2:この家は疲れる
部屋に戻り、アイシャは机の上に便箋を広げた。
この家での唯一の味方である兄、ジェラルドに手紙を書くためだ。
皇宮騎士団に所属するジェラルドはたまにしか屋敷に帰ってこないので最近は会えていないが、彼は昔からアイシャのことを気にかけてくれていた。
両親がプレゼントの箱だけを部屋に置いて祝っている気になっていた誕生日も、ジェラルドだけは面と向かっておめでとうと言ってくれた。
夜な夜な、こっそりと二人でケーキを食べてくれた。
だから、
「お兄様ならきっと、優しい言葉をくれるはず……」
別に、両親に対して何かアクション起こして欲しいわけじゃない。
反対して欲しいわけでも、縁談を潰して欲しいわけでもない。
ああなってしまった両親にはもう、何を言っても無駄だから。アイシャには悪い噂しかない男の元に嫁ぐ未来しか来ない。
ただ、せめて悲しんで欲しい。自分が理不尽な結婚を強いられていることを憐んで欲しい。
せめて誰か一人くらいは、自分のことを気にかけて欲しい。
そんな思いを込めて、アイシャは手紙を書いた。
しかし……。
『戦争の英雄であるアッシュフォード男爵の妻には、ベティよりもアイシャの方が相応しい。アイシャはこの結婚を喜んでいい。彼の妻になることが、君の幸せにつながるはずだよ。結婚おめでとう』
翌々日の夕暮れ時に届いた返信の手紙にはそんなことが書いてあった。
アイシャはひどい絶望感に襲われた。
ジェラルドは味方だと思っていたけれど、どうやらそうではなかったらしい。
この結婚の経緯も、男爵領がどういうところなのかも、そしてイアン・ダドリー・アッシュフォードがどういう男なのかも、彼と共に戦ったことのある兄ならばよく知っているはずなのに。
「ハッ……。そうよね。私なんてどうせ、この家の人たちにとっては取るに足らない存在だものね」
少し嫌味な言い方だったかもしれない。だが、このくらいの悪態は許されてもいいはずだ。だって結局信じていた兄ですらも両親と同じだったのだから。
アイシャが欲しい言葉をくれる人など、この家には一人だっていない。
「……っ!こんなものっ!」
アイシャは手紙を細かく破き、床にばら撒いた。
色鮮やかな手紙の破片がはらはらと舞い、破片の一つが窓から外に出て行ってしまったが、もうどうでも良い。
「あの……、お嬢さま」
手紙を持ってきたベアトリーチェ付きのメイドは、床に散らばる手紙を見て冷たく笑うアイシャに声をかけた。とても遠慮がちに、もしくはとても申し訳なさそうに。
アイシャはそんな彼女に冷ややかな視線を送る。そして
「何か?」
と、ひどく不愉快そうな声色で尋ねた。メイドの肩が微かに強ばり、目は怯えたように少し潤んでいる。
その様子に、アイシャは苛立ちを覚えた。まるで妹を見ているような気分になったのだ。
「はあ……。本当に何の用?そもそも本来はこの手紙を持ってくるのだってあなたの役目ではないでしょう?ランはどうしたの?」
「ランは、その、お嬢様について男爵領に行かねばならないので荷造りをしております……」
「そう、入ったばかりの新人なのに可哀想にね。それで?あなたは何故ずっとそこに突っ立っているの?用がないのなら一人にして欲しいのだけれど」
「……あ、あの、ベティお嬢様が、アイシャお嬢様を心配しておられましたよ?ずっとベッドで泣いておられます……。私、そんなベティお嬢様を見ているのが辛くて……」
「……そう」
本当に姉の様子が気になるのなら、自分で見に来ればいいだろうに。
ベアトリーチェはこんな風にアイシャに迷惑をかけた時、いつもメイドを使って様子を見てくる。そして自分がいかに反省しているか、いかに落ち込んでいるかをメイドに伝えさせ、アイシャに罪悪感を与える。そうすることでアイシャの方から自分に会いに来るように仕向けるのだ。
計算しているわけではない。だが、ずるいとは思う。
アイシャは『わざわざ報告ありがとう』と言うと、追い払うように手をひらひらとさせ、メイドに退室を促した。
しかしメイドの彼女はそれを拒否し、意を決したように口を開いた。
「あの!」
「……何よ」
「アイシャお嬢様が一昨日の朝から一歩も外に出ておられず、食事もろくに取られていらっしゃらないことを、ベティお嬢様はとても心配しておられます!」
「……へえ、そう」
「そう、って……!ベティお嬢様はアイシャお嬢様のことを大切に思っていらっしゃるのですよ!?そんなベティお嬢様が、あなたを思って泣いているのです!何とも思わないのですか?」
「……」
「アイシャお嬢様、どうしてしまわれたのですか!?アイシャお嬢様はいつもベティお嬢様のことを大切にしていらっしゃってたではないですか!こんな時はいつもすぐにベティお嬢様のお部屋に行って、朝までずっと寄り添っていたじゃないですか!」
「……そうだったかしら」
「そうですよ!そうでしたよ!たしかに、アイシャお嬢様が突然の縁談で驚かれるのはわかります。ですが、あなた様の結婚はベティお嬢様のせいではありません!だからどうか、こんなベティお嬢様を無視するようなことは……、ベティお嬢様に八つ当たりするようなことはやめてください……っ!」
口調が少し強くなるメイド。それは彼女の切実な願いだった。
(どうしてこんな風に言われなきゃならないのよ……)
アイシャは必死な顔をするメイドを鼻で笑った。
彼女はこの夏までアイシャの専属メイドだったのに。ベアトリーチェが彼女を欲しがるから泣く泣く譲ってやったが、まさかもうベアトリーチェに忠誠を誓うようになってしまうとは思わなかった。相変わらず懐柔するのが早い。
「はぁ……」
アイシャは大きなため息をこぼした。
いつもなら、『そうね、ごめんなさい』と悪くもないのに謝っていただろう。
けれど今の彼女はどうしてもそんな気にはなれない。
「……ねえ、八つ当たりですって?私はベアトリーチェに対して何もしていないし、何も言っていないじゃない。ただ一人になって気持ちを整理したいだけなのに、私はそれすらも許されないの?妹の代わりに嫁がねばならないというのに、なぜ私が妹を気遣ってやらねばならないの?」
「そ、それは……」
「ベアトリーチェを慰めたいのなら、あなたがすればいいんじゃない?それも専属メイドの役割ではなくて?」
「そんな!ひどい!」
「ひどい?ねえ、いい加減にしなさいよ。あなたはさっきから誰に向かって口を聞いているのかわかっているの?私は伯爵令嬢であなたはただのメイド、使用人。立場を弁えて口を慎みなさい」
「……は、話をそらさないでください!ベティお嬢様なら、そんなふうに立場を利用して黙らせようとしないのに!」
「事実を言って何が悪いの?実際に立場が違うのだから仕方がないじゃない。ねえ、本当にいい加減にしてよ。これ以上私に無礼な態度を取り続けるのなら、男爵領への道連れにあなたを指名してやってもいいのよ?私にはその権限があるわけだし」
「なっ!私はベティお嬢様付きです!」
「でも夏までは、私付きだったでしょう?数日前に私付きになったばかりのランより、あなたの方が適任ではなくて?それに、そもそも新人のランにそんな大役を任せるのは可哀想だと思わない?きっと、あなたの大事な大事な、お優しいベアトリーチェに相談したら、あの子は快くあなたとランの役割を交代させるわ」
アイシャはそう言って、薄く口角を上げた。するとメイドは悔しそうに奥歯を噛み締める。
「……そんなことを言われても、こ、困ります」
「ならもう出ていって。これ以上私に何も求めないで」
これ以上、こいつと話したくない。傷つけられたくない。
アイシャが1、2、とカウントを始めると、メイドは慌てて部屋を出て行った。
「はぁ……、疲れるわ」
アイシャは背中からベッドに倒れ込み、内圧を下げるようにゆっくりと息を吐く。
屋敷の一番端、家族の団欒の場所から一番遠い彼女の部屋はいつだって静かだ。
前はこの静寂が寂しかったのだか、今は少しありがたい。
「確か、結婚式は向こうで略式で行うことになりそうなんだっけ……」
昨夜、父が部屋の扉越しにそう告げてきたことを思い出したアイシャは両手で顔を覆った。
つくづく馬鹿にされていると思う。名門貴族の結婚は大体が皇宮で派手に行うというのに、領地の寂れた教会で略式の結婚式など……。
伯爵家から娘をもらっておいて、そんな提案をするイアン・ダドリー・アッシュフォードも、それを了承した両親も皇家も、謝るだけのベアトリーチェも、皆ふざけている。
「結婚式は……、皇宮の庭園で多くの友人に囲まれて、みんなに祝福されながら行うのが夢だったな……」
恋愛なんてしたことないけど、アカデミー時代の友人なら沢山いる。アイシャは彼らに祝福されながら幸せな結婚式をすることが夢だったのに。
この2日間、伯爵令嬢としての尊厳も矜持も傷つけられたアイシャは、とうとう堪えきれなくなり涙を流した。
顔を覆う手が涙で濡れる。泣くまいと決めていたのに、もうどうしたって溢れる雫を止められないない。
「……ランに、一人で行くからってついてこなくて良いって言いにいかなくちゃ」
そう思うのに体が動かない。何もする気力が起きない。
「ああ、死にたい」
決して、死なないけれど。何があっても、自分から命を絶つことなどあり得ないけれど。
それでも、そんな言葉が口から出てしまうほどに心をすり減らしたアイシャはその日、日が暮れて再び日が登るまで泣き続けた。