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14:死にたがりの初恋(2)

 歳は3つほど下だろうか。少女の可愛らしい、翠色のタータンチェックのワンピースは土で汚れている。その山登りに相応しくない格好から、衝動的にここまで登ってきたのだということがわかった。

 周りには誰もいないところを見ると、一人で来たのだろう。


(こんな年端もいかぬ少女が、何のために……?)


 そう思った瞬間、イアンはフッと自嘲するような笑みを浮かべた。

 『何のために』なんて、答えは一つに決まっている。目的はイアンと同じだ。


『君も死にに来たのか?』


 イアンは少女に話しかけた。

 少女は俯き、か細い声で『わからない』と答えた。


『死にたいとは……、思う。そう思いながらここまで来ました。けれど、ここに来るまでの間、暗闇が怖いときはおじ様の顔が浮かんで、寒さに身体が震えた時はおば様の顔が浮かんだんです』


 自分が死んだら、彼らは悲しむだろうか。そんな思いが頭の中を駆け巡り、この木陰から先には行けないのだと彼女は言う。


『多分。多分だけれど、おじ様もおば様も悲しむような気がするんです』

『そっか……。なら、死ねないね』

『でも、もう生きていたくない』

『どうして?』

『お父様とお母様が私を見てくださらないから……』


 聞けば少女の両親は昔から妹ばかりを優先してきたらしい。

 普通なら母親から教わる淑女教育も叔母に丸投げし、さらには病気がちな妹の世話で忙しいからと、淑女教育が終わるまで叔母の家にお世話になるように命じた。

 そして実家を離れてから約一年。両親は彼女が会いたいと伝えても会いに来てくれないのに、つい先日、妹が姉に会いに行きたいと言うとすぐに色々な事を手配したそうだ。

 その扱いの差に、自分は愛されていないのだと気づいてしまった。だから死にたいのだと、彼女は泣いた。


『……は?』


 それはイアンからしてみれば『そんなことで?』と思うくらい、くだらない理由だった。

 少し妹を優先されただけで、死にたいなど。

 少女はその身なりからしてもかなり良い家の子どもだ。そして両親は健在で、心配してくれる叔父と叔母がいる。きっとイアンのように両親を亡くしても、頼れる人がいてお金がある。

 それなのに、些細なことで死にたいと言う彼女にイアンは、理不尽とは分かりつつも苛立った。


『君はその日食べるものに困るような暮らしをしたことがあるか?着るものに困る生活をしたことがあるか?病気なのに、大怪我をしたのに、治療すら受けられない生活をしたことはあるか?』


 大人気ないと思う。年下の、それもどんな理由であれ、心が傷ついて死のうとまでしている女の子に、妬みの混ざった苛立ちをぶつけるなど。これは紳士としてあるまじき行為だ。

 だがつい先日最愛の父を亡くし、天涯孤独となったイアンには、彼女を思いやる余裕などなかった。


『愛していないなら教育なんて受けさせない。愛していないのなら、妹に言われたからとはいえ、会いに来ない。今は妹に手がかかるから愛が平等に分け与えられていないだけで、君はちゃんと愛されている』


 ーーーーだから、死ぬなんて言うな。

 

 その言葉が口から出てきそうになり、イアンは咄嗟に口を押さえた。

 今から死のうとしていたやつが、『死ぬな』だなんて。どんな立場でそれを言うつもりなのか。。

 イアンは少女の近くまで行くと、父の遺体を隠すようにして彼女の横に腰を下ろした。そして彼女にも隣に座るよう促した。


『……あの』

『……悪い。今のは無しだ。ごめん』

『え……?』

『死にたい理由なんて、人それぞれだよな。心の傷の深さなんて、他人のものさしで安易に測って良い物じゃない。だから、ごめん』


 イアンは少女の目を見て、軽く頭を下げた。

 すると、少女はフッと笑みをこぼす。


『……いいえ』

『……ん?』

『さっきの言葉、不思議と嬉しかったです』

『……嬉しい?』

『はい。愛されているってハッキリと言ってもらえて、なんだか気持ちが軽くなりました。本当はずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれません』

 

 叔父や叔母は『自分が』少女を愛しているということは伝えてくれたけれど、彼女の両親が彼女のことを愛しているとは言ってくれなかった。


『おじ様もおば様も優しいし、私を愛してくれるけれど、やっぱり一番に愛されたいのはお父様とお母様だから……』


 自分はちゃんと愛されているのだと思いたかった。でも自分でそう思い込むにはもう傷つきすぎていて……。

 だから、妬みでも八つ当たりでも、欲しかった言葉をくれたことがどうしようもなく嬉しいのだと彼女は笑う。


『愛されているのなら、もう少し頑張れそうです。きっと妹にもまた、優しくできるわ』


 だから『ありがとう』と、少女は言った。先ほどまでの死んだ魚のような目とは違い、生を感じさせる柔らかい眼差して花のように笑う彼女に、イアンは思わず頬を染めた。


『そ、そうか。それならよかった』


 イアンは恥ずかしそうに少女から目を逸らせた。

 すると彼女はぐいっと顔を近づけてイアンの目を見つめる。


『お兄さんは?』

『ん?』

『お兄さんはどうしてここへ?』

『……俺も君と同じだよ。父と一緒にここに飛び込もうかと思って』

『お父様と?』

『ああ。数日前に馬車に轢かれて死んだんだ。本当はちゃんと埋葬してあげたかったけど、お金がなくてな。どうせなら一緒にって思って』


 徐々に異臭を放ち出す父の、自分とよく似た少し癖のある黒髪を撫で、イアンは愚痴のようにポツリとこぼした。

 本当は教会の墓地に埋めてあげたかったけれど、ヴィルヘルムの平民がそれをするのは難しい。何故なら、領主とズブズブの関係にあるヴィルヘルムの教会では高い管理費と場所代が取られるからだ。それも一度ではない。教会の敷地内に墓を持つと、毎年のようにそれを請求される。

 だから、ヴィルヘルムの平民は火葬が多いのだ。犯罪者と同じ方法で葬送されることは、彼らも望んでいないとわかりつつも、他に方法はない。

 現に、イアンを産んですぐに死んだ母親も火葬されたらしい。

 イアンは首から吊るした小瓶をぎゅっと握りしめた。


『これには母さんの遺灰が入っているんだ』

『そうですか。お母様の……』

『ああ。俺の母さんは俺を産んですぐに死んだんだけど、火葬した際に少しとっておいたらしい。それを父さんがお守りがわりにってくれたんだ』

 

 遺灰の大部分は海に撒いたが、母の温もりを知らずに育つ息子のためにと父が残しておいてくれたのだ。そう話すイアンはどこか嬉しそうだった。

 

『では、お母様とお父様とお兄さん。家族三人でこの滝に飛び込むつもりだったのですか?』

『ん?ああ、そういうことになる……な?』


 隣から顔を覗き込む少女のまんまるな群青の瞳が、イアンを捕らえる。

 純粋な、けれど強い瞳で見つめられ、ふと、何故だか母の顔が思い浮かんだ。

 写真でしかみたことがない母。写真の中の彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべていて、けれどその眼差しは強く、直感的に優しくてしっかりとした人なのだろうなと思った。

 優しいけれど頼りない父が選んだ人だ。きっとそうに違いない。


『……母さんは怒るかな?』


 命と引き換えに産んだ子が、父の『生きて』という言葉を無視して自ら命を絶つことを彼女はどう思うのだろう。

 怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。

 イアンの感情の揺れに気が付いたのか、少女は彼の手に自分の手を添えて、優しく尋ねた。

 

『お父様は、どんな方でしたか?』

『……優しい人だったよ。お人好しすぎて、周りには怒られることもあった。ちょっと頼りないけど誠実で明るくて、みんなに好かれていて……、父が死んだっていう知らせを聞いて、近所のみんな駆けつけてくれたんだ。まあ放っておいてくれって、俺が追い返しちゃったけど』

『そうですか。お父様は周囲の人に愛されていたのですね』

『ああ、そうだな』

『では、お兄さんどんな人ですか?』

『俺?俺は……、わからない』

『では、お兄さんは皆さんに愛されていましたか?お父様のように』


 気がつくと、少女の瞳は願うように少し潤んでいた。

 その瞳とかけられた言葉で彼女が言わんとしていることがなんとなく理解できたイアンは、ふーっと長く息を吐いた。



 隣のおばさんは躾にはうるさかったが毎度作りすぎたご飯をお裾分けしてくれたし、八百屋のおじさんは野菜をおまけしてくれた。

 酒場の大将はイアンの顔を見るといつも、その大きな手で豪快に頭を撫でてくれたし、大家さんはいつも家に一人のイアンを気にかけてくれた。

 向かいの家の幼馴染のおてんば娘は妹みたいに可愛かったし、小遣い稼ぎに下働きをしていた街の自警団のお兄さんたちにはよく遊んでもらった。

 

 そう、イアンはみんなに愛されていた。

 

 


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