6:知りたい(2)
廊下に出ると、アイシャはすれ違うメイドたちに心配そうに声をかけられた。おそらくどこかから今朝の話を聞いたのだろう。
ひそひそと話すメイドたちからは、リズベットを批難する声が聞こえる一方で、彼女を擁護する声も少し聞こえる。後ろをついて歩くランはそのことに怒りを覚えたようだが、アイシャは逆に、むしろ人望があるのだなと感心した。
「旦那様、アイシャです。少しお時間よろしいでしょうか?」
心配するメイドに感謝の言葉を返しながら、そこまで長くない廊下を抜けた先にある執務室まで来たアイシャは扉をノックした。中からは裏返った声で『どうぞ』と返事が返ってくる。
アイシャはゆっくりと扉を開けた。イアンは執務中だったのか、疲れた様子で机に向かっていた。
「ア、アイシャ。いらっしゃい……」
「すみません。お仕事中でしたか?」
「大丈夫だよ。休憩にしようと思っていたところだから」
「ではお茶の用意をしますね。今日は私が淹れて差し上げますわ」
アイシャは『伯爵家からお気に入りの茶葉を持ってきているので』と微笑むと、慣れた手つきでお茶を用意し始めた。
柔らかな日差しと爽やかな柑橘系のお茶の香り、そして真剣にお茶を淹れるアイシャの横顔が、今朝のリズベットの暴挙で荒んでいたイアンの心を癒す。
「もう、目も合わせてくれないかと思ってた」
心がほぐれたせいか、彼はポツリと呟いた。アイシャはお茶を淹れる手を止めて、イアンの方を見た。
「……そんなことしませんよ」
「でも、とても怖い思いをしただろう?」
「それは……、確かに怖かったですけど、でも男爵様のせいではないので」
「いや、俺のせいだよ。あいつを信じた俺が馬鹿だったんだ。……帰りたくなったか?」
「いいえ?全然」
「そうか、良かった……」
アイシャの返事にイアンは心の底から安堵した。
アイシャはわかりやすく安心するイアンを可愛らしく感じたのか、クスッと笑うと、蒸らしていた紅茶をティーカップに注ぎ、彼のところまで運ぶ。
「どうぞ」
「ありがとう。いい香りだ」
イアンは紅茶をひと口飲むと、味わうようにゆっくりと飲み込んだ。本当に美味しそうに飲むものだから、アイシャの頬も自然と緩む。
「美味しい。アイシャはお茶を淹れるのが上手だね」
「へへっ。ありがとうございます」
「それで?俺に何か用事だった?」
「はい。聞きたいことがあるのです。よろしいですか?」
「ああ、大丈夫だよ。新しい護衛のことか?それなら今度はちゃんと厳選するから安心してくれ」
「ありがとうございます。でもそのことではありませんわ。リズベットさんのことです。彼女の言っていたことが気になって……」
「リズの?ああ。あいつの言うことなんて気にしなくていいよ」
「でも、魔族のこととか、マリーナフカ……?とか。私はまだ何も知らないから。だから教……」
「それは君が知らなくても大丈夫なことだよ。心配しないで。それよりもリズの処分はどうしようか?あいつの処分はもう君に任せようかと思っているのだけど、どうかな?」
「いえ、あの…….、処分の話じゃなくて……」
「だ、大丈夫だから!気にしなくていいから!」
イアンは不自然に、アイシャの話を遮るように机を叩いた。音に驚いたアイシャは身体をこわばらせ、机に積まれていた書類の山の一部は崩れて床に散らばる。
イアンはすぐに冷静になり、小さく謝った。
「……あ、ごめん」
「いえ……。大丈夫です……」
「……」
「……」
聞いてはいけないことを聞いたのだろうか。アイシャは眉根を寄せ、唇を引き結んだ。イアンはアイシャの目を見ることができないのか、顔を伏せたまま動かない。
気まずい沈黙が流れる。見かねたランはとりあえず、散らばった書類を集め始めた。
するとアイシャは自分を落ち着かせるようにふぅっと小さく息を吐き、ランと同じように床の書類に手を伸ばした。
しかし、イアンは何故か彼女が拾おうとした書類を慌てて拾い上げた。
ただ拾おうとしただけなのに、乱暴に取り上げられたアイシャは目を丸くして固まってしまう。またやってしまったとでも思っているのか、イアンは何とか誤魔化そうと作り笑いを浮かべた。
「あ、いや!ごめん!でも、これは大丈夫!大丈夫だから!」
「……ごめんなさい。私が見てはいけないものでしたか?」
「えーっと……、そういうことでもないんだけど……」
「……男爵様?」
「見せたくないというか、見なくても良いというか、見る必要がないというか……」
なんとも歯切れの悪い返事をするイアン。悪さをした子どもがそれを親に隠す時のような歯切れの悪さだ。
アイシャは先程からずっと何かを隠されていることがとても不愉快に思えて、顔を歪めた。そして隙を見て、イアンの手にあるものを奪い取った。
「……投石機?」
彼が持っていたのは先日存在が確認された投石機の詳しい報告書だった。
その投石機は木製で、魔族側からアッシュフォードに向けられており、すでに完成間近であること。また性能は昨年よりも良さそうだということが書いてある。
落ちている他の書類を見渡すと最近の魔族の動きや、砦の兵の状況に関する報告書もある。
アイシャは気まずそうにするイアンを前にしながら、片っ端から書類に目を通し、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……これは本当に私が見る必要のない情報ですか?」
「必要ないよ。君には必要ない情報だ」
「先程から必要ないと繰り返してますけど、これって小競り合い程度の話ではないですよね?あちら側はまた戦争を仕掛けようとしているってことですか?領地の大きな問題ですよね?それなのに私は知る必要がないのですか?」
ジッとイアンを見つめるアイシャ。その瞳には怒りと困惑の色が見えた。
イアンは書類を取り返すと、不自然に笑みを浮かべて弁明した。
「こ、怖がらせたよね?ごめん。でも大丈夫だから。俺が守るから」
「そういう話をしているのではないのですが!どうして魔族のことを私に隠すのですか?」
「隠しているわけじゃない。いずれはちゃんと話すつもりだったよ。でもそれは今じゃないかなと……」
「どうして?」
「君に負担をかけたくなくて……。ほら、屋敷の管理のことを引き継いだばかりだし、それにそもそも君は砦には行かないし、騎士団の指揮も取らない。だから知っていても知らなくても何も変わらないだろう?危ないのは砦付近だけだから。街の方は今のところ安全だし……」
「た、確かに私は騎士団の指揮は取れませんし、戦争に関しては無知です。役立たずです!でも、それでも私は領主夫人となる立場にいるんです!そんな人間がこんな大事なことを知らないなんて、おかしくないですか!?民が自分の身を危険にさらして戦っている中、私は呑気に屋敷で過ごしていれば良いとでも思っておられるのですか!?」
「大丈夫。不安に思わないで。ちゃんと魔族に対する備えはしているし、君のことはちゃんと守る。君には絶対に危険が及ばないようにする。だから大丈夫だ。君は安心して穏やかに、できれば優雅にこの屋敷で過ごしていてくれればいいんだよ」
「……話を逸らさないで。男爵様の態度は私が領地に関わるのはお嫌なのですか?私を妻とは認めてくださっていないということですか?」
まるでお前などはじめから役に立たないと言われているような気になる。
よく考えれば、屋敷の管理を引き継いでいる時ですら、イアンの態度は少し嫌そうだった。やはり自分は共にある者として認められていないのだろうか。
アイシャは俯いたまま唇を噛み、立ち上がった。瞳は涙で潤み、手は怒りと悲しみで震えている。
イアンはそんな彼女を不思議そうに見上げた。
「領地の視察を渋るのも、屋敷の管理だけしか任せてもらえないのも、なぜかそれすらも嫌そうなのも、魔族のことを教えてもらえないのも、全部私が貴方と共にこの地を治めるに相応しくないとお思いだからですか?」
「そ、そんなこと思ってない!ただ、君には何不自由なく、何の心配もせず、穏やかで幸せな日々を過ごして欲しくて!……ほ、ほら!魔族の襲撃なんて血生臭い話、聞きたくないだろ?」
魔族に関する話をするならば、血生臭い話も、耳を塞ぎたくなるような話もしなければならない。
けれど、平和な南部で暮らして来たアイシャは過去の戦争のことさえよく知らない。ただでさえ慣れない土地に来て不安なアイシャに、そんな物騒な話はしたくなかったのだとイアンは言う。
しかし、アイシャはキッとイアンを睨みつけた。
「私はアッシュフォード男爵夫人になるためにここに来ました。きちんと覚悟を決めてここにきました。そうやって除け者にされるのは不愉快です」
アイシャは声を震わせながらそう吐き捨てると、涙をグッと堪えて部屋から逃げ出した。ランはイアンに軽蔑の視線を送ると、彼女の後を追う。
取り残されたイアンは自分が何をやらかしたのか理解できず、ただ呆然と部屋の扉を眺めていた。




