2:おやすみ
近所の憧れのお兄ちゃんの背中を追いかけて傭兵団に入団したリズベット・マイヤーは、女のくせに体格が良く、腕っぷしも強くて、俊敏性もあって。傭兵団の中では意外にも重宝された。
腕の立つ女は使えるらしい。女ということで相手の油断を誘えるため、街に潜む麻薬組織の摘発などの作戦では特に活躍した。
自分は役に立つ。リズベットは自信を持っていた。だから当然、自分も戦争の最前線に連れて行ってもらえると思っていた。
けれどイアンはヴィルヘルムを守りきった後、アッシュフォードの奪還作戦に移る際、彼女を後方に下がらせた。
当たり前だ。戦争と街の警備はまるで違う。
これより先は守りに徹する戦いじゃなく、取り戻すための戦いになる。
今よりも過酷な環境に身を置くことになるとわかっていたイアンは、最前線に連れて行けとゴネる彼女に『死を覚悟できていない者は連れて行けない』と言った。
イアンの言う死とは、単に自分の死を指しているのではない。仲間の死や民の死、街の死。全ての死を指している。
破壊された全てを見て、怖気付くことなく、心を凍らせてただ冷徹に前へ進むことができるやつじゃないと連れて行けない。最前線では、大切な仲間の死を目の当たりにして怯える少女に構ってやる暇などないから。
しかし、そう伝えてもリズベットは引かなかった。覚悟はできている、と。自分だけ後ろに下がるのは嫌だと。
「甘ったれた子どもだったなぁ」
飲みの席などでこの話を掘り返されると、リズベットはいつも恥ずかしさで死にそうになる。
自分が何もわかっていない。現実を見れていない甘ったれな子どもだったと、今は理解しているからだ。
「あれ?でも、いつから覚悟を決められたんだっけ?」
薄暗い部屋の天井を眺めて、微睡の中。リズベットはつぶやいた。
確か、甘ったれな子どもに現実を叩き込んでくれたのは、柔らかな物腰と胡散臭い笑みでいつもコチラを翻弄してくる、性格の悪い男だった。
気に食わなかったけど、嫌いじゃなかった。
イアン以外で初めて憧れた人だった。大切にしたいと思える人だったはず……。
なのに、どうしてだろう。顔が思い出せない。
靄がかかって、あの胡散臭い微笑みが思い出せない。
リズベットは救いを求めるようにベッドの端を見た。
すると、そこに座る彼がこちらを見下ろしていた。
「ああ、そうだわ。こんな笑みだった」
彼の微笑みを見て、リズベットは安堵したように笑った。
「もう寝なさい。明日も訓練があるのでしょう?」
「……うん」
声がいつもより優しい。普段はバレバレであろう好意をそっけなく遇らうくせに、こういう時だけはいつも優しい。
残酷なほどに。
握られた自分よりも少しだけ大きな手の温もりと、重くなる瞼に抗いきれず、リズベットは意識を手放した。
「おやすみ、テオ」
「おやすみなさい、リズ」
*
蒸し暑い夜。リズベットは目を覚ました。
じっとりと肌に張り付く夜着と額に滲む汗。それから乱れたシーツ。
どんな夢を見ていたのかは覚えていない。
けれど、ろくでもない夢であったことは状況が物語っていた。
「ふう……」
何度目だろう。この時期になるといつもこうだ。
目を覚ますとすぐに忘れてしまう悪夢を見るせいで、中々眠れない。
リズベットは喉の渇きを潤すため、ベッド横のテーブルに置いていた水差しに手をのばそうとした。
すると、不意に水の入ったグラスが差し出される。
「……まだいたの?」
リズベットはグラスを受け取ると顔を上げた。
そこにいたのは赤目の青年、テオドール。リズベットがずっと片思いをしている人だ。
テオドールはせっかくそばに居てやっているのにひどい言い方だなと穏やかに笑った。
「一度起きたらなかなか寝付けないリズのために残っていたというのに、いいんですか?そんなこと言って。帰っちゃいますよ?」
「…………やだ」
「おや?今日は素直ですね。何かありました?」
「……教えない」
ここ最近、目障りな赤毛のウサギがぴょんぴょんとテオドールの周りを飛び回っているせいだ、とは口が裂けても言いたくない。
リズベットは酒を呷るように、水をグビッと一気に流し込むとテオドールにグラスを押し付けて布団を頭から被った。
そして顔だけを布団から出し、ポツリと呟く。
「私のこと、好きって言ったくせに」
よく覚えていないけれど、昔、そう言われた気がする。
テオドールは彼女の言葉に困ったように笑った。
「……それを言ったのは本当に僕ですか?」
「テオだもん。自分の言ったことには責任持ちなさいよ、ばーか」
「だとしたら、それは友愛の意味ですね。勘違いしないように」
「わかってるし!」
リズベットは顔まで布団で覆って自分の全部を隠した。
別に、テオドールがこちらに向ける視線に恋愛的な感情がひとつもないことは昔から知っている。
けれど、彼がくれる言葉をそのままストレートに受け取って、ちょっとくらい期待してもバチは当たらないと思う。
「あの、さ……」
「何ですか?」
「ランと何かあった?」
「……何かって?」
「わかんないけど、でも最近仲が良いから……」
「そうですか?相変わらず生ゴミを見るような目を向けられているのですが」
テオドールはリズベットの可愛い嫉妬に苦笑した。
ランは基本的にどんな人にも笑顔で対応する。だから皆の目には人懐っこい女の子という風に映っているだろう。
最近はアイシャに危害を加えるのでは無いかと警戒していたイアンやリズベットにも笑顔を見せるようになっている。
だが彼女は何があってもテオドールにだけは笑わない。嘲笑は向けても笑顔は向けない。頑なに。
「リズも知っているでしょ?あの子のあの視線。上司に向けるそれではないですよ。バッタを見る目の方が優しいくらいです」
「まあ、知っているけど……。でも、それってつまり、ランにとってのテオが特別だってことじゃないの?」
ただ一人に対してのみ笑わないのなら、それはその人が特別な存在であるという証拠だ。
それを言うと、ランは心底不快そうな顔をして『ぶん殴りますよ』と怒るが、リズベットのこの直感は多分間違っていない。
しかし、テオドールもランと同じように「まさか」と彼女の心配を鼻で笑った。
「……さ、最近よく、二人でお茶を飲みに来るとニックがぼやいていたわ。俺の小屋は喫茶店じゃないって」
「相談することがあるんですよ。彼女は奥様の一番近くにいる人ですから」
「あたしだって奥様付きよ」
「あなたは護衛でしょう?護衛と侍女では持つ情報も求められる仕事も違います」
「……それは、そうだけど」
でもやっぱり納得できない。リズベットは布団の中でムーッと唸った。
すると、布団の上から頭を撫でられる。
「もういいから、寝なさい」
母親が愚図る子どもに言い聞かせるように、テオドールは優しく言う。
その優しさにリズベットはやっぱり、ムーッと唸った。
言葉遣いは綺麗なくせに、腹黒くて意地悪で。でも、たまに優しい。
そういうところが本当にそっくりだ。
ーーー誰に?
リズベットはふと、自分自身に問いかける。
自分の好きな人は誰に似ているのだろう。うまく思い出せない。
いや、うそだ。本当は少しだけ思い出しかけている。
けれど、リズベットは頭に浮かんだ彼の最期の笑顔を見なかったことにした。
ちゃんと思い出したら過去になってしまいそうだから。
彼の最期のお願いさえ聞いてあげられずに、彼を置き去りにして前に進んでしまいそうだから。
「テオ……」
甘えるような声で、名前を呼ぶ。
誘うように、布団から手を出す。
テオドールはただ穏やかに微笑んで、差し出された手を握った。
*
しばらくしてリズベットの寝息が聞こえてきた。
テオドールは彼女の手を離し、安堵したようにため息をこぼす。
見た目はどこぞの王子様のようにカッコいいのに、中身は弱く脆いリズベットは可愛らしい。
口は素直じゃないのに、思っていることがすぐに表情に出るところもわかりやすくて良いと思う。
好きになろうと思えば、なれる。
一生好意を遇らうとは言ったけど、多分そうもいかないだろう。
騎士団のみんなはテオドールとリズベットの関係が進展することを期待しているし、何よりリズベットは幸せになるべきだ。
だからもし彼女が一歩踏み出して告白でもしてきたら、テオドールはそれに応えてやる準備ができている。
たとえ、彼と自分を重ねているだけだとしても、彼女が幸せになれるのならそれでいい。
それがせめてもの罪滅ぼしだ。死んだ人は戻ってこないから。
テオドールにはもう、そばにいてやることしかできないから。
「でも……」
ずっと、そう思っていたのに。とうの昔に覚悟を決めていたはずなのに。
けれど最近、どうもおかしい。
弱ったリズベットを見て、どこかの気の強いメイドはこんな風に誰かに縋ったりなどしないのだろうな、なんて。そんなくだらないことを考えてしまう。
「ほんと、どうかしてる」
テオドールは自分のことがより一層、嫌いになった。




