30:奥様(1)
結局、リズベットは部屋にはいなかった。
部屋に引きこもっていないとすると彼女が向かう場所はただひとつ、ニックの小屋だ。
裏庭の近くに建てられた小屋には庭師になってから集めたニックの庭いじりコレクションに加えて、彼が休憩するために揃えた茶菓子なども充実しているらしい。
彼の人柄もあるのだろうが、屋敷の使用人は皆、落ち込むことがあるとここを訪れる。
話を聞いてもらうことももちろんあるが、ただこじんまりとしたところで実家を思い出しながらのんびり過ごし、疲れた心を癒す者も多いとか。
だから当然、リズベットの他に客がいる可能性は十分にあるわけで。
リズベットは外套を羽織り、小屋の外で呑気に暖かいお茶を飲むランを半眼で見下ろした。
「ラン……。あんた、何してんのよ。サボってんじゃないわよ」
「それはこちらのセリフですが、マイヤー卿。会議では?」
「……追い出された」
口を尖らせ、頬を膨らませるリズベットにランは思わず吹き出してしまった。
「追い出されたぁ?何をやらかしたのですか?」
「別に何もしてない」
「何もしていないのに追い出されるなんてこと、あるわけないでしょう?当ててあげましょうか?」
「やめてよ」
「そうですねえ、例えば作戦に納得できずに感情的になったとか?」
「うぐっ……」
「図星ですか?ほら、やっぱりね。あなたは感情を表に出しすぎなのです。傭兵としてはそれで良くても騎士としては失格ですね?」
「う、うるさい」
「騎士とは感情的になってはいけないのですよ?常に主人のそばにあるのですから、それ相応の品格が求められますから」
「うるさいうるさいっ!」
当たらずとも遠からず。的確に痛いところをついてくるランにリズベットは何も言い返せず外方を向いた。
年下の小娘にこうも的確な指摘をされるとは情けない。自分でもそう思っているのだろう。
ニックは入れ立ての安物の紅茶を出すと、リズベットにランの隣に座るよう促した。
藁を敷いているとは言え、冷たい地面に直に座るのはお尻が冷えて腹を壊しそうだ。
「よっこらしょっと……。それで、どうした?」
足の悪いニックはお手製の小さい椅子を引きずり、それをリズベットの横に置いて腰かけた。気怠げな彼の態度にリズベットは眉を顰める。
「面倒臭そうにしないでよ」
「面倒臭いんだから仕方がないだろ。ランといい、お前といい、なんだってこんな寒い中を俺なんかのところにくるんだ」
「そういえばランはサボり?」
「だから違います!休憩中です!あなたと一緒にしないでください」
「いちいち腹の立つ言い方をするわね!」
「おい、喧嘩するなら帰れよ。……ちなみにランは拗ねてるだけだ。最近の奥様はランを置いて教会に行くから」
「ちょ!言わないでくださいよ、ニックさん!」
「何それ、子どもみたーい。ププッ」
リズベットは煽るように口元を押さえて目を細めた。
だがそれに乗るほどランも子どもではなく、フンとそっぽを向いてお茶を飲み干す。
すると、屋敷の方からテオドールとアイシャがパタパタと走ってくるのが見えた。
別に休憩中だから何をしていても構わないのだが、ランは素早く立ち上がるとお仕着せについた土を払い、姿勢を正した。
「テオ様、奥様。犯人はこちらです」
「あ、ちょっと!」
なんとなく、何を探してここまで来たのかを察したランはリズベットの腕を掴み無理やり立たせると、二人の前に突き出した。
「テオ……」
リズベットは気まずそうに顔を外らせる。ランと無意味な口喧嘩をして頭が冷えたのだろう。会議の場で冷静さを欠いた自分が恥ずかしく感じ始めたらしい。
そんな彼女の心情を察したのか、テオドールは呆れたようにため息をこぼした。
「リズ。今回の司祭殿の裏切り、旦那様はできる限り穏便に済ませたいとお考えです」
「……穏便、に?」
「はい、穏便に」
テオドールはチラリとランとニックに目をやった。視線を感じ取った二人は空気を読み、席を外す。これ以上は聞いてはならない事だと察したのだろう。
テオドールは二人の姿が見えなくなると話を続けた。
「……シスター・マリンの裏切りに憤慨する気持ちはわかります。あなたは特に彼女と親しかったから」
「ええ、そうね。魔族の悪行に加担していたなんて気持ち悪くて吐き気がする。でも、彼女を唆した魔族にはもっと吐き気がする。殺してやりたい」
「……話を聞いていましたか?違いますよ。魔族に唆された訳ではありません」
「わからないじゃない!」
「わかりますよ。シスター・マリンが証言していたじゃないですか。マリーナフカは司祭様が作った自爆装置だったのです。司祭様は保護を求める魔族の子どもを騙して殺したのです」
「そんなの、本当かどうかからないじゃない……」
「決定打には欠けますが証拠は揃っています。彼女の証言は真実と見て良いでしょう。それに、司祭様を庇うならまだしも、魔族を庇うような嘘をつく理由など彼女にはありませんから」
「……でも!」
「リズ。冷静になってください。確かに魔族は悪です。それは間違いない。しかしこのマリーナフカの件に関してのみ言えば、非があるのはこちらです」
「……」
「リズベット・マイヤー。だからこそ、冷静にならねばならないのはわかりますよね。怒りのままに行動できないことを」
今回の件、雨が降ればその日の夜には騎士団が動く。マリンが話したように砦沿いの湖の近くまで行き、そこで司祭がいれば魔族の子どもを引き入れた時点で彼を現行犯逮捕するという流れだ。
だがこの時、同時にその場に訪れた魔族との交渉も試みなければならない。
その際もしリズベットが感情的になれば、相手を刺激し、すぐに戦闘体制に入ることになるかもしれない。
だからこそ感情的にはなるなとテオは諭すように説明した。
しかし、テオドールの言うことを頭では理解しつつも、心が追いつかないリズベット。拳を強く握り締めた彼女は震える声で呟いた。
「……あいつらと対話できると本気で思ってる?」
「可能性はゼロではありません」
「無理よ。できっこない」
「やってみなければわかりません」
「わかるわよ!もし対話なんて出来るならあんな戦争、起こってない!」
「リズ……」
リズベットは知っている。奴らの残忍さを。
その琥珀色の瞳に、嫌というほど焼き付けてきた。