21:手を取る(2)
一先ず部屋に入ったアイシャは、机の上に色々と資料を並べはじめた。
イアンはそんな彼女に怪訝な視線を向けた。
「名前、どうして知っているんだ?」
「ルーデウスですか?」
「マーシャルも」
「偶然です。ここに来る前、食材を持って厨房にも挨拶に行ったので。その時に話した女性のご主人の特徴が彼らと似ていたから、もしかしたらと思って」
「挨拶を交わしたこともないのに名前を知ってるなんて、みんな驚いていたぞ?」
「驚きを提供できたのなら良かったです。衝撃的な出会いは記憶に残りやすいもの」
これで、彼らとアイシャは赤の他人から顔見知りになった。
手の届かないはずの人間が自分の顔と名前を知ってくれていたという事実は、彼らの中に少なからず『好感』を植え付けたはずだ。
きっと彼らは無意識下で植え付けられたアイシャに対する好感から、自然と味方になってくれるだろう。
そう、例えば、これからお昼をとりに行く食堂でアイシャの悪い噂が出た時に『そんな風には見えなかったけどな』と、ひと言呟いてくれたりとか。
もちろんたったそれだけの言葉で何かが大きく変わることはないが、それでも無いよりはいい。
そう言ってニコッと笑うアイシャ。その笑みは普段の彼女とはまるで別人で、イアンは目を丸くした。
「君は策士だな、意外と」
「こういう勉強もしてきたので。まあ、全てあなたが私を尊重してくださっているから出来ることです。自分の主人が尊重しない人を下の者は尊重しませんから」
伯爵家のことを思い出したのか、アイシャはフッと乾いた笑みを浮かべた。
「そういうものか?まあでも、元気そうで良かった……。うん」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう大丈夫です」
「大丈夫は嘘だろう。目の下のクマがすごいぞ……」
大丈夫と言う割に、アイシャの目の下には化粧でも隠しきれないほどのクマが出来ている。
イアンは心配そうにアイシャの頬に手を伸ばした。しかし、すぐにその手を引っ込める。
二度も彼女に手を振り払われたことを思い出したのだ。これ以上怖がらせたくはない。
しかし、アイシャは引っ込められた彼の手を自ら掴んだ。
そしてその手を自分の頬に持ってくると、愛おしそうに頬擦りする。
「な、何を……!?」
「ごめんなさい。結局私は、わがままを言ってついて行ったくせに、いざ現実を目の当たりにするとそれをすぐに受け入れることができない臆病者でした。覚悟ができているつもりになってただけだった。わかっているつもりになっているだけだった。本当の意味で何も知らないくせに、知った気になって、理解した気になって。傲慢で浅はかでした」
「アイシャ……」
「あなたのこと、傷つけてごめんなさい」
「謝らないでくれ。君が悪いわけじゃ……」
「いいえ。私が悪いのです。……ここにくる途中、教会に寄りました。司祭様に無理を言って、マリーナフカの棺も見てきました」
「……そうか」
「あなたが自ら火葬し、供養しているそうですね。皆の反対を押し切って」
「……ああ。でもこれは、ただの罪滅ぼしみたいなものだ」
イアンは教会の外に小さな棺を作り、そこに火葬した彼らの遺灰を入れている。一つ一つ、丁寧に瓶に詰めて、リボンをかけて。遺灰の周りにはたくさんのぬいぐるみやおもちゃを置いたりなんかして。
まるで許しを乞うみたいに。
「マリーナフカの棺は誰のためでもない。俺が許されたくてしているだけの、ただの自己満足だ。そんなことで罪がなくなるわけでもないのに」
そう言ってイアンは自嘲するように笑う。アイシャはその笑みが苦しかった。
殺さなければ殺される。だから殺す。死にたくないから、生きていたいから、だから殺される前に殺す。ただそれだけのこと。それが日常。
けれど、優しい人だからいつまでも慣れないのだろう。
厨房で働く女性が言っていた。私の息子は魔族を殺したことで心を壊し、今はアルコールに溺れていると。
どうりで酒の差し入れが一番喜ばれるはずだ。
悪いのはあちら側で、アッシュフォードの民は多くを失っている。でも、転がる遺体を見てふと、そいつの家族の顔を思い浮かべてしまうのだろう。
いっそ、魔族が醜い獣の姿をしていてくれたら良かったのにと思う。彼らがほとんど人の姿をしているから、こんなにも辛いのだ。
「あなたがそれを罪と呼ぶのなら、私にも背負わせてください」
アイシャはイアンの指先に軽く口付けた。指先に触れた柔らかい唇の感触のせいか、イアンの顔は仄かに赤くなる。
「……俺の手は数多の命を奪ってきた手だ。血で汚れている。それでも、君はこの手を取るのか?」
「私は誰かを守るために傷ついてきたあなたのこの手を、とても愛おしく思います」
それは誰かを守るために傷ついてきた手。誰かの代わりに汚してきた手。
決して、彼が望んでその手を血に染めて来たわけではない。
ニックに話を聞いたり、過去の記録を読んでアイシャはイアンの生きてきた世界を勉強した。
彼が何と戦い、何を守って来たのかを知った。
知って、やっぱり共にありたいと思った。
「どうか、私をおそばに置いてください」
「どうして……」
俺なんかのために。
剣を振るうことしか能のない平民上がりの男なのに。多くの命を奪ってきた、冷酷な男なのに。
アイシャは一度は恐ろしく感じたこの手を、また取ってくれると言う。
まだ完全に割り切れて訳ではないだろうに、それでも共にありたいのだと言ってくれる。
(ああ、こんなに嬉しい事はない)
イアンはアイシャを抱き寄せると、彼女の手に自分の指を絡めた。そして指先に、手の甲に、唇を落とす。
「……え?」
「ん?」
「ひゃっ!」
室内に響く生々しいリップ音。
愛おしそうに口付けてくる彼に、アイシャはどうしたら良いのかわからず戸惑った。
そうされることを想定していなかったのだ。
君の全てが欲しいと懇願するような目をして手のひらに口付けるイアンを直視できない。
「あ、あの……」
「だめ。もう少し……」
「でも……」
急上昇する体温。心臓が破裂しそうなほどに大きくなる鼓動と、手に触れる彼の唇の感触。
そして離してほしいと言いつつも、振り払うことができない手。
どうしよう。このままではいけない気がする。
そう思いながらも、動けない。
イアンはアイシャの頬に手を添え、アイシャは少しくすぐったそうに身動いだ。
「アイシャ……」
「男爵様……」
イアンの黄金の瞳に吸い込まれるようにアイシャは少し背伸びをした。
イアンは頬に添えた手を口元へと滑らせ、彼女の柔らかい唇を親指の腹で優しく撫でる。
そこには確かに、二人だけの空間ができていた。
「……あの……、僕がいるの忘れてます?」
二人の鼻先がくっつくかどうかの距離に来た時、本当に申し訳なさそうに呟いたテオドールの一声が辺りに響いた。
「あ……」
「ごめん……」
「いや、いいよ。もう。ちょっと慣れてきたし」
慣れたくはなかったけれど。
無事に結婚できそうなので、テオドールはこれはこれで良しとすることにした。




