12:涙
「おかえり」
ランが部屋に帰ると、アイシャが使用人用の粗末なベッドで寝ていた。
ランは驚いて目を丸くする。
この人は自分が貴族であることを忘れているのではなかろうか。
「な、何をなさっているのですか?」
「気になっちゃって。どうだった?喧嘩」
「ああ、なるほど」
心配できてくれたのか。ランは笑顔を作って答えた。
「なんか、意外にも喧嘩になりませんでした。もっと『首を突っ込むな』とか『お前には関係ない』とか言われると思ってたのに」
どこかの誰かにそんなことを言われたのだろう。アイシャはその誰かを腹立たしく思いつつも、「そう」とだけ返した。
ランは羽織っていたストールを机に置くと、アイシャに背を向けてベッドの端に腰掛ける。
アイシャからは彼女の顔が見えない。
「ご心配をおかけしました。でもこの通り、喧嘩にもなっていませんし、大丈夫ですよ」
「ねえ、ラン。知ってる?」
「何がですか?」
「テオもリズも面倒くさいけど、ランもランで中々に面倒くさいのよ?」
アイシャはそう言うと、ベッドから体を起こしてランを後ろから抱きしめた。
俯いたランの頬からは静かに涙がこぼれ落ちる。
落ちた雫は彼女の白い夜着を濡らしていた。
「ランはもう少し自分の心を大事にしてね」
わかりにくいけれど、ランはいつも人のことばかり考えている優しい子だ。
だからアイシャはランのことが心配で仕方がない。
「ラン、いつもありがとう。大好きよ」
「……奥様」
「なぁに?」
「ちょっとだけ、甘えても良いですか?」
「いいわよ。おいで」
アイシャの優しい声に堪えきれなくなったランは後ろを振り返り、彼女の胸元に顔を埋めた。
「……っ…….うっ……」
声を押し殺して泣くランの頭を、アイシャは何も聞かずに優しく撫でる。
裕福ではないのに兄弟が多くて。兄や弟妹の世話ばかりして、幼い頃はろくに友達もできなかった。
そして15の時、養えないからと家を追い出された。
商家のお屋敷を経由して、たどり着いた伯爵家では真の主人を得たが、すぐにその身一つで知り合いなど一人もいない北部へ行くことになった。
ついた先は問題だらけの場所で。
生まれて初めて、子どもが爆散して死ぬところを見た。
別に特段不幸でもないけれど、そこそこにくだらない人生を歩んできたと思ってる。
それでも、ランは家を出てからアッシュフォードに来るまで泣いたことがなかった。
聞き分けの良い子のふりをして家を出たその日から、はじめのお屋敷でご子息の目に留まり関係を迫られた時も、次のお屋敷で奥様に甚振られたときも、ブランチェット伯爵家でアイシャ付きになった途端に同僚から無視された時も。
ランは泣かなかった。
一度泣くと、もう二度と立ち上がれない気がしていたから。負けてたまるかと、歯を食いしばっていた。
自分は強いのだとそう思っていた。
それなのに、どうして。
どうして、こんなにも涙が止まらないのか。
たかだか失恋程度で情けない。
こんなに脆くなるのなら、恋なんて知らない方が良かった。
これは、ろくな感情じゃない。
*
「あの二人は無事に恋人同士になれるでしょうか」
アイシャに抱きしめられたまま、ランはベッドの中でつぶやいた。
テオバルトの呪縛から解き放たれたリズベットは、テオドールに愛を伝えるだろう。そしてテオドールはそれに応えるだろう。
もちろん、テオバルトとしてではなくテオドール本人として。
これがランが望んだハッピーエンドだ。
ランはアイシャの胸元に顔を埋めたまま、これでいいんだと自分に言い聞かせた。
アイシャはそんな彼女の頭を撫でながら、呆れたようにため息をこぼす。
「どうなるかはわからないけど、彼には少しお仕置きが必要ね」
「……お仕置き?」
「ランを泣かせたから」
「そんなのいらないですよ。大丈夫です」
もうたくさん泣いたから、きっと明日には笑える。
そのために無礼を承知で主人の胸を借りたのだ。
そう言うランに、アイシャは『だったら、明日テオドールに会ったら笑顔で対応してやればいい』とアドバイスした。
「ラン。あなたも明後日の夏祭りに行ってきたら?」
「夏祭り、ですか?」
「そう。気分転換に」
「でも、お仕事が……」
「ニーナもいるし、一日くらいなら大丈夫よ。それに頼みたいこともあるし」
「頼みたいこと?」
「私、夏祭りの間はずっと来客の対応に追われてると思うの。だからね、屋台のご飯を食べられそうになくて……」
夏祭りは珍しい屋台もたくさん出ると聞く。アイシャはそれが食べたいから買ってきて欲しいと頼んだ。
おそらくこれは、ランに休日を与えるための言い訳だ。本当に屋台飯が欲しいわけではないだろう。
だが北部の夏祭りは確かに少し気になる。
だからランはその言い訳を使わせてもらうことにした。
「ふふっ。何が食べたいですか?」
「なんかね、ジャガイモを薄く螺旋状に切って、揚げて不思議な粉をかける料理があるらしいの」
「へぇ、美味しそう」
「あとはね、生の果物に飴を絡めて固めたやつとか!」
「わかりました。探して買ってきます」
「ありがとう。あ、当日は人が多いから騎士団から非番の人を誰か借りるわね」
「別に、一人で大丈夫ですけど……」
「今年は領外からもたくさん来るだろうと予想されてるから、念のためよ。私の可愛いランに何かあったら私が悲しいもの」
「そうですか。わかり、ました……」
ランは重たくなる瞼を擦りながら、眠そうに返事をした。
アイシャはランの額にそっと唇を落とすと、「おやすみ」と優しく囁いた。
人の温もりに包まれて眠るのはいつぶりだろうか。
ランは穏やかな気持ちで、静かに意識を手放した。
***
翌朝、テオドールはランの部屋を訪ねた。
流石にこのまま冷戦状態を維持するわけにもいかない。
屋敷の皆に気を使わせているし、何よりランと話せないのは自分が耐えられない。
だからテオドールは、扉の前で何度も深呼吸をしてからノックした。
「ラン。おはようございます」
呼びかけるも返事はない。テオドールは首を傾げた。
流石にもう起きているかと思ったが、そういえば朝は苦手だと言っていた気がする。
「まだ寝ているのかな……」
テオドールは出直すか、と扉に背を向けた。
すると乱暴に扉が開かれた。
テオドールは驚きと期待で、勢いよく振り返る。
そしてそこにいた人物に目を丸くした。
「……え?奥様?」
何故ここにこの人がいるのだろう。まさか使用人の粗末な部屋で寝たのだろうか。
昨夜、同衾を断られたとイアンがしょげていたが、ここに来るためだったらしい。テオドールは不仲になったわけではないようだと、安堵した。
「おはよう、テオドール」
「お、おはようございます」
笑顔の圧がすごい。多分アイシャは今、とても怒っている。
しかし彼女を怒らせた記憶がないテオドールは困惑するしかなかった。
「ラン。準備はできた?」
「はい」
「では行きましょうか。今日はお母様とコルベール伯爵夫人がお越しになるの。急いで支度しなくちゃ」
アイシャはふんと鼻を鳴らし、テオドールの前を通り過ぎる。
部屋から出てきたランも同じようにテオドールの前を通り過ぎようとした。
けれどテオドールはランの目元が赤いことが気になり、彼女を引き留めた。
するとランはくるりと振り返り、にっこりと笑った。
「あら、テオ様。おはようございます」
その笑顔は他の人にも向けている笑顔で、テオドールの心臓はドクンと跳ねた。
鼓動が早くなる。焦りで冷や汗が止まらない。
「あ、あの……。ラン……」
「では、急ぎますので。失礼しますね」
ランは最後まで笑顔を貫いた。
「……笑うなよ」
遠くなるランの背中を見つめ、テオドールはポツリと呟く。
怒っていても、せめていつもみたいに、生ゴミを見るような目を向けて欲しかった。
自分にしか見せない冷めた目と、嫌そうな顔が見たかった。
それなのに、あんな風に笑われたらまるで、
「他のやつと同じみたいじゃないか」
テオドールは、ランの中でその他大勢と同じになってしまったと絶望した。




