32:奥様(3)
しんとした庭に、アイシャの声が響いた。
わずかに怒りを孕んだその声に、物陰に隠れて様子を見ていたランたちは目を丸くする。
テオドールも予想外という顔をした。
「な、何……」
「リズベット。主人の言葉を遮るものではないわ。弁えなさい」
「……っ!」
「私は魔族を許せとは言っていない」
「……魔族と交易なんて、そう言ってるも同然じゃない」
「違うわ。許す必要なんてない。許さなくていい。憎んだままでいい。受け入れる必要もないし、されたことを忘れる必要だってない。そんな簡単な話じゃないもの。ただ……、政治と感情は切り離して考えて欲しい」
受けた傷の深さは本人にしかわからない。すぐに許せるようになる人もいれば、一生憎んだままの人もいるだろう。
魔族に対する感情なんて人それぞれだし、そこに他人が干渉する余地はない。
ただ、ずっと感情に囚われたままでは前へは進めない。
「あなたの言う通り、この地に住む人々には受け入れられないことかもしれない。けれど魔族と健全な関係を築くことはこの地の安寧のためにも発展のためにも、重要なことだと私は考えているわ」
アッシュフォードには何もない。痩せた土地と何があればすぐに物流が滞ってしまうような複雑な地形。
こんな僻地だから、貧しさから飢え死にする者もいれば、医療物資の不足で死んでしまう者もいる。
街の中心部はまだマシだが、それでも多くの民が生きるだけで精一杯の、そんな場所。
子どもに学ぶ機会を与えることも、職業の選択の自由もない。
「まだ先の話よ。今すぐどうこうという話じゃない。でも魔族との交易の中心地となれば長期的にもアッシュフォードは発展していける。そうなれば皇室だって、アッシュフォードを軽視はしない」
すべてはアッシュフォードのため。今はまだ無謀な夢物語だが、アイシャはそこに可能性を見出したいと力強く語った。
どれだけ人々から蔑まれたとしても、それでこの地が良くなるのなら構わないと、そう語る彼女の瞳に嘘はない。
リズベットはギュッと唇を引き結んだ。
「ごめんね、こんな時に。でもいずれは話さないといけないことだし……」
拳を握りしめて俯いたまま返事をしないリズベットに、アイシャは少し寂しそうに笑った。
「でも、リズの気持ちが一番大切だから……。無理に私に付き合う必要はないから」
「あ……」
アイシャはリズベットの返事を聞かず、覗き見ていたランの首根っこを掴んで屋敷の中へと戻っていった。
残されたリズベットはテオドールをキッと睨みつける。
「どうして?」
「何がです?」
「どうして、今この話をさせたの」
彼女はテオドールに誘導され、この話をした。
タイミングは今でなくとも良かったはずなのに。
マリンのことで心が乱れた自分に追い討ちをかけるようなテオドールの行動に、リズベットは悲しくなったのだ。
テオドールはそんな彼女の心を察したのか、少し心が痛んだ。痛める資格のない心を。
「奥様はこの戦争を終らせるため、魔族の国に新たな王を立てるおつもりです。それも中央の力を借りずに」
「それは聞いた。でも無謀だわ」
「そうですね。望みは薄いでしょう。でもやって損はないです。奥様に唆された魔族が謀反を失敗しても、あちら側が混乱するだけでこちらに被害はありませんから」
「……そうね」
「成功すれば新しい王はきっと帝国に従属するでしょう。そうすることが一番安全だからです。疲弊した土地を甦らせるためには帝国に従属し、帝国の支配下で安寧を手に入れるしかない。そして彼らは一度手に入れた安寧はそう簡単には手放さないでしょう。きっと魔族に怯える日はもうすぐなくなります」
けれど、安定を手に入れてそこで終わりではない。
戦争が終われば、アッシュフォードは他領からの支援を得られなくなる。
冬の間充実していた食糧は、同じように手に入らないだろう。
戦争を終わらせるなら、その先も見ておかねばならない。
だから、リズベットがこれから先も感情を切り離して考えられないのならアイシャの側には置いておけない。彼女の邪魔になる。
テオドールは容赦なくそう言い切った。
「初めてこの話を聞いた時は、僕も奥様は脳内がお花畑でいらっしゃるのかと思いましたし、旦那様も奥様のただの可愛らしい夢として聞き流していました。きっとこの話を知る、今日の会議の場にいた騎士達もそう思っているでしょう。でも奥様は思っていたよりもずっと本気で考えておられたようです」
最近のアイシャはずっと忙しなくしている。
屋敷にいる間はイアンと共にテオドールから魔族の言葉を教わり、外に出たときは必ず民と言葉を交わした。
アイシャはいつか来るその時のために民に希望を与え、彼らとの間に信頼関係を築き、必要な準備をしているのだ。
「この間だって、名も顔も知らぬ戦死者の墓参りまでしていたことをリズも知っているでしょう?」
孤児院からの帰り、アイシャは冷たい大地の下に眠る、思い入れもない者たちのために膝をつき、手を合わせた。そんなことをする必要なんてどこにもないのに。涙まで流して。
あれは半分はパフォーマンスだろう。たが、パフォーマンスでそれができる人だからこそ信頼できる。
「リズ、僕は奥様について行きたいと思っています」
「テオ……」
「そして、僕は君も同じようについて来て欲しいと思っています」
テオドールは珍しく、熱意のこもった目でリズベットを見つめる。
リズベットはその視線に応えられず、目を逸らせた。
「……では、旦那様には今回の件から外れるとお伝えしておきますね」
「……うん」
テオドールは優しく微笑み、リズベットに背を向けた。
ここですぐ『私もついて行く』と返せれば、彼は自分を見直してくれるだろう。
だが、リズベットは自分の心に嘘をつけない。
傷ついた心はそう簡単には変わらないし、簡単に前を向けるのなら苦労はしない。
人間の全員が善人ではないように、魔族の全員が悪人ではないのだということも理解はしている。
「……信じてみたいとは思うけれど」
リズベットは隠れていたニックを呼び、もう一杯茶を入れろとせがんだ。