34:宴
マリアンヌの手紙を読んだダニエルは、顔面蒼白で馬に飛び乗ると、近衛を引き連れて広場から立ち去った。
おそらくはそのままアッシュフォードを出て、彼女の元へと向かうのだろう。
焦るあまり、手紙の最後の言葉を勘違いしてしまったようだが……。
お可哀想に。
マリアンヌに土下座したところで何も変わらない。彼女はすでにそう言っている。
彼はいっそこのまま、国を出た方が良いだろう。
「女は怒らせると怖いな」
コルベール伯爵は最近妻にプレゼントを送っていなかったことを思い出した。
*
「返しそびれちゃった」
アイシャの手元にはダニエルのピストルだけが残った。
「それはこちらではあまり手に入りませんし、慰謝料として頂いておけば良いのでは?」
「それもそうね。テオの言う通りだわ」
近々、イアンに内緒で護身術を習おうと思っていたところなので丁度いい。
射撃の腕に自信はないが、コルベール伯爵に指南を仰げばいいし、何より剣を扱えないアイシャにとってこの武器はありがたい。
思わぬプレゼントだとアイシャは笑った。
「ついでに奥様、僕からもこちらをプレゼントです」
テオドールが渡したのは二通の手紙だった。
それはアイシャが彼に託したマリアンヌへの手紙。
アイシャはそれを受け取ると小首を傾げた。
「手紙、渡さなかったの?」
「すみません、どちらを選んでも角が立つ気がしたので」
あれだけ想っていたのだから、他人から見切りをつけろと言われても納得できないだろう。
だから、テオドールは彼女の方から見切りをつけてもらうことにしたらしい。
「なるほどね。確かにそう言われてみればそうなのかも。でもまさか直接マリアンヌ様に会っていたなんて思わなかったわ。そう簡単にお会いできる方ではないのだけれど、どうやったの?」
「大したことはしてませんよ」
裏技を使って首都へと降り立ったテオドールはジェラルドと合流し、彼が教会へ近づけないことを知った。
だからジェラルドにはアイシャの友人に接触してもらうことにした。
そして彼女たちを通じてマリアンヌに噂を流してもらった。
「皇室の影は良くも悪くも命令に忠実なのでしょうね。教会へ近づかぬよう見張れと命令されていたのだと思います。だから、教会へ近づかなければ警戒されませんでした」
「それはまあ、何というか。間抜けね」
「はい。で、後はマリアンヌ様が現れそうな場所を兄君とぶらついて、噂の真偽が気になった彼女が僕らに声をかければこちらの勝ちというわけです」
接触してきたマリアンヌには敢えて曖昧な態度を取り、悩ませる。そして彼女にダニエルのことを考えさせた。
こんなことをしでかす奴だ。きっとマリアンヌとの付き合いの中で小さな失態を積み重ねているはずだと、テオドールは踏んでいたのだ。
恋心で曇っていた目も冷静さを取り戻すと視界がクリアになる。クリアになった視界でダニエル・ローレンスを見てみると彼女はすぐに気づくはず。
好いた男が、実は大した男ではないということを。
「そうして彼女が自分から皇子殿下に見切りをつけるのを待ってから、事前に用意してもらっていたエレノア子爵の手紙を渡した……、とまあそれだけです」
「そ、そう」
テオドールはそんなに難しいことはしていないと説明した。
彼があまりにも簡単にそう言うものだからアイシャは苦笑して問う。
これはただの優秀な執事というレベルじゃない。
「……もしかして、他の家からスカウト来てるんじゃない?」
「旦那様がヤキモチ焼くので秘密ですよ」
「ふふっ。そうね。ちなみに他には何をしてきたの?」
「奥様の駒……じゃなくて人脈を少しばかりお借りして、適当にタネを撒いてきました。あとはそれが芽吹くのを待つだけです。もちろんうまくいけばの話ですけど」
花が咲き、小鳥たちの囀りが北部まで聞こえてくる頃。きっと皇室は傀儡の王となっていることだろうとテオドールは語る。
アイシャはかの戦争で彼を魔族軍から寝返らせたイアンを心の底から尊敬した。
そうでなければ、戦争はもっと長引いていただろう。この男、絶対に敵に回したくないタイプだ。
「はは……。さすがね」
「ありがとうございます」
良くやったと褒めて欲しいのか、テオドールはふふんと胸を逸らす。
その姿が珍しく、アイシャはちょっとした悪戯心で彼の頭を撫でてやった。
「……やめてもらえます?」
テオドールはその優しい手に、不意に母の顔を思い出した。
過酷すぎる人生の中で、生き残るために削ぎ落として削ぎ落として、いつの間にか忘れてしまっていた母の優しい微笑みを。
「…………テオ、顔が赤いわ。珍しい」
いい年して母の顔を思い出し、少し泣きそうになった自分が恥ずかしいのか、テオドールは耳まで顔を赤くした。
その彼の姿にリズベットはぷくーっと頬を膨らませている。わかりやすいヤキモチほど可愛いものはない。
しかしながら、そんなに怒るなら、いっそのこと告白の一つでもしてしまえばいいのに。
「子ども扱いはやめてください。不愉快です」
「そうね、やめておくわ。これ以上はリズが怖いし、ランに嫌われたくもないし」
「いや、ランは違うでしょう」
「あら、リズの方は気づいていたの?」
「……今、嵌めましたね?」
「何の話?」
アイシャはわからないフリをした。
けれど、わからないフリをしている奴に同じような態度をとったところで、責められないはずだ。
そう言うと、テオドールは不愉快そうに眉を顰めた。
「………………普通に考えて、あれで気づかない方がおかしいでしょう」
「あら、いいの?認めても。気づいてることはイアン様にも内緒なのでしょ?」
「奥様の目は誤魔化せませんので。でも余計なことは言わないでくださいね」
「別に言わないわよ」
「僕らはずっとこのままでいいんですから」
「現状維持が1番楽だものね。あなたの立場では特に」
「でしょう?」
「でもね、きっとすぐに、そうも言っていられなくなるわ。だって赤毛のうさぎは可愛いもの。ねえ、そうは思わない?」
「…………それはノーコメントで」
テオドールが少し目線を下に下ろすと、いつのまにか2人の間に割り込んだランが、少し背伸びをしてアイシャの腕を押し上げていた。
どこか不機嫌そうにその胡桃色の瞳を細めて。
一体どこから聞いていたのだろう。
「あら、ラン。ヤキモチ?」
「私も頭撫でて欲しいです」
「はいはい」
わかりやすい誤魔化し方をするランにアイシャは可愛いと呟いた。
そしてご希望通りに頭を撫でてやった。
すると、今度はランの頭を撫でていたその手を上から引き剥がされる。
「俺も頑張ったんだけど?」
「あら、イアン様」
拗ねたようにこちらを見下ろす彼に、アイシャは仕方がないとその柔らかな黒髪を両手で撫でてやった。
しかし、まだ不服そうだ。
「これではご満足いただけませんか?」
「俺のこと忘れていただろ、アイシャ。皇子殿下が帰ってからさっきまで、絞め落とされるんじゃないかと思うくらいに閣下に抱きしめられてたの、見てた?」
「見てないですね。ごめんなさい。そんなことになっていたんですか?」
アイシャがくるりと後ろを振り返ると、騎士も農夫も母ちゃんも屋台の大将も皆んなが酒を飲み交わし、音楽を奏でて踊り狂っている。
そしてその輪の中心には子どもを2人ほど担いでクルクルと回るラホズ侯爵がいた。
「わお。本当にお祭り騒ぎですね」
「侯爵閣下はあんなお方だったかしら」
「酒が入るといつもあんな感じだ。このあと面倒だぞ?どうする?」
「どうすると言われましても、困りましたわね」
今夜は宴だ、あるだけ酒を持って来いと騒ぐラホズ侯爵と、危険を察知して彼と距離を取ろうとするも、すぐに捕獲されて嘆くコルベール伯爵。
そして端の方で静かに酒を飲みながら、近くのおじさんに『あの子、私の娘です』とアイシャを指差してひたすらに話しているエレノア子爵。
もう大概手遅れである。イアンはどうしたものかと頭を掻いた。
「今夜も何も、まだ真昼間なんだよなぁ」
太陽は一番高い位置からアッシュフォードを照らしている。
テオドールは太陽を見上げて目を細めた。
「まあ今日は暖かいので大丈夫でしょうけど、一応天幕をいくつか用意しておきますか?」
「そうだな。酔っ払ったやつを介抱してやらねばならんし」
「……ねえ、テオ。冬の間にいただいたお酒とか食糧って余ってるわよね?」
「え、残ってはいますけど……、まさか?」
「そう、まさかよ」
アイシャはニヤリと口角を上げた。
「テオはみんなで騒げるだけのお酒と食べ物を持ってきて!」
「えぇ……」
「ラン!リズと屋敷に戻ってみんなを連れてきて!私は近くの食堂の厨房を借りられないか交渉してみる!」
「了解!急ぐわよ、ラン!」
「言われなくともわかってます!命令しないでください!」
リズベットはぷりぷりと怒るランを乱暴に自分の馬に乗せると、すぐに屋敷へと走って行った。
テオドールは心底嫌そうな顔をしつつも、一足遅れて、騎士の数名を引き連れて一旦広場を離れた。
「俺の愛しの婚約者は、知らぬ間に随分とアッシュフォードに染まってしまったようだ」
先ほどの蹴りといい、イアンは随分と逞しくなったと苦笑するしかなかった。
アイシャはそんな彼を下から見上げて、悪戯っぽく笑う。
「アッシュフォードではなく、あなたに染まったつもりでいたのですけれど?」
「……何で今そういうこと言うかな」
「言いたかったので」
「物陰に連れ込むぞ」
「ふふっ。どうぞ?」
「あー、もう!」
イアンはアイシャを抱き上げると、宣言通りに彼女を物陰に連れ込んだ。




