21:罪深い(1)
「男爵様って、少し変だけど可愛らしい人ね」
夜、髪に香油をつけながら今日の出来事を思い返していたアイシャは、どこか楽しそうにそう言った。
今日一日でイアンと色んな話をすることができて、緊張が和らいだのだろうか。
ランにとって彼女のストレスが軽減されるのはとても喜ばしいことなのだが……。
「可愛い?」
その言葉だけは聞き流せなかった。
ランが見る限り、今日のイアンは終始挙動不審でまるで変態のようだった。アイシャを見つめる目元は狐のように弧を描き、鼻息は荒く、ずっと小声でブツブツと何かを呟いている様を『可愛い』と表現するには無理がある。
そんなイアンを可愛いと言うのだから、アイシャはとうとう目がおかしくなったのかもしれない。ランは彼女の前にそっと目薬を置いた。
「……なぜに目薬?」
「奥様の目が曇ってしまわれたようなので。ランは心配なのです」
「もしかして私は今、とても失礼なことを言われている?」
「とんでもございません。ただ単に奥様を心配しているだけです」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ」
アイシャは頬を膨らませ、目薬を突き返した。ランは残念そうに目薬をポケットにしまった。
「……旦那様とは仲良くできそうですか?」
「うん、大丈夫そう。噂のような人ではなかったわ。おばさまの仰ることは正しかった」
「それは良かったです」
「とりあえずね、これからは毎日一緒に食事をして、会話したり散歩したりする時間を作ろうって決めたの。私は早く男爵様に女性慣れしてほしいから、『毎日少しずつ触れ合う練習をしませんか』って提案したのだけれど、男爵様は結局、『俺たちはまだお互いのことをよく知らないから、まずは会話してお互いを知るところから始めよう』って言ってくださってね。確かにお互いのことを知らないままでは良好な夫婦関係は築けないから、と私も同意したのよ」
「……な、なんということを提案なさっているのですか!?」
「え?ダメだったの?」
「ダメですよ!」
自分の主人がサラッと、とんでもない提案をしていたことを知り、ランは開いた口が塞がらない。
「そんなことを言って、誘ってると思われたらどうするのですか……。お二人はまだ入籍前なのですよ?男は皆オオカミなのですよ?」
イアンがその提案に乗らなくてよかった。ランはあまり良い印象を持っていない彼を少し見直した。
「そんなつもりはなかったのだけれど……」
「そんなつもりはなくとも、そう捉える男だっていますよ!多分!恋愛経験がないからわかりませんけど!」
「……恋愛経験がないのにどうして男性のことがわかるのよ?」
「私が読む恋愛小説のヒーローは大体そんな感じなので」
ちょっとでも頬を赤らめたり、気のあるそぶりを見せると『誘ってる?』と言って迫ってくるのが男という生き物なのだとランは断言した。
流石にそれは偏見がすぎるのではなかろうか。
「人のことを言えた義理ではないけれど……、ラン。貴女の知識は偏りすぎているわ。世の男性は皆が皆、そのような節操なしではないわ。むしろ大半の男性はもっと紳士的です。そして、貴女が読む本のヒーローがそのようなナルシスト寄りの男性ばかりなのは貴女がそれを好んで買っているからよ」
「むぅ。そんなことないですぅ」
「そんなことあるわ。貴女はちょっと強引な男性が好きなのね。『俺についてこい!』みたいなことを言われたいの?」
「強引に迫られたい願望は誰にでもあるかと!どうせなら引っ張って行ってほしいじゃないですか!」
「んー、そうかしら?私は強引な人はちょっと苦手かな」
「ええ!?そうなのですか?」
「私は引っ張っていかれるより、隣を歩きたいタイプだから。きちんとこちらの意見を聞いてくれて、同じ歩幅で歩いてくれる人がいいわ」
「むむ。それはそれで素敵ですね」
「ふふっ。男爵様がそんなタイプの方だといいなぁ」
「……奥様。なんだか楽しそうですね」
「あら、そう見える?」
「はい、とても良い顔をしていらっしゃいます」
「私ってそんなに分かりやすいかしら。でも、そうね。嬉しかったのかもしれないわ」
「嬉しい、ですか?」
「うん。だって、男爵様は私のことを知りたいって言ってくださったの。こんなこと初めて」
アイシャは頬を赤らめ、幸せを噛み締めるように呟いた。
きっと、これまでアイシャのことを知りたいと言ってくれた人はいなかったのだろう。関心を持たれないことの辛さを知っているから、関心を向けられただけでこんなにも喜ぶのだ。
ランは良かったと、安堵のため息をこぼした。
「私も男爵様のことをちゃんと知りたい。そして彼のことを心から愛したいし、愛されてみたいと思うの」
「奥様……。奥様ならきっと大丈夫です」
「うん、ありがとう」
不意に立ち上がったアイシャは「私、頑張ります!」と、拳を高く突き上げた。
血のつながりのない人と家族になるのは大変なことだ。きっと簡単なことではない。だが他人だからこそ、近すぎないからこそ分かり合える部分もきっとあるはず。
今日、イアンと特別な会話をしたわけではない。けれど、どこか懐かしい彼の大きな手に触れ、兄を思い出したからだろうか。
アイシャはイアンの家族になりたいと思った。
***
それから、アイシャは可能な限りイアンと食事を共にし、時間を見つけてはイアンとお茶をしたり散歩したりしながら過ごした。
彼は相変わらず目が合えば顔を顰めるし、手が触れれば体を強張らせるが、5日もすれば慣れてきたのか、急に手を振り払われたり、目を逸らされたりすることは無くなった。会話の中でふと、柔らかく微笑む場面もあったりして、アイシャは叔母の言っていた『笑うと可愛い』が本当であった事を知った。
穏やかな日常。自分が見つめる相手が自分を見つめ返してくれる喜び。家族となる人と視線が合い、対等に会話ができることで満たされていく心。
アイシャは徐々にアッシュフォードの屋敷に馴染みつつあった。
そんな日常が続いていたある日のこと。イアンの執務室を訪れたアイシャは、そろそろアッシュフォードにも慣れたので、男爵夫人として何かさせて欲しいと願い出た。
彼女は優秀だが、何の事前準備もせずに領主夫人の仕事がこなせるほど抜きん出たものがあるわけでもない。せっかく冬からここにいるのだから、春に正式な夫人となる前に少しずつ仕事を覚えておきたいのだ。
しかし、そう言ったアイシャにイアンはこんな質問を返した。
「なあ、アイシャ。輪廻の滝って知っているか?」
唐突で脈絡のない質問にアイシャは首を傾げる。質問の意図がわからない。何かのテストのようなものだろうか。
「輪廻の滝のことなら知っています。有名ですし……。それが何か?」
「行ったことはあるか?」
「……何故、そんなことを聞くのですか?」
アイシャは怪訝に眉を寄せた。どう答えるべきかわからないのだ。
輪廻の滝は観光地ではあるが、同時に自殺の名所でもある場所。そんなところに行ったことがあるなど、良い印象を与えない。けれど、嘘をつくのも気が引ける。彼は善良な人だから、出来るなら嘘はつきたくない。
(どうしよう……)
アイシャは悩んだ。
すると、アイシャの表情が曇ってしまったことに気づいたイアンは慌てて謝った。
「ご、ごめん!そんな顔をしないでくれ!その、俺も昔行ったことがあって、アイシャ嬢もエレノア子爵の家で過ごしたことがあると聞いたから、もしかしたらと思っただけというか……」
「え……?男爵様は行ったことがあるのですか?」
「ああ、昔な。どうしても生きていくことに希望が持てなくて」
イアンは照れ臭そうに笑った。
その過去を恥じているわけではないらしい。むしろ、懐かしい思い出を語っているような雰囲気だ。
自殺しようとした過去など、その人にとって黒歴史でしかないはずなのに、本当に変な人だとアイシャは思った。
「……私もありますよ、行ったこと」
アイシャはいつの間にか、無意識にあの日のことを語り始めた。
イアンになら話しても良いと思えたのだ。何故だかわからないけれど、多分彼は馬鹿にしたりせずに聞いてくれるような、そんな気がしたから。