22:罪深い(2)
あの日のアイシャは全てがどうでも良くなった。
勝手に叔父夫妻に自分を押し付け、会いたいと手紙を出しても素気無くあしらわれ、けれどベアトリーチェが姉に会いたいと言えば当たり前のように子爵家を訪れる両親。
そして、自分が優遇されている陰でいろんなことを我慢している姉の苦労など知らず、当たり前のように姉からの愛情と優しさを求めてくるベアトリーチェ。
人の気持ちも考えられないような人たちの気持ちを、何故自分だけは考えてあげなければならないのか。そんな思いがアイシャの心を黒く染め上げた。だから言ってしまったのだ。
『ベアトリーチェなんか大嫌い』と。
子爵領の気候が合わず、数日前から急に高熱を出して寝込んでいたベアトリーチェに向かって、アイシャは彼女が一番傷つく言葉を言った。
姉が大好きなベアトリーチェは当然のごとく泣き喚き、両親は激怒してアイシャの頬を叩いた。なんてひどい子なのかと叱責した。
アイシャは打たれて腫れた頬を押さえながら、唇を噛み締めた。
たしかに、高熱で寝込む妹に言って良い言葉ではなかった。それはアイシャも理解していた。けれど、どうしても気持ちが抑えきれなかった。ずっと我慢してきた自分の気持ちもわかって欲しかった。
だってベアトリーチェが熱を出さなければ、今頃アイシャは母に淑女教育の成果を披露しているはずだった。そして「すごいね」と「よく頑張ったね」と褒めてもらえるはずだったのだ。
それなのに、両親は子爵家に来てからずっとアイシャの方を見ていない。ただの一度もだ。
せっかく久しぶりに会えたのに、父は薬草が足りぬと聞き、自らそれを探して領地を駆け回り、母はベアトリーチェの側を離れず看病している。
ああ、なんで惨めなのだろう。
『もういい!お父様もお母様も大嫌い!』
気づいたらアイシャは走り出していた。
もちろん、両親は追いかけてこない。それどころか、アイシャの後を追いかけようとしていた子爵家の使用人たちを引き止めた。
放っておけ、と。
父が使用人たちにそう叫んでいる声を聞いた時、アイシャの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
アイシャは近くを通った辻馬車に飛び乗り、そこから一度も降りず、気づいたらエレノア子爵領の最果てにある村まで来ていた。
『お嬢さん、この馬車はここまでしか行かないよ?どうするんだい?』
御者のおじさんは覇気のない目をしたアイシャが心配になったのか、彼女と目線を合わせてそう話しかけた。
アイシャは咄嗟に笑顔を取り繕い、『この村に親戚がいるの。そこに行くつもりなの』と返した。
明らかに身なりの良い少女が、こんな寂れた村に用事などあるはずがない。御者のおじさんは怪訝な顔をした。
『お嬢さん。ここはあまり治安が良くない。良ければその親戚の家まで送ろうか?』
『お気遣いありがとう。でも大丈夫。近くに私を追ってきた従者がいるはずだから。心配しないで』
一人で辻馬車に乗ってみたかったのだと、明らかに嘘とわかる嘘をつき、アイシャはおじさんに運賃より多めのお金を渡した。
それはこれ以上聞いてくるなという意思表示だった。
御者のおじさんは何か言いたそうにしていたが、アイシャは無視して馬車を降りた。
『気をつけてね、お嬢様さん……』
所詮は商売。お客の都合に首を突っ込みすぎるのも良くない。御者のおじさんはそれ以上何も言わなかった。
その後、アイシャはフラフラとした足取りで、吸い込まれるように村の外れにある山道を歩いた。
歩きにくいヒールの靴で、申し訳程度に舗装された道を何となく進む。時々聞こえる鳥の鳴き声はどこか不気味で、日が暮れるにつれて低くなる気温と立ち込める霧は、今いる場所があの世であるかのように錯覚させた。
たまに脳裏をよぎる叔父叔母の顔が進む足を止めようとするが、振り返るのが怖くてアイシャは引き返さなかった。
その先にあるものが何なのか、何となく理解していたがもうどうでもよかった。先に進んで一瞬の苦痛と恐怖を味わうのも、引き返して永遠にも思える苦しみを味わうのも同じだと思っていたから。
『わぁ……』
暫く歩いて、視界が開けた先にあったのは壮大な滝だった。
神秘的だけど、どこか悲しい雰囲気のある滝。
アイシャはその近くにある木の影で足を止めた。何故だか、足がすくんでしまい動けない。前に進む勇気も引き返す勇気も湧いてこない。
アイシャはどうすれば良いかわからず、硬直した。
すると、滝の方を眺めていた先客の青年が振り返った。
『君も死ににきたのか?』
15歳前後に見える青年は、怪訝な顔をしてそう尋ねてきた。
君もということは、彼もそうなのだろう。
アイシャにはこの質問に答える義理などないが、自然と口から言葉が漏れていた。
両親が自分を見てくれないこと。それに絶望していること。死にたいとは思うけれど、叔父叔母の顔がチラついて足がすくんでしまうこと。
そんな話をした。
それを聞いていた青年の顔はみるみる怖くなった。そして苛立ったようにアイシャを叱責した。何を言われたのかはよく覚えていないが、ひとつだけ覚えている言葉がある。
『愛が平等に分け与えられていないだけで、君はちゃんと愛されている』
その言葉はアイシャにとって衝撃的なものだった。使用人も叔父夫婦も、誰も彼もが明言を避けていたその言葉はアイシャが最も欲しかった言葉だからだ。
それは両親の愛を信じたいけれど信じきれなくなってしまった彼女が、もう一度彼らの前に立つには必要不可欠な言葉だった。
彼の言葉で心が少し軽くなり、息苦しくなくなった。
『愛されているのなら、もう少し頑張れそうです。きっと妹にもまた、優しくできるわ。だから、ありがとう』
アイシャはお礼を言った。青年は彼女からの感謝の言葉にどう返して良いのかわからないらしく、顔を背けたが、小さく『それは良かった』と返してくれた。
彼自身、こんな場所でお礼を言われるなんて思ってもいなかったのだろう。
そこからは彼がこの場所に来た経緯や、彼が住んでいるというヴィルヘルムの町について話した。
話を聞いたアイシャは自分を恥じた。貴族として生まれ、こんなにも恵まれた環境にいながら、一瞬でも死にたいと思ってしまった自分が恥ずかしい。
彼や彼の周りの人達は恵まれているとは言えない環境下でも、手を取り合いながら前を向いて立派に生きているというのに。
だから、欲しかった言葉をくれた彼に恩返しがしたくて約束した。
ヴィルヘルムの町をどうにかすると。
もちろん、アイシャ一人でどうにかできるわけではないが、叔父の力を借りて彼の住む町を良くすると心に決めた。
『指切りをしておられましたが、何を約束したのです?』
山を降り、青年の父を埋葬したアイシャは叔父に命じられて自分を探しに来た子爵家の騎士にそう聞かれた。
アイシャは少し考えた後、口元で人差し指を立て『秘密』と返した。
『彼との約束は自分だけのものだから、大切に胸の中にしまっておきたいの。ごめんね?』
そう言ったアイシャは悪戯っ子のように舌を出して笑った。
屋敷を飛び出した時とは違い、どこか吹っ切れた様子の彼女に騎士は安堵の表情を浮かべ、それ以上は聞かなかった。
その後、屋敷に帰ったアイシャは叔父夫婦に抱きしめられた。そしてアイシャを置いて家を開けたことを何度も謝罪された。
なぜ二人が謝るのか分からなかったが、アイシャは二人に心配をかけたことを謝った。
そして、叔父夫婦の後ろで帰ってきたアイシャを出迎えた両親にも頭を下げた。わがままを言ってごめんなさい、と。
すると、母からキツく抱きしめてもらえた。父には頭を撫でてもらえた。
きっと騎士から輪廻の滝まで行ったことを聞いたのだろう。アイシャが生きていたことを嬉しく思うと言ってくれた。
本当に久しぶりの、両親の温もりだった。
『アイシャのバカ。心配したのよ』
『無事で良かった、アイシャ』
『ねえ、お父様、お母様……。私のこと好き?愛してる?』
『まあ!何を言うかと思えば、おかしな子ね』
『お母様、答えてください。愛していますか?』
『当たり前じゃないの。愛しているわ!』
『私も、愛しているよ。アイシャ』
涙ぐみながらそう言ってくれた両親にアイシャは目を丸くした。
こんな風に抱きしめてもらったのはいつぶりだろう。『愛している』だなんて、初めて聞いた気がする。
あの青年が言っていたことは本当だったと思った。
私は愛されている。
アイシャはそう確信できた。
それなのに……