱入り娘で、あちらの生活に馴染めるか自信がない。
「……そうですね。環境もまるっきり違うわけですし、期待や先入観はゼロにしてアッシュフォードに向かいたいと思います」
「ああ、それがいい」
「……あの、叔父様。私からも一つお尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、何だい?」
「叔父様は、その……。男爵様をご存知ですか?」
「もちろん、知っているよ。何せ彼はこの地を救った英雄だからね」
「では、男爵様って……、どんな方なのでしょう?」
悪い人でないと思いたい。けれど良い噂は聞かない。
アッシュフォードが目前に迫り、大きくなる不安をどうにかしたくて、アイシャは意を決したように尋ねた。
すると、子爵はフッと柔らかく微笑んだ。
「気になるのかい?」
「ええ、まあ。夫となる方ですのにお会いしたこともありませんので。それに……」
「よくない噂を聞いたのか?」
「……はい」
イアンは戦闘狂で血も涙もなくて、とにかく恐ろしい男。ガサツで野蛮で、品性のかけらもない男。首都でも領地でも、そんな噂ばかり聞いた。
もちろんこの噂話の全てが真実というわけではないだろう。しかし、火のないところに煙は立たないとも言う。
(せめて、女性に暴力を振るわない男でありますように……)
なんて祈りながら、アイシャはなるべく上手くやっていきたいからイアンのことを教えて欲しいと懇願した。
すると子爵は綺麗に伸びた白い髭を触りながら、夫人の顔を見て頷いた。
「我が妻よ。君はどう思う?」
「わたくしですか?そうですわねぇ……。たしかに、平民の出身だからか、作法に関してはまだまだ残念だと言わざるを得ないわ」
「なるほど……」
「あとは……、基本的には少し残念な人ね」
「残念?戦争の英雄がですか?」
「あ、でも、女性の扱いには慣れていないから、浮気の心配はないわ。デリカシーがないからか、モテないの」
「そう、なんですか?」
「あとは……そうねぇ。世話焼きな人、かしら。あの魔族の襲撃以来、備えあれば憂いなしって言っては度々我が子爵家の私兵を訓練したりしてくれるのよ?」
「それは、また魔族の襲撃があるかもしれないから、それに備えてってことですか?」
「ええ、そうよ。ただでさえ、平民から貴族になって色々と忙しいのに、それでも時間を作って訓練してくれるの。兵が強くないといざというときに民を守れないからって」
「そうなのですか……」
「そういえば……、その訓練をしてもらった時の姿はまさに鬼神だったわ。文字通り血も涙もないと言わざるを得ない感じだったわね」
「あ、やっぱり……」
「でも、笑うとすごく可愛いのよ?」
「……か、かわ?」
予想と違いすぎる印象を次々と語る夫人にアイシャは困惑した。
かわいいけれど鬼神で、戦争の英雄なのに残念とはどう言うことだろうか。
そんなことを考えながらどんどん眉間に皺が寄っていくアイシャを見て、夫人は思わず吹き出した。
「ふふっ。アイシャ、淑女らしからぬ顔をしているわ」
「やだ……。申し訳ありません」
アイシャはその指摘に恥ずかしそうに顔を伏せ、眉間の皺を伸ばす。夫人は不意に席を立つと、アイシャの椅子の前に膝をついて彼女の手を優しく握った。
「ねえ、アイシャ。貴女はわたくしが今言ったことを信じていないでしょう?」
「正直に申し上げるならば……、そうですね。噂とは違いすぎて何だか信じられません……」
「だったらあなたの質問は無意味だわ。彼がどんな人物であるのかはあなたが自分の目で確かめるしかない」
「……そう、ですね。申し訳ありません」
「いいえ、謝る必要はないわ。何もわからぬまま突然命じられて嫁ぐのだもの。不安から噂話を真に受けてしまうのも仕方がないわ」
夫人はゆっくりと首を左右に振り、不安げな表情をするアイシャの頬を優しく撫でた。そして諭すように語る。
「ただね、アイシャ。噂は所詮噂なのよ。アイシャには自分の目で見たものを信じて欲しいわ」
「おばさま……」
「明日この屋敷を発ったら、今まで聞いてきた彼の噂は一旦忘れて、まっさらな状態で彼のことを見てあげて欲しいの。ね?」
「……はい。そうですね。噂を鵜呑みにしてはいけませんよね。人として大事なことを見失うところでした。ありがとうございます」
「ふふっ。アイシャは本当に素直でいい子ね」
夫人はぎゅっとアイシャを抱きしめた。
アイシャも夫人の背中に手を回して抱きしめ返す。
思えば、実の母親よりも夫人に抱きしめてもらった回数の方が多いかもしれない。
夫人が家庭教師をしてくれていた期間は社交界デビューをする少し前までの数年間だけだったのに、アイシャが生きてきた19年の人生の中でのたった数年間だけだったのに。
それでも夫人は実の母親よりも母親らしかった。
夫人の温かさに、アイシャの視界は涙でぼやけた。そして一筋、自分の目から雫がこぼれ落ちていることを自覚するとそこからは堰を切ったように大泣きした。
こんなふうに感情を露わにするアイシャを見たのは本当に久しぶりだったからか、夫妻は悲痛な表情を浮かべながら、彼女を守るように二人でその弱々しい体を強く抱きしめた。
その夜。アイシャは幼児のように、夫妻のベッドで彼らに挟まれて眠ったらしい。