18:春の妖精(2)
「春の妖精……」
「へ?」
部屋を出たところでばったり出くわしたイアンは目を丸くしていた。
呆然とアイシャを見下ろし、口をパクパクとさせている。熊のような大男には似つかわしくないほどに、随分と間抜けな顔だ。
「だ、男爵様?」
「……っは!息をするのを忘れていた」
「ええ!?大丈夫ですか!?」
「大丈夫、大丈夫だ。それよりも、その格好は……」
「あ……、髪ですか?」
「ああ」
「ランに結ってもらいましたの。その……」
まじまじと見られて気恥ずかしくなってきたアイシャは顔を伏せ、小さくつぶやいた。
「ふ、冬は春の妖精に会いたくなるものと聞きましたから」
「……え?」
「男爵様は春の妖精はお好き……、ですか?」
自分で言っていて恥ずかしくなる。いい年した女が何を言っているのだろう。アイシャは自分の顔を隠すようにおさげに結った髪を掴んで頬を覆った。
どこかで見たことのあるその仕草が懐かしいイアンは、思わずアイシャへと手を伸ばす。そして彼女の手首を掴むと顔を隠すなとでもいうように、その手を降ろさせた。
じっとこちらを見上げるアイシャの瞳は少し潤んでいて、頬は微かに紅く、たまにふわりと揺れる髪からは花の香りがする。その姿はとても愛らしく、イアンの目に映る彼女はまさに春の妖精そのものだった。
だからだろうか。イアンは吸い寄せられるようにアイシャに顔を近づけた。
「えーっと、男爵様?」
「……好き」
「……え?」
「好きだよ。春の妖精」
「そう、ですか」
「うん。好き」
「あの、ち、近……」
何となく、このままキスしてしまいそうなくらいの距離。ギリギリ鼻先が触れないくらいまで顔が近づいたその時、イアンは首根っこを掴まれて後ろに引っ張られた。
首が締まったせいでむせるイアンが振り返ると、そこにいたのは冷たい目をしたテオドール。彼はコホンと分かりやすすぎる咳払いをし、主人に抗議の視線を向けた。
その深紅の瞳が『何をしているのだ、この変態が』と言っている。
そこでようやく、我に返ったイアンは自分の行動について慌てて弁明した。しかし……、
「あ、違う。違うんだ!その、可愛いからつい!」
「ふぇ!?か、かわ!?」
弁明は弁明にはなっていなかった。
昨日までの態度とは打って変わって突然可愛いなどと言い出すものだから、アイシャの方も間の抜けた声を出してしまう。
本当に、どういう風の吹き回しだろう。昨日は目も合わそうとしなかったくせに。
(……春の妖精の効果はすごいわ!)
これはつまり、色仕掛け成功ということで良いのだろうか。アイシャが視界の端に見えるランに視線を送ると、ランはウィンクを返した。
このまま朝食に誘ってしまえ、そう言っているような気がする。
アイシャはぎゅっと目を閉じ、拳を強く握りながら意を決して口を開いた。
「あの!」
「は、はい!」
「朝食を、ご、ご一緒にいかがかと思いまして!」
「えぇ!?」
まさかアイシャの方から誘ってもらえるとは露ほども思っていなかったイアンは声が裏返る。後ろでテオドールは小さくガッツポーズをした。
「だ、ダメでしょうか?」
「ダメじゃない。というか、俺も同じことを言おうと思っていた」
イアンは照れ臭そうにそう言うと、また昨日のように顔を背けた。しかし手はアイシャに差し伸べられている。
「これは……」
「良ければ食堂までエスコートさせてくれないか?」
「……え?」
「ダメか?」
「いいえ!ダメではありませんわ!けれど……、男爵様は私に触れられるのはお嫌ではないのですか?」
「い、嫌だなんて、そんなわけないだろ!?」
「そうなのですか?」
「そうだよ!当たり前じゃないか!」
必死に、少し声を荒げて否定するイアン。昨日は握手の手を振り払ったのに、そんなわけないと言われても説得力に欠けるのだが……。これも春の妖精の効果だろうか。
アイシャは差し出された手に自分の手を重ね、当分はおさげ髪に花の髪飾りで過ごそうと思った。
*
「ありがとうございます」
主人たちが、ぎこちなくも昨日よりはまともな会話をしながら朝食を食べる部屋の片隅で、テオドールはランにお礼を言った。
ランは何のことかわからず首を傾げる。
「旦那様のフォローをしてくださったのではないのですか?昨日の旦那様の態度は最悪だったのに、奥様から食事に誘っていただけるとは思いませんでした」
「別に旦那様のフォローをしたわけではありません。ただ、奥様にもう少し強気に対応しても大丈夫だと伝えただけです。望んでいない結婚なのはお互い様なのに、奥様だけが拒絶されて傷つくなんておかしいでしょう?」
「望んでいないのは奥様だけですよ」
「……どうだか」
ランは乾いた笑みを浮かべ、素気なく返した。アイシャを前にしている時とは比べ物にならないほどに冷たい態度だ。
きっと美しく着飾ったアイシャに鼻の下を伸ばすイアンを見て、作戦通りと思いつつも、同時に容姿が変わっただけで手のひらを返す様が気に入らないのだろう。
テオドールはどうしたものかとため息をこぼした。
「信じられないかもしれませんが、本当のことですよ。詳しくは言えませんが、旦那様は昔、奥様と会っているのです」
「え?そうなのですか?」
「ええ。奥様は覚えておられないようなので、旦那様が伝えるまでは黙っていてほしいのですが、旦那様はその頃から奥様を想っておられます」
「……えーっと?ということは、もしや昨夜のアレは照れ隠しですか?」
「……ははっ。お恥ずかしながら」
「ええぇ……」
チラリと見たランの顔は何とも形容し難い形に歪んでいた。いい年した大人の男が思春期真っ只中の男子のような反応をしていたのだから、そんな顔をするのも無理はない。
ランは仕切り直すようにコホンと咳払いをすると、キッとテオドールを睨みつけた。
「では、奥様は旦那様に歓迎されていると考えて良いのですか?」
「はい。もちろんです」
「なら良いです……。でも奥様はこれまでたくさん傷ついてきたので、出来ればもう少し優しくして差し上げてください」
「すみません。旦那様にもそう伝えておきましょう。……しかし、意外ですね」
「何がですか?」
「ランは奥様付きになって日が浅いと聞いていたのですが、奥様のことをとても思っていらっしゃるようです」
「……奥様は私を必要としてくださる数少ないお方なので」
ラン曰く、新人だった彼女が専属に選ばれたのはアイシャの意志が働いたらしい。口減らしのために貴族家に奉公に出たランにとって、その異例の抜擢はとても嬉しいものだった。
「納得して家を出たはずなのに、心のどこかでは納得していなかったのでしょうね。他の兄弟は家に残って家業である農場の手伝いができるのに、自分は女だからと家を追い出されるなんておかしいって……。もしかすると、家族にとって私はいらない子だったのかって」
「……」
「奥様からしてみればただの同情からだったのかもしれませんが、『ランは必要な人間だ』と言われたみたいで嬉しかったんです。……単純だと思いますか?」
「……思いませんよ。そういう感情は僕も心当たりがありますから」
「そうですか。奇遇ですね」
ランの話に共感したテオドールの横顔はどこか寂しげだった。それはアイシャが時折見せる横顔に似ていて、そしておそらく自分もたまにしている表情だ。
一度捨てられたことのある人の顔。傷ついてきた人の顔。
ランは少し考え、深入りできるほどの仲ではないかと視線を主人の方へと戻した。
「まあとにかく、そういうわけなのでどうかお願いします」
「大丈夫です。旦那様には重々言って聞かせますので、任せてください」
「あと、奥様は愛に飢えておられます。だからきっと、愛されるためなら何だってすると思います。どんな努力も惜しみません。でももし、旦那様がその気持ちを利用することがあれば私は容赦しません。私にできることは少ないですが、男の急所を蹴り上げて再起不能にするくらいのことは……」
「待ってください。今なんと?」
「だから男の急所を……」
「そのもう少し前です」
「愛に飢えているという話ですか?」
「愛に飢えている?本当ですか?ブランチェット家のお嬢様は両親に溺愛されていると聞いていましたが」
「それは末の娘であるベアトリーチェ様のことですよ。あの屋敷ではだれも奥様のことは気にかけていませんでした」
「そうだったのですか。知りませんでした。では奥様にとってこの結婚は本当に押し付けられたものだったのですね」
「はい。嫌がる奥様に対して、伯爵夫妻が『ベアトリーチェが可哀想だから、ベアトリーチェの代わりにお前が嫁げ』と言っていました。面と向かって、はっきりと。当然のような顔をしてね」
「……さ、最悪ですね。それ」
きっと伯爵夫妻はアイシャに酷いことをしているなんてカケラも思っていないのだろう。ランはチッと舌を鳴らした。
「奥様のその扱いはずっと昔からですか?」
「私は長く伯爵家にいたわけではないので詳しくは知りませんが、エレノア子爵夫人から聞いた話ではベアトリーチェ様がお生まれになられてから段々と奥様の存在は空気のようになっていったと」
ベアトリーチェが生まれてから両親の中で自分の存在がどんどん薄くなっていくのを感じていたアイシャは、壁に落書きをしたり、わざとご飯を抜いてみたり、仮病を使ってみたり、逆に褒められようと勉強を頑張ったり、妹に優しくしたり、両親の気を引こうといろんなことをした。
けれど、両親の視線がアイシャの方に向くことはなかった。
「一度は両親からの愛を諦めた時もあったようですが、結局は『平等ではないけど、私は愛されてるはずだから』って言って、両親が求める理想のお姉さんになろうとずっと努力されていたそうですよ」
姉妹なのに愛情が平等でない時点でおかしいのに、アイシャはずっと自分が愛されていると信じて頑張ってきた。そして結局、今回の結婚のような出来事が重なり、その努力が無駄だったことを思い知らされた。
ランはイアンの話に合わせて相槌を打つアイシャの横顔を見つめながら、ぎゅっと拳を握りしめた。
「親からの愛なんて、早々に諦めていればこんなにも傷つかずに済んだのに」
期待すれば期待した分だけ、裏切られた時の傷も深い。アイシャの傷の深さはきっと相当なものだ。
結婚を命じられてから、体重が激減してやつれて行く過程を見ているランは苛立ちを吐き出すように呟いた。
「……そう、ですね?」
テオドールはランの話を聞いて何だか嫌な予感がした。
もし、アイシャが過去のイアンの言葉を信じて親の愛を求め続けていたとするなら、アイシャにとっての彼の言葉は良い方に作用したとは限らないのではないだろうか。
むしろ枷になっていた可能性もあり得るのではないだろうか。
(過去に会ったことがあるという話を打ち明けるのは、タイミングを見た方が良さそうだな)
過去に会ったことがあるから緊張して挙動不審になっていた、という言い訳は避けるべきかもしれない。せめて、もう少しアイシャをよく知ってから話すべきだ。
ならばと、テオドールは作戦を変更すべく思考を巡らせた。
「あのー……、テオドール様。少し宜しいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「旦那様は何故ハアハアして……いえ、呼吸が乱れていらっしゃるのでしょう」
ふと、ランが怪訝な顔をして見つめてきたものだから、テオドールは主人の方へと視線を向けた。
すると、イアンが可愛く着飾ったアイシャをじっと見つめてはぐふふと気味悪く笑っていた。
まずい。アイシャがちょっと引いている。ついでに言うと、ランはかなり引いている。
テオドールは頭が痛くなってきた。
「まるで変た……、うそです。なんでもありません」
「……へ、変態のように見えるかもしれませんが、変態ではないので安心してください」
「安心……」
「その、あの……、旦那様は笑い方が独特なので気味悪く思えるかもしれませんが、アレはよく躾けられた熊ですので。間違っても奥様に襲いかかるようなことはしません。だから、大丈夫です!」
「……熊って」
この人もこの人で大概失礼だな、とランは思った。この主従の関係はちょっとおかしい。
「しかしこれでお分かりいただけましたよね?旦那様は奥さまを愛しておられます。きっとこの地で奥様が愛に飢えることはないと思います。良かった良かった」
「無理矢理いい感じにまとめようとしないでくださいよ。……とりあえず、奥様は恋愛経験がないので、じっと見つめているだけでは好意は伝わらないと旦那様にお伝えください」
「アドバイス、ありがとうございます」
本当に世話の焼ける主人である。テオドールは「はぁー」と大きなため息をこぼした。




