15:死にたがりの初恋(3)
家族じゃないけれど、イアンのことを家族のように愛してくれていた人たちがいる。その事実を思い出したイアンは、途端に死ぬのが恐ろしくなってきた。
自分が死んだら彼らは泣くだろうか。
優しい人たちだから、きっと心に傷を負ってしまうかもしれない。自分の死が、彼らを傷つけてしまうかもしれない。
そう思うと急に震えが止まらない。イアンは小刻みに震える体を抱きしめ、小さくなる。少女はそんな彼をその小さな腕で優しく抱きしめた。
『仕返しですよ』
『……何が?』
『死にたくなくなったから、お兄さんからも死にたい気持ちを奪ってやろうと思って』
少女は悪戯っぽく笑う。
まんまとその気持ちを奪い取られてしまったイアンは彼女を抱きしめ返した。
『……せっかくここまで来たのに、どうしてくれるんだよ』
『それはこちらも同じです』
『フッ、そうだな』
『……』
『……なあ』
『はい』
『俺は、もう少し生きてみようと思う』
『そうですか』
『君も、生きてくれるか?』
『……はい、私も生きてみようと思います』
もう少しだけ、もう少しだけ頑張ってみよう。だって、自分は一人ではないから。
イアンは自身に言い聞かせるようにそう呟き、静かに涙を流した。
父は『強く生きろ』と言った。そして『幸せになれ』と言った。
しかし、一人では幸せを掴めない。そのことをイアンは知っている。
ならば、自分を愛してくれる人たちと幸せになろう。
父の最後の願いを叶えよう。きっと、それが今まで育ててもらった恩を返す方法だ。
『……ありがとう』
イアンは少女を抱きしめていた腕をほどき、彼女の頬にも流れていた涙を自分の袖口で拭った。しかし、袖が汚れていたために彼女の頬に土がついてしまい、イアンは慌ててその土を払う。
少女は両手で頬を覆われたのが恥ずかしいのか、それとも顔の近さが恥ずかしいのか、あるいはその両方か。彼女はボンっと花火が夜空を赤く染め上げるように、一瞬のうちに顔を赤くした。
『あ、あの……』
『大丈夫、もう取れたから。ごめんな。余計なことするんじゃなかったな』
『い、いえ。あの、そうでなくて……』
『ん?どうした?』
『ち、近い、です……』
『……あ! ご、ごめん!』
気がつくともう少しで鼻先が触れそうなくらいの距離に近づいていたイアン。
彼女の白い肌に汚れが残っていないかを確認したかっただけなのだが、その光景はもう、キスを迫っているようにしか見えず……。イアンは慌てて体をのけぞり、結果、木に後頭部を打ち付けてしまった。
『いっ……てぇ……』
『あ、あの。大丈夫ですから?』
『ああ。大丈夫大丈夫。それよりごめんな。なんか……、その……、近くて』
『いえ……。大丈夫、です』
気まずい雰囲気が二人を包む。先程まで死にたがっていた奴らとは思えぬほどに、暖かい、むしろ暑いくらいの空気感。
少女は自分の顔を隠すように、左右のおさげを掴むと、それで頬を覆った。
『……お兄様より大きな手で、びっくりしただけなので』
『……君には兄もいるのか?』
『はい。5つ年上で、今は寄宿学校に行っています』
『そうか』
『お兄様はとても優しい人で……。ふふっ。お兄さんを見ていると、なんだかお兄様に会いたくなりました』
『そっか。じゃあ、もう帰ろうか』
イアンは自身の後頭部をさすりながら立ち上がり、目の前に座ったまま少女に手を伸ばした。
少女は躊躇することなくその手を握る。
イアンはそんな彼女を右手の力だけで引き上げると、自分が歩いてきた道の方を見た。
そして小さくため息をこぼす。
『それにしても……、どうしようか?』
まだ朝なのに、真っ暗な獣道。薄気味悪い鳥か何かの鳴き声が聞こえてきた。
『生きて帰ろうなんて言ってるけど、これは生きて帰れるのか?』
何も考えずに『もう少し生きてみよう』と盛り上がっていたが、そもそもの話。ここから生きて帰ることなどできるのだろうか。
今いる場所が、一度入れば二度と出られないと噂の樹海である事を思い出したイアンは、不安げに目を細めた。
生きると決めたものの、ここから生きて帰れる保証はない。
すると、少女がキョトンとした顔をしてイアンの袖を引っ張る。
『あの、生きて帰れるかってどういう事ですか?』
『どういう事って、まさか知らないで来たのか? ここは一度入ると出られないと言われる樹海だぞ?』
『え!? そうなのですか!?』
『え、知らないで来たのか?』
『はい……。だって来た道はそんなに険しくも難しくもなかったから……』
少女は困惑した様子で自分か来た方の道を指した。
それはイアンが来た方向とは真反対。イアンは彼女に手を引かれ、その道を覗き込んだ。
『……随分と綺麗に舗装された道だな』
『はい……』
少女が来た方の道は多少歩きにくい部分はあれど、おそらくそこまで複雑な道ではないし、所々に階段や道標もある。間違っても出るのが困難な樹海、という雰囲気ではなかった。
『これは一体、どういう……』
『お兄さんの住むヴィルヘルム領からここに来るには険しい山道を上らなければいけないけれど、私のいるエレノア領からは割と簡単にこれてしまう、ということではないでしょうか?』
『なるほど……』
『ちなみにこの山はヴィルヘルムとエレノアの境にあるのですけど、滝自体はエレノア領のものらしいですよ?』
『へ、へえ……』
知らなかった、初耳だ。ならば通行料の支払いも身分証の提示もせずにここまできたイアンは不法侵入ではないか。捕まれば罰金刑だろうか。
そんなことを不安気に話すと、少女は誰も咎めはしないと慰めてくれた。
『きっと、ヴィルヘルムからこの樹海に消えた人たちの中には、案外このままエレノア領に向かった方も多いんじゃないでしょうか』
ここで死ぬことを選ばず、山を超えて別の地に移り住んだ人が少なからずいるのなら、それに越したことはない。少女はそう言って笑った。
『ひとまず、エレノアの方に降りましょうか?お兄さん』
『ああ、そうだな』
イアンは大きく頷くと、木陰に置いたままの父をもう一度担ぎ上げ、少女の案内で山を降りた。
その後は、山を降りた先で少女のお付きに見つかり、彼女がその者に怒られるのを黙って見届けた。
そして少女の紹介で、ヴィルヘルムに一番近いエレノア領の教会に父を埋葬してもらった。母の残りの遺灰と一緒に。
『ヴィルヘルムのことは、おじ……、じゃなくてエレノアの領主様に掛け合ってみます』
別れ際、少女はそう言った。
エレノア子爵とは面識があるらしく、ヴィルヘルムの環境改善について相談してみると言ってくれた。子爵家と繋がりがあるとは、やはりどこかのお嬢様なのだろう。イアンとは明らかに大きく身分が違う。
だからこそ、きっとこんな風に出会えたことは奇跡に違いない。イアンはそう思った。
『お兄さん、ありがとうございました。きっと、あの滝にお兄さんがいなければ、私はここに帰ってくることができませんでした』
『それは俺も同じだよ。こちらこそ、ありがとう』
『では、また。どこかで会えたら……』
『そうだな。またどこかで会えたら……、あ! そうだ!』
『何か忘れ物ですか?』
『名前。君の名前をまだ聞いていない』
こんなにもお互いのことを曝け出したのに、まだ名前も知らなかったことを思い出したイアンは恥ずかしそうに笑った。
そんな彼に少女は少し悩んだ後、こう返した。
『次にしましょう』
『……え?』
『次に会えた時に名乗ります。だから、その時までお互いに生きていると約束しませんか?』
にこっと悪戯っ子のように歯を見せて笑う少女。イアンは彼女の提案に肩をすくめた。
明確な日付のない再会の約束。それは生きるための約束だ。
次があるなら、生きていなければならない。
『それはいい提案だ。ではまた、どこかで会えた時に名前を聞かせてくれ』
『はい。また会えた時に』
イアンと少女は固く握手を交わした。また会えると信じて。
その後、イアンは教会が用意してくれた馬車に乗ってヴィルヘルムの街へと戻った。
ヴィルヘルムに戻ると、居酒屋の大将からはゲンコツを食らったし、おばさんや大家さん、幼馴染からは泣かれた。
自警団の人は夜通し探し回ってくれたのか、寝不足なようで、イアンはみんなに向けて深々と頭を下げた。
『心配かけてごめんなさい。でも、俺はちゃんと生きるよ。強く生きて幸せになる。父さんとの約束をちゃんと守るよ』
樹海で何があったのかはわからない。けれど、強い眼差しで『生きること』を約束したイアンに皆は安堵した。そして父の死を乗り越え、父の願いを叶えるために前を向いた彼のことをずっと応援し続けようと強く思った。
それからひと月ほど経ったある日。ヴィルヘルムの領主と教会の司祭は投獄された。エレノア子爵により、彼らの不正か明るみに出たのだ。
その結果、ヴィルヘルムはエレノア子爵領に吸収された。教会は平民にも門が開かれ、不当に重かった税は軽くなり、生活が改善された。
***
「まあ、数年後には魔族の襲撃があってヴィルヘルムの街は一度燃えてしまったけれど、それでもエレノア子爵が戦後の復興に尽力してくれているからか、街の雰囲気は前の領主の時よりも断然明るい」
これも全て、子爵のおかげであり、子爵とヴィルヘルムを繋いでくれたあの少女のおかげ。結局彼女はイアン一人だけでなく、街そのものを変えてくれたのだ。
「あれから、俺は一日たりとも彼女のことを忘れたことなどないんだ」
ずっと、あの少女に会うために生きてきた。
本当は時々、部屋で一人でいる時に父が恋しくなり、やっぱり後を追おうかと考えたこともある。
魔族との戦いで、多くの仲間と大切だった人たちが死んで、いっそこのまま皆んなと共に……、なんて思ったときもあった。
けれど、それでも決して諦めずにここまで生き抜くことができたのは彼女との約束があったからだ。
挫けそうな時はいつも心に彼女がいたから。
あの時出会った少女は、気がついたら自分の核となっていた。生きるための道標となっていた。
「……また会えるなんて、奇跡だよなぁ」
イアンは枕を抱きしめたまま、感慨深そうに呟いた。
また会おうと約束はしたけれど、まさかこんな形で再会するなど思ってもみなかった。
あの時、自分に約束をくれた彼女が同じ屋敷の中にいる。自分の妻となるために会いにきてくれた。
それだけで、イアンはもう胸がいっぱいだ。
釣書を一目見たあの日から、イアンはずっとこんな調子で浮かれている。
そして、この話を聞いた使用人達は主人と彼の初恋の人との再会を感動的なものにしようと、庭の手入れや屋敷の掃除、料理に至るまで完璧に準備していたというのに。
「……あんたのせいで全部台無しなのですが?」
テオドールは呆れ顔で浮かれた主人を見下ろした。
全部イアンのための努力だったのに、浮かれすぎて馬鹿になっている彼のせいで全てが台無しだ。きっとアイシャにとって、この再会は印象の悪いものになっているに違いない。
というか、そもそもの話……。
「奥様は絶対に旦那様のことを覚えていらっしゃいませんよね?」