19:手が早い
あの後、二人はもっともっとと囃し立てる民衆から逃げるように宿に入った。
イアンからのプレゼントだと、カーベルから宿の部屋の鍵を渡されたのだ。
こうなることを予想して、このクソ忙しい時期に権力と金を駆使して無理矢理部屋を取っていたのだとか。
宿屋の女将には儲けさせてくれてありがとうとお礼を言われてしまった。恥ずかしい。
「もうちょっと甘い雰囲気になることを期待していました」
恥ずかしいと言いつつも、この後の展開に大いに期待していたテオドールは床に正座しながら、ランを見上げた。
ベッドに腰掛けて足を組むランは絶対零度の視線を彼にむけている。
先程までの頬を赤らめた可愛らしい彼女はどこへ行ってしまったのか。
「どうしてくれるんですか。明日には街中に噂が広がってますよ」
ランはよく商店街に買い物に行くのに。
次にお使いを頼まれた時、どんな顔をして商店街を歩けば良いのか。
絶対に揶揄われるに決まっている。みんなのニヤニヤした顔が目に浮かぶ。
ランは両手で顔を覆い、はあーと大きなため息をこぼした。
「ラン、ため息をつくと幸せが逃げるんですよ」
「うるさいです。本当黙って」
幸せはどこかの感情ダダ漏れ男のせいで溢れるほどに補充されたので、多少逃げても問題ない。
「そんな反応をされると不安になるんですが?」
「何であなたは平気でいられるんですか」
「すでに醜態を晒しまくっているので今更です。多分近々僕を揶揄うためだけに飲み会が開催されるでしょうし、その時に恥ずかしがってしまうとヤツらの思う壺なので、今のうちから平静を装う訓練でもしておこうかと」
「その飲み会、私は行きませんからね」
「多分リズかニーナあたりに捕獲されて強制参加となるでしょうが、まあ頑張って逃げてください」
「人ごとかよ。誰のせいだと思ってるんですか」
「僕のせいですね。でも仕方がないのですよ。だってランを好きになってしまったんですから」
「開き直るな!!」
ランはカッと目を見開き、叫んだ。
せめて責任を取るそぶりくらいは見せて欲しい。
「…………ほんと、どうしてくれるんですか」
「心配しなくても、みんなすぐに飽きますよ」
「……それだけじゃないですよ!どう責任取るつもりよ!私、リズさんの背中押しちゃったじゃん!」
「ああ、そのことですか。そのことについては本当にありがとうございました」
「ありがとう、じゃないですよ!?バカか!?」
ランは『告白してこい』とリズベットの背中を押した。
だが、いざ蓋を開けてみると、彼女の好きな男は自分を好きだと言う。
これはつまり、要約するとランはリズベットに『お前の好きな男は私のことが好きだから、さっさと告白してフラれてこい』と言ったも同然だ。
何と嫌味な女か。自分がリズベットの立場なら絶対嫌いになっている。
ランはリズベットに合わせる顔がないと、力なく呟いた。
しかし、テオドールはそれはそこまで心配することではないと言う。
「僕が言うのも違う気がするのですが、リズはそんな風に思っていないと思います」
リズベットもテオドールも、手を掴んで引っ張り上げてもらわなくては立ち上がることさえできなかった。
背中を押してもらわなくては歩き出すことさえできなかった。
暗い部屋の中。少しの衝撃でもすぐに崩れ落ちてしまいそうな、歪に積み上げられた積み木を、二人は必死に守りながら同じ時間を過ごしてきた。
いつか、どちらかが積み木を崩してしまうまではこの暗闇からは出られないし、出たくもないと思っていた。
本当は助けて欲しいのに、これでいいのだと自分に言い聞かせて。
差し伸べられた手を全て払いのけて、二人で閉じこもっていた。
それをランが強引に扉をこじ開けてくれたから。
眩い光と共に嵐を巻き起こして、積み木ごと全部掻っ攫ってくれたから。
だから二人は無駄に拗れずに歪な依存関係を終わらせることができた。
ランがいなければ、リズベットはいつまでもテオバルトの墓に行けなかったし、テオドールはいずれ、自分を押し殺してリズベットの好意を受け入れていた。
贖罪と依存で構成された歪な関係は、あのまま続けていれば、二人の心を蝕んでいたことだろう。
「本当の爆弾娘はランだったな」
テオドールはランを見上げて嬉しそうに笑った。
アイシャと共に現れた無駄に度胸のあるメイドは、主人と共に彼らの世界を変えてしまった。
「すごいね、ランは」
イアンにとっての神様がアイシャなら、テオドールにとっての神様はランだ。
「ねえ、好きだよ」
「はあ、そうですか」
「好き。ランが好き」
「はいはい」
「ねぇ、聞いてる?好……」
「聞こえてるってば!さっきからどうした!?」
こんなに恥ずかしげもなく、率直に好意を伝えてくるようなタイプではなかったろうに。
「やはり何か良くないものを食べたのですね。今すぐにペッてしなさい。ペッって」
「バカにしてます?」
「してません。心配しているんです。どうしたんですか、本当に」
「だってまだ言葉でもらってないから。言わせたくて」
「……ああ、なるほど」
そういえば、行動では返したが、言葉では返していない。
ランはどうしたものかと目を泳がせた。
言っても良いのだが、『好きにならない』と言った手前、素直に口に出すのは悔しい気もする。
テオドールはそんなランの心情を察したのか、彼女の前に膝をつくとその微かに赤らんだ柔らかい頬を両手で覆い、自分から顔を逸らせないようにした。
「好きですよ、ラン」
紅い瞳に激情を宿しつつ、テオドールはこちらを見上げてくる。
甘えたように何度も名前を呼んでくるのは反則だろう。
こんなのを可愛いと思ってしまうだなんて、どうかしている。
「ラン。聞いてる?」
「聞いてます」
「僕はランが好きです。ランは?」
「…………私も……、き、嫌いじゃないです」
「……それは流石に狡くない?」
考え抜いた末の妥協案だったのだが、どうやらお気に召さなかったようだ。
テオドールは不服そうにランの唇に噛み付いた。
「んっ……」
テオドールはそのままランの体を押すように立ち上がると、彼女の背中に手を回し、体を支えつつ、そっと優しくベッドに押し倒した。
自らも片膝だけベッドに置き、何度も深く口付ける。
ベッドが軋む音といやらしいリップ音とが混ざり合い、部屋の温度を一気に上げた。
乱れた呼吸、上気した頬、潤んだ胡桃色の瞳。
その全てが扇情的で、テオドールはゴクリの生唾を飲んだ。
「ラン。密室で男と二人きりで、何も考えずにベッドに腰掛けるとこういうことになるんですよ?」
だからあの時、テオドールは微妙な顔をしていたのだ。
今更気づいたランは素直に、「気をつけます」と返すしかなかった。
「さて、どうしよっか?」
テオドールはそれはそれは愉快そうに、ランの唇を指でなぞる。
たまにその柔らかい唇を押して弾力を確かめてみたり、無理矢理口内に指を捩じ込んでみたりと、これでもかと弄ぶ。
ランは挑発するように見下ろす彼に負けてたまるかと、指を甘噛みした。ついでに少し舐めてやる。
しかしテオドールはその光景をただ満足げに見つめているだけだった。ダメージはゼロだ。むしろ少し喜んでいるようにさえ見える。腹立たしい。
「……結婚前にこういうのはダメなんじゃないんですか?奥様の時にそう言ってたのは自分でしょ?」
「そうだね。でも逆に考えてみて?たとえランが明日の朝、冷静になって選択を間違えたと後悔しても、既成事実さえ作っておけばもう僕と結婚するしかなくなるだろう?」
「最っ低」
「知ってる。で?どうする?今ならまだ逃してあげられるけど」
そう言いながらも、テオドールはランのワンピースの、首元のリボンを何の躊躇いもなく解く。
口では逃してやるなんて言いながらも、いざ逃げようとすると絶対に逃してはくれないくせに。
ランは仕方がないから流されてやるか、とテオドールのシャツのボタンに手を伸ばした。
「申請した覚えのない外泊届の許可は出ているらしいので」
「じゃあ、朝まで一緒にいられますね」
「…………今何時?」
「さあ?」
ちょうどおやつを食べたくなるくらいの時間な気がする。
やはり早まったかもしれない。
でももう手遅れなので、ランはとりあえず目を閉じて、全てを流れに任せることにした。
ずっとウジウジしていたくせに、いざこうなると手が早い。




