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13:死にたがりの初恋(1)

 あの日、テオドールに渡された釣書を見た瞬間。イアンの頭の中を駆け巡ったのは不思議な少女と出会った、あの日の記憶だった。

 

 ***


 その昔、イアンが12歳の誕生日を迎えた日の朝のこと。

 イアンを男手ひとつで育てていた彼の父親が死んだ。

 暴走した馬車に轢かれたのだ。

 『息子の誕生日だから!』と奮発して、普段は近寄りもしない少し高級なパン屋で、イアンの好きな林檎のディニッシュを3つ買った帰りの出来事だった。

 馬車の持ち主はかなり急いでいたようで、頭から血を流し動けない父には見向きもせず、馬を落ち着かせた後は何ごともなかったかのように馬車に乗り込み、その場を走り去ったらしい。

 家で父の帰りを待っていたイアンの元にその知らせを持ってきたのは、顔を真っ青にした隣の家のおばさんだった。

 

『一応、応急処置はした。たが、これ以上の治療は治療院でなければ難しいだろう……』

『くそッ!これだから貴族は!』


 父を抱えて家まで連れてきてくれた商店街の八百屋のおじさんと酒場の大将が、悔しそうに言う。

 俺たちではどうしてやることもできないのだ、と。


『治療院なんて……。無理だよ……』


 イアンは力なくその場に崩れ落ちた。

 本来、教会が運営する治療院は誰でも診てもらえる場所なのだが、イアンが住んでいたヴィルヘルムという街の治療院は違った。

 領主と癒着のある治療院しかなかったのだ。

 本来誰でも診てもらえるはずの場所なのに、ヴィルヘルムの地では高額な治療費を払える人しか診てもらえない。そしてイアンの手元にはそんな高額な治療費を払えるだけの蓄えなどない。

 つまり、イアンはすでに虫の息の父をそのまま見殺しにするしかなかった。


『……イアン。誕生日、おめでとう』

 

 父は最後の力を振り絞り、唯一無事だった林檎のディニッシュを一つ、息子に渡した。そして、彼を置いて逝くことを謝った。

 何度も、何度も。

 この貧しいヴィルヘルムの地で、底辺に生きる子どもが親を亡くせば、その後の人生は過酷なものになる。それがわかりきっているからこそ、彼は謝らずにはいられないのだ。

 イアンはそんな父の手を握り、これまでの感謝と愛を伝えた。嘘でも『これからのことは大丈夫』なんて言えないから、代わりに変わらない愛を伝えた。


『父さん、愛しているよ。ずっとありがとう』

『こちらこそありがとうだ……、イアン。俺も……、愛しているよ。俺たちの可愛い息子……』

『うっ………うう……』

『泣くな、イアン。どうか強く、強く生きてくれ。……そして幸せに……なって……』


 乱れる呼吸の合間に言葉を紡ぐ父。幸せになれなど、無責任なことだ。最愛の息子を一人置いて逝くくせに。

 けれど、最後のわがままだから許してほしいと、彼は願った。


 そして、その日の夕方には、天へと旅立った。

 享年39歳。呆気ない最期だった。


 *


 それからのイアンは三日間、部屋に篭った。

 隣の家のおばさんや幼馴染がご飯を持ってきてくれたが、食べる気にもなれず。八百屋のおじさんや近所の人たちが父の火葬を手伝うと言ってくれたが、それを拒否し、彼は部屋に篭った。


 今はもう腐りゆく肉の塊にしかすぎない父と共に、三日間を過ごした。


 そして四日目の早朝。イアンは家を出た。

 台車に大きな木箱を乗せ、それを押してまだ静けさが残る大通りを南へ進む。舗装されてない石畳の道を、木箱を落とさぬよう慎重に、一歩ずつ。

 その後、噴水広場を過ぎて二つ目の角でイアンは小道に入った。そこから先は路地裏。特に治安の悪い地区だ。不衛生な場所特有の臭いが鼻をつく。

 普段ならこんな大きな荷物を抱えていると、路地裏の柄の悪い奴らに襲われるだろうが、今日は何故か誰も近づかない。おそらく、木箱の中から微かに見える手首のせいだろう。

 そう、イアンは父親を運んでいたのだ。

 路上生活者がイアンのことを異常者を見るような目で見る。それは遺体が珍しいからではない。薄ら笑いを浮かべて遺体を運んでいる様が恐ろしいからだ。

 だが、彼は気にしない。人の目など、気にする必要がないと思っているのだろう。


『だって、もう死ぬし……』


 イアンはクスッと冷たく笑った。

 自暴自棄になっているという自覚はある。けれど、父を亡くした今、天涯孤独となった彼には明るい未来なんて見えない。


『ごめん、父さん。やっぱり無理だよ』


 暗く細い路地を抜けたイアンは、遠くに見える不気味な雰囲気のある山を見つめて小さく呟いた。

 あそこは一度入ったら二度と出ることができないと言われる樹海。険しく複雑な山道は登山者の方向感覚を奪い、彼らの体力を削ぐらしい。

 イアンはその樹海を目指してさらに台車を押した。

 そして樹海の入り口にたどり着くと台車の上に乗せた木箱から動かない父の体を背負い、一歩、山の中へと踏み出した。


 動かない父の体は大きくて重い。ついこの間までおぶって貰うのは自分の方だったのに、立場というものはある日突然変わるらしい。不思議なものだ。

 イアンは覚束ない足取りで一歩一歩前へと進んだ。この時ばかりは自分が同世代の子どもよりも体格の良い方で良かったと思った。

 時折休憩を挟んでは、父との楽しかった過去に想いを馳せ、彼は前へと進み続けた。

 それを繰り返して約一日。途中、小さな洞穴で夜を明かして、ついた先は壮大で神秘的な滝壺だった。

 

 水が流れ落ちる大きな音は聞こえるのに、落ちて行き着く先は微かにしか見えない滝。落ちたら確実に死が待っているその滝は『輪廻の滝』と呼ばれていた。

 この滝壺に飛び込むと、輪廻の輪に乗り、平穏な来世へと逝けるらしい。

 尤も、その名の由来は、貧しい生活に耐えかねた者たちが、今世を諦めてこの滝壺に身を投げることから来ているのだが。

 イアンは父を木陰に寝かせると、その神秘的なのに全てを飲み込んでしまいそうなほどに恐ろしく、かつ、寂しい匂いのする滝壺を覗き込み、ゴクリと唾を飲んだ。

 今からここに父を投げ入れ、自分も飛び込むのだと思うと、覚悟を決めたはずなのに足がすくむ。

 父か死んでから、3日間。考えに考え抜いた結果なのに、いざとなるとまだ生への執着が捨て切れないようだ。そんな自分が情けなく思える。


『……くそっ! ダメだダメだ!』


 イアンは首を横に降り、頬を叩いて怖気付く自分の心を奮い立たせた。

 覚悟は決めたはずだ。もう未練はない。このまま生きていたって良いことなんてないのはわかりきっている。 


『父さんがいない世界に幸せなんて、ないよ……』

 

 最愛の父だった。たった一人の家族だった。そんな人を失って、身内も他にはいないのに、これから先どうやって生きていけば良いのだろう。

 怖い。これから先の未来が何も見えなくて、真っ暗な、明けない夜の中にいるみたいで恐ろしい。

 ずっと不安を抱えて生きるくらいなら、ここで死んで、来世も父の子どもになりたい。イアンは強くそう願う。


 父は幸せになれと願ってくれた。

 けれど、たったひとりでは幸せなど掴めない。


 イアンはぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をして滝壺の空気を吸い込む。

 とてもおいしい、新鮮な空気だ。

 

『大丈夫。ひとりじゃないから』


 そう呟いた彼はもう一度目を開け、そして父の方を振り返った。


 すると父の横には、錫色の長い髪をおさげに結った群青の瞳の少女が立っていた。



 

以降、あと2話ほど過去の回想です。

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