11:孤児の家(1)
「子どもたちと付き合いの長いあたしからの助言よ。心して聞くように」
「はい!よろしくお願いします、リズ先生!」
「コホン。では、まず心得その一、大きな声を出さない。その二、打ち解けるまで距離を保つ。その三、拒絶されても凹まない。約束できる?」
孤児たちが住む、小さいが可愛らしい煉瓦造りの家の前で、リズベットは指を折りながらアイシャに迫った。
この中にいるのは戦争で心身共に深い傷を負った子どもたち。それ故に彼らの心に負担をかけないようにすることは当然の配慮だ。
だがしかし、それとアイシャに対するリズベットの尊大な態度はまた別の問題。アイシャの後ろに控えているランはリズベットを睨みつけながら不服そうにしていた。案内役のシスター・マリンまでもが若干引き気味である。
「約束するわ!リズ」
「よろしい!ではいきましょう、お嬢様」
「マイヤー卿。個人的には貴女にも騎士としての心得を説きたいのですが!?奥様に無礼すぎでは?」
「奥様が寛大なお方で良かったですね、リズさん……」
普通なら首を切られかねないほどに無礼だ。マリンはいずれそうなる未来が訪れないことを祈るように、胸の前で十字を切った。
マリンが静かに家の扉を開けると、中では同じ年頃の子どもが3人、床に座って遊んでいた。おままごとでもしていたのだろうか。空の食器に少し錆びたカトラリー、それからりんごやじゃがいもが床に並べられている。
「みんな、お客さまよ。ご挨拶して」
「あれ?シスター・マリン、今日はお休みじゃなかったの?」
「サーシャが風邪を引いてしまってね」
「あー、シスター・サーシャは体弱いもんね」
「ご苦労様です。泥団子いる?すごくピカピカになったの」
「いりません」
「つーかお客さまって、ただのリズじゃん」
わいわいとマリンの周りに群がる子どもたち。
そんな彼らのうちの一人、10歳くらいのそばかすが特徴的な男の子がリズベットの顔を見てガッカリしたようにため息をこぼした。
そんな彼に対し、リズベットは穏やかに微笑みながら、そっとその柔らかそうな頬に手を伸ばし、思い切りつねった。大声を出すなと言っていたくせに、頬をつねるのは良いのだろうか。
「相変わらず生意気だな、レオ」
「痛えよ!この暴力女!だからいつまでも独り身なんだ!」
「なんだと!調子に乗りやがって、このクソガキ!」
「だから痛いって!グリグリすんなぁ!」
「ちょ、マイヤー卿!?」
ランの静止も意味なく、リズベットは問答無用でレオのこめかみを拳でグリグリした。かなり痛そうだ。
しばらくして解放されたレオはこめかみを抑えてうずくまる。
もはや大声を出すなという約束すらも守られていない気がする上に、口調まで先ほどよりも荒い。これはでは怖がらせてしまいそうなものだが、一体どういうことなのだろうか。
アイシャは困惑しつつも、レオの頭にコブができていないかを確認しようと、無意識のうちに背後から彼の頭に手を伸ばした。
アイシャの手が微かに、レオの白髪混じりの赤髪に触れる。すると、彼はその手を勢いよく払い除けた。
「……うああああああ!!」
恐ろしいものでも見たかのように怯えた様子で叫ぶレオ。バシッと音が鳴るくらいの勢いで手を払われたアイシャは思わず後ずさった。
「……え?」
レオはしゃがみ込み、自分の肩を抱きしめ、身を守るようにして震えている。彼より小さな二人の女の子は彼を守るように両手を広げてアイシャを威嚇した。
「レオに近づくな!」
「……近づくな!」
「…….ご、ごめんなさい。あの、大丈夫?」
威嚇はしているが、少女たちの足も震えている。
自分は何か、してはいけないことをしたのだろうか。アイシャは理解が追いつかない。
するとリズベットは突然、レオの足元に寝転がり、彼を見上げながら話しかけた。
先程とは違う、少し低い、けれどとても優しい声色で。
「大丈夫だ、レオ。落ち着け」
「うっ……うう……」
「怖くない。大丈夫だから。俺の目を見ろ。ほら、大丈夫だから」
「……やめて、もうやめて」
「レーオ。彼女は敵じゃない。大丈夫」
「……うう……怖い、痛いよ……兄ちゃんっ!兄ちゃん!」
「レオ。大丈夫。ほら、ゆっくり息を吸って」
「兄ちゃん……、助けてよ、兄ちゃん……」
「大丈夫。助けに来たぞ。ほら、吸ってー、吐いてー。吸ってー、吐いてー」
リズベットは優しく、何度も深呼吸を促した。レオは徐々に彼女の声に合わせて息を吸い、吐き出した。
そしてしばらくし、ようやく落ち着いた彼はそっとアイシャの方を見上げた。怯えた瞳で、何かを探るようにじっとこちらを見つめている。
声は出したくても出せないのだろうか。時折口をぱくぱくとさせては、しばらくして諦めたようにまた唇を引き結ぶ。
その様子を見てハッとしたアイシャは、リズベットと同じように床に寝転んだ。
「え!?お、奥様!?」
「大丈夫です、シスター。お気になさらず」
「ランさん……、でも……」
「大丈夫です」
綺麗な服を着た貴族令嬢が薄汚い古びた家屋の床に這いつくばるなど、彼女の常識ではあり得なかったのだろう。
ランは驚いて止めようとするマリンを宥め、アイシャとレオを見守った。
「驚かせてしまったかしら?本当にごめんなさい」
「……」
「……あの、私はアイシャっていうの。貴方は?」
「…………レオ」
「そう、レオって言うのね。素敵な名前ね」
「…….うん」
「そう心配するな、レオ。ほら見てみな?この女、虫すら殺せなさそうな顔してるだろ?大丈夫だ。お前を傷つけるようなことはしない。絶対にだ」
「……うん」
アイシャは優しく微笑みながら、ゆっくりとレオの足の近くに手を伸ばした。レオは少しだけ体をこわばらせたが、彼女の手におそるおそる自分の手を伸ばした。
はじめは小指だけが重なって、次に薬指、中指とゆっくり、少しずつ二つの手が重なっていく。その間、アイシャは手を一ミリも動かさなかった。自分が反応を返す事で彼がどうなってしまうかが予測できないからだ。
(……不用意に手を伸ばしたのがいけなかったのよね、きっと)
アイシャは徐々に重なる自分よりも小さな手が、恐怖に震えているのを見て、胸が締め付けられた。
初対面の人間にほんの一瞬、手を伸ばされただけでここまで恐怖するのだ。一体彼は誰に何をされたのだろう。アイシャの常識では想像もできないことを経験したのかもしれない。
アイシャはようやく全て重なったレオの手を見つめ、泣きそうになるのを堪えながら震える声で尋ねた。
「……手を握っても良いかしら」
「……うん」
許可を得たのでアイシャはレオの手をそっと握った。彼の小さな手は冷たかった。
「手、痛かった?」
「え?」
レオはじんわりと温かさを感じるアイシャの手をさすると、ごめんなさいと呟いた。
先ほど手を払い除けた事を思い出したのだろう。レオは見た目の印象よりもずっと、相手を気遣える優しい子なのかもしれない。
アイシャは全然痛くないと返した。