3:新入りメイドは打算的
突然結婚を決められてから7日ほどが過ぎた。
その間、アイシャは一切部屋から出ず、誰にも会わなかった。
一度だけ母が部屋を訪ねてきたが、案の定『ベアトリーチェが心配しているから顔を見せろ』と言われただけだった。
当のベアトリーチェはたまに部屋の前まで来るらしいが、姉にどう声をかけて良いのかわからないのか、何もせずに去っていくらしい。そして、使用人たちは彼女のその姿を見て『お可哀想に……』と同情しているのだとか。
この屋敷の人間は本当に可哀想なのはどちらなのか、理解する頭がないようだ。
……そして、生贄を告げられて10日目の昼下がり。
『本格的に冬になると関所の門が閉じるから、春の結婚式よりも先に屋敷に行け』と命じられたアイシャは、とうとうこの屋敷を離れる。通常ならば、結婚式を挙げてからでないと婚家に住むことはできないのに。
この措置は明らかにアイシャの逃亡を防止するためにとられたものだった。
しかしアイシャはもう、今更何も思わない。
「お、お嬢様……。本当に荷物はこれだけで良いのですか?」
新入りメイドのランはアイシャの向かいでお茶を飲みながら、トランク二つ分しかない荷物とクローゼットに大量に残されたドレスを交互に見て不安げに尋ねた。
普通の貴族令嬢の結婚ならば、それもブランチェット家ほどの富豪の娘ならば馬車二つ分の荷物でもおかしくはないのに、アイシャの荷物は明らかに少なすぎる。
しかし、アイシャは大丈夫だと言ってケラケラと笑った。
「あんまり大荷物で行くのも移動が大変でしょう? 男爵領は遠いのだし」
「で、でも!こんなにたくさんのドレスがあるのに……」
「ドレスこそ必要最低限で十分だわ。あちらはここよりもずっと寒いのよ?気候に合わないかもしれない服を持っていくよりも、換金できそうな宝飾品を元手に領地に合わせたドレスを新しく買った方が賢いと思わない?」
「それはそうかもしれませんが、思い出のドレスもあるのでは?」
「思い出の詰まったドレスなんて、私は持っていないわ」
ランが指さすクローゼットに並んでいるドレスたちはみんな、自分でオーダーしたもの。ベアトリーチェのように父や母に選んでもらったものでもないし、これを着て父にエスコートされた記憶もない。故に思い入れなどあるはずもない。
そう呟いたアイシャは口元に笑みを浮かべているものの、瞳は遠くを見つめ。どこか諦めに似た色をしていた。
(まあ、そもそも持って行きたい思い出なんて、私にはないけれど……)
この10日間、アイシャはずっと過去を思い返していた。
そしてようやく受け入れることができたのは、この家での思い出でアイシャが主人公だった日が一度だってなかったという事実。
例えばジェラルドやベアトリーチェの誕生日会はあっても、アイシャの誕生日会はなかった。兄と誕生日が近いせいでまとめられていたから。
例えばベアトリーチェのデビュタントは盛大にお祝いされたけれど、アイシャのデビュタントはおめでとうの一言もなかった。ベアトリーチェの体調が不安定な時期だったから。
いつだってアイシャは主人公にはなれなかった。
今までは姉だから仕方がない。お利口にしていたらいつかきっと、両親が自分を見てくれる日がくる。そう思い込もうとしてきたけれど流石にもう気づいた。
そんな日は永遠に来ないのだ。
愛されていないわけではなくとも、一度たりとも一番になれないのは、もうしんどい。
アイシャはティーカップに並々と注がれた紅茶を、マナーなど無視して一気に飲み干した。まるで仕事終わりの酒を飲むどこぞのおじさんのように、ぷはーっと言って袖で口を拭くアイシャに、ランは困惑する。普段の淑女然とした彼女らしからぬ行動だ。
「お、お嬢様?」
「ん?何?」
「あの、お嬢様……。その……」
今日のアイシャはどこか吹っ切れたような、明るい雰囲気がある。けれどそれは明らかな空元気で、ランは思わず「大丈夫か」と尋ねようとした。
しかしちょうどその時、それを遮るようにアイシャの部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、迎えの馬車が到着しました」
扉の向こうから聞こえたのは長年この家に使える執事の声だった。アイシャはすうっと大きく深呼吸して、すぐに行くと伝えた。執事は下で待っていると返し、扉の前から去った。
「さて、行きましょうか。ラン」
「あ、はい……」
顔を見合わせたアイシャとランは一拍置いて、ソファから立ち上がった。
アイシャは自分のトランクを一つ持ち、ゆっくりと扉を開ける。ランは自分用の小さなトランクとアイシャの荷物を両手に持ち、部屋の方に一礼して彼女の後に続いた。
ランがこのお嬢様に仕え始めてまだそんなに日は経っていないが、それでも服の上からでもわかるほどに彼女は痩せた。薄い肩と背中、折れそうな腕に、目の下にできたクマ。
今のアイシャは全てが痛々しい。長い廊下を歩きながら、ランは悔しそうに顔を歪めた。
「……ごめんね、ラン」
悲痛な表情で見つめていたのがバレたのか、アイシャはふと、そんな言葉をこぼした。
振り返らずに言われたその一言に、ランは一瞬大きく目を見開く。そしてすかさず彼女の前に回り込み、首を大きく左右に振って、その言葉を否定した。
「お嬢様は付き人はいらないとおっしゃってくださいました。けれどついて行くと言ったのは私の方です。それに、ほら!私には帰る家もありませんし、ついて行くには適任です!」
「でも、あなたまだ若いのに」
「若いからこそですよ!きっと男爵領の人たちにとって、都会からきた若い女なんて珍しいはずでしょう?間違いなくここにいるよりモテます!男選び放題ですよ!」
「……思っていたよりも打算的な言葉が返ってきてびっくりだわ」
「ええ、そうです。私は自分の意思で、自分の打算でついて行くのです。だから、申し訳なさそうにしないでください」
ね?とランは顔をクシャッとして笑った。彼女のおさげに結った赤い髪がふわりと揺れる。
くるみ色の瞳の奥は不安で揺れているというのに、本当に肝の座った娘である。アイシャは思わず笑ってしまった。
それはランがここ数日で初めて見た、彼女の心からの笑顔だった。