20:ただ慣れていないだけ(2)
それからしばらく歩き、屋敷の表側まで来た二人は近くのベンチに腰掛けた。
ほぼ小走りでここまで連行されたアイシャはやや息が上がっている。対するイアンがまったく平気そうだ。
「運動不足を実感しております」
「すまない。走らせてしまった……」
「大丈夫です。問題ありませんわ。それよりも男爵様……」
「ん?何だ?」
「あの、手を……」
ベンチに座って落ち着いてもなお、手を離そうとしないイアンにアイシャはどうすれば良いか分からない。
(どうしよう……)
そういえば、女性と手を繋いだこともないんだったか。
ふと、ニックの言葉を思い出したアイシャは何となく、興味本位でイアンの指に自分の指を絡めてみた。
「……えっ?」
一瞬何が起きたか分からず固まるイアン。彼は指先から血管を通って、全身に電流が走るような感覚を覚えた。
「あ、あの……、男爵様?」
アイシャは不安げにイアンの顔を覗き込む。
するとようやく状況を理解したらしいイアンは、ものすごい勢いで繋いでいた手を解いた。そして溢れ出る手汗をシャツの裾で拭いた。
もちろん、彼としては無意識に想い人と手を繋いでいた事実に気が動転しただけなのだが、相手から見ればその行動は失礼極まりないもので、完全にアウトだった。
故に、アイシャは傷ついた心を誤魔化すように笑った。
「……お、お嫌でしたか?」
「何が……」
「手を繋ぐのは……」
「い、嫌じゃない!」
「でも、凄い勢いで手を拭くから……」
アイシャは自分で言っていて悲しくなってきた。ここまであからさまに人に嫌がられたことはないため、耐性がないのだ。伯爵家のみんなからは関心を向けてもらえなかっただけで、嫌われてはいなかったから。
イアンはまたやらかしたと、アイシャに自分の手のひらを見せた。
「手汗!手汗がひどくて拭いた!それだけだ!」
「てあせ……」
「というか、君の手は大丈夫か!?俺の汚い手汗がついたりしていないか!?」
「だ、大丈夫です……」
アイシャはイアンに促されるまま手のひらを見せた。
イアンの傷だらけの、ゴツゴツとした手とは違う。傷ひとつない小さく可愛らしい手。細く伸びた指も、左手の小指の付け根あたりにあるほくろも、イアンには全てが可愛らしく見え、彼の呼吸は少し荒くなる。今朝、テオドールに「ハアハアするな」と言われたばかりなのに。
アイシャは本能的に身の危険を感じて思わず体を後ろに引いた。
だがイアンはそんな彼女の手首を掴み、自分の方へと引き寄せるとその小さな手のひらをまじまじと見つめた。
---いっそ食べてしまいたい。
なんて思ってしまうあたり、やはり自分は熊なのだろうか。ふと、そんなことを思った。
「……って、ああ!手汗ぇ!」
「きゃっ!?」
よく見るとアイシャの手のひらがほんのり湿っていた。
イアンは慌てて、シャツの袖でアイシャの手のひらも拭いた。なんだかアイシャを汚した気分だ。
「ごめん。ほんとにごめん!」
内側から湧き出てくる、神様に手を伸ばしたような背徳感。
イアンは自分の中にある邪な考えを否定するようにフルフルと首を振った。
アイシャはそんな彼の顔をまた、じっと覗き込む。
「……女性慣れしていないというのは本当なのですね。動揺がすごいわ」
「これは、君が指を絡めるから」
「先に手を握ったのは男爵様です」
「……ぐぬぬ」
「私、男爵様が目を合わせてくださらなかったり、手を振り払ったりなさるから、嫌われているのかと思っていたのですけど、ひょっとしてアレは照れ隠しですか?」
「……」
「もしかして、女性と触れ合ったことがないから緊張なさってる?」
「……それだけじゃないけど、それもある」
イアンは居た堪れなくなり、アイシャに背を向けた。恥ずかしいらしい。背中を丸めて小さくなる彼にアイシャは思わず吹き出してしまった。
「可愛い」
「か、かわ!?」
「良かったです。嫌われてなくて」
「嫌いだなんてあるわけない!俺はずっと君に会いたかったのだから。でも君が俺の陳腐な想像よりもずっと素敵で可愛いから、その、緊張して……。挙動不審でごめん。情けない」
「そんな風に言っていただけて光栄です。私、男爵様のことを誤解していました」
「誤解?」
「男爵様にとって、この結婚は押し付けられたものでしょう?だから私のこと受け入れたくないんだと思ってたんです。でも、そうじゃないと知れて安心しました」
アイシャはそう言うと、試すように後ろからそっとイアンの手に触れた。軽く重ねただけなのに、彼は体をこわばらせて体全体を茹蛸のように赤くする。微かに聞こえた心臓の音はこのまま爆発してしまいそうなほどに早かった。
「……流石にもう少し女性に慣れていただきたいです。男爵様」
「きゅ、急に触るから!」
「それにしても。これはちょっと……」
アイシャは逆に不安になってきた。確かに浮気の心配はないかもしれないが、ここまで女性に慣れていないのなら、今後社交でダンスを踊る場面で相手女性をエスコートすることもままならないのではないだろうか。
これでは社交界で馬鹿にされてしまう。
(夫の評価はそのまま妻である私の評価だ)
このままではよろしくない。
アイシャは自分に背を向けたままのイアンの正面に座りなおすと、両手で彼の手を覆うようにして握り、ジッとその黄金の瞳を見つめた。
「あの、よければ今日から少しずつ慣らしていきませんか?」
「……慣らす?」
「必要な場面でスマートに女性をエスコートできなければ、恥をかくのは男爵様ご自身です。ですから、まずは私と毎日こうして触れ合う時間を設け、徐々に女性に慣れていく訓練をしませんか?」
「ふ、触れ合う!?」
一瞬でさまざまな妄想が捗ったイアンは、またしてもアイシャの手を払い除けた。
何を想像したのか、間抜けに口を開けたままパクパクとさせている。空気を求める魚のようである。
アイシャは払わられた手をさすりながら、顔を伏せ、少し恥ずかしそうに話を続けた。
「それに、その……。宗教上、たとえ結婚式が略式になろうとも誓いのキスは免れませんし……」
「き、きす!?」
「その後のしょ……、初夜も……」
「し、初夜!?」
手が触れただけでコレなのに、きっとキスなんて夢のまた夢の話だ。そうなると当然、初夜は大惨事になるに違いない。
「互いに恋愛経験がないのなら、少しずつ準備を進めておくのも悪くはないはずですよね?……どうでしょう?」
「や、やめて……。そんな目で見ないでくれ。その目で見られたら頷くしかなくなる」
「頷いてくれて良いのですが……」
「うう……」
イアンは暫く悩んだ後、もう一度ズボンで手のひらをゴシゴシと拭くと、アイシャに手を差し出した。
「慣れないと、だもんな。よ、よろしく」
「は、はい!よろしくお願いします!私、頑張りますね!」
頑張るって何を頑張れば良いのだろう。自分で言っていてふと思ったアイシャだが、それはこれから考えれば良い。
とりあえず、アイシャは差し出された彼の手を握った。
*
「どう、ですか?」
「どうって言われても……」
普通に手を握っているだけなのに、相変わらず手汗はすごいし心臓の鼓動はあり得ないくらいに早い。
だがそれを素直に言ってしまうのは、情けなさすぎる気もする。
そんなことを考えるとイアンは何も言えなくなってしまった。
「大丈夫そうですね?」
イアンが何も言わないものだから、少し慣れてきたのかと思ったアイシャは先程のように指を絡めてみた。
すると、イアンの体が少し強張る。
「あの、男爵様……。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……」
「本当に?」
大丈夫、とは言いつつも、握られた手をチラチラと見ては目をそらせるという行動を繰り返す挙動不審なイアン。彼の顔をよく見ると耳まで赤い。
アイシャはそんなイアンが何だか可愛く思えてしまい、つい悪戯したくなってしまった。
「では……こ、こういうのは、どうですか?」
アイシャは彼の手をゆっくりと自分の頬へと持っていった。そして愛おしそうに少し濡れた手のひらに頬擦りする。
チラリとイアンの方を見れば、彼は呆然としていた。
「あ、あの……」
ちょっとした冗談のつもりだったのに、何の反応を返されないとこちらが恥ずかしくなってくる。
アイシャの方も羞恥の感情から徐々に体が熱くなってきた。
すると、突然イアンは叫んだ。
「ぬぁああああ!?」
イアンはすごい勢いでアイシャから離れた。
人間とは思えない動きでベンチを離れ、後退する彼にアイシャは困惑する。
「男爵様!?」
「だ、だめだ!危ない!これ以上はなんか、危ないからやめよう!」
「危ない?」
「危ない!」
危ない、を繰り返すイアン。何が危ないのかは分からないが、危ないらしい。
「や、やっぱり俺たちにはまだ早い。うん、早いよ」
「そうですか?」
「お、おおお俺たちはまだお互いのことをよく知らないし、まずは会話してお互いを知るところから始めよう!その、スキンシップはその後だ。絶対そう。うん。その方がいい!!」
「確かに。それもそうですね」
少し過程を飛ばしすぎたかもしれない。アイシャは触れ合う練習はもう少し先にしようと、彼の提案を受け入れた。




