9:歓迎のイノシシ
アッシュフォードのお屋敷は、大貴族の屋敷しか見てきていないアイシャにとってはかなりこぢんまりとした邸宅だった。
しかし正門をくぐった先にあるアーチや、その周辺の庭はよく手入れされており、大変美しかった。それこそ春になるのが待ち遠しく感じるほどに。
「ようこそおいでくださいました」
馬車を降りたアイシャを出迎えたのはオリーブブラウンの長い髪を後ろで一つにまとめた、笑顔が爽やかな青年だった。服装からしておそらくこの屋敷の執事だろう。テオドールと名乗った彼は、その珍しい深紅の瞳を細めてアイシャに歓迎の言葉を伝えた。
そして同じように彼の後ろにいる10名ほどのメイドやフットマンも、深々と頭を下げてアイシャを歓迎した、のだが……。
「……?」
若干、彼らの笑顔が引き攣っているようにも見えるのは気のせいだろうか。
(歓迎されていない?)
アイシャは一気に不安になった。
主人が望んでいない結婚だ。押し付けられるようにして嫁いできた女を使用人が受け入れられないのはよくある事。この屋敷で快適に過ごすためには彼らの心を掴む必要がある。アイシャは不安から小さくため息をこぼした。
すると主人の不安を感じ取ったのか、後ろで控えていたランがそっと手を握って無言のエールを送った。
ギュッと握られた手は少し冷たく、けれど唯一絶対の味方がいるという心強さをアイシャに与えた。
(……そうね、ラン。弱気になってはいけないわ。頑張ると決めたじゃない!)
アイシャはランの手を握り返し、決心したように顔を上げると、目の前の柔らかく微笑みかけた。
「本日よりお世話になります、アイシャ・ブランチェットです。まだまだ若輩者ですが、どうぞよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。我々使用人一同は奥様がお越しになられるのを首を長くして待っていたんですよ」
「私もこの地に来ることができて、とても嬉しいです」
「そう言っていただけるとは、光栄です」
「……あ、こちらは私についてきてくれた専属メイドのランです」
「よ、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いしますね。ランさん」
「……」
「……」
「……」
「えーっと……、今日は晴れて良かったですね?」
「そう、ですね……。ははっ……」
爽やかに挨拶を交わすも徐々に話題に詰まる。妙な沈黙がここにいる全員を気まずくさせた。
はてさて、どうすべきなのか。
結婚など初めてなので何が正解なのかはわからないが、多分流れ的にはこの後、騎士団に別れを告げてこのテオドールという男に邸宅内を案内してもらえるだろう。しかしアイシャにはその前に会わねばならない人物がいるはずで……。
アイシャはその気まずい沈黙の中、軽くあたりを見渡し、この場所にいるべきはずの人間を探した。
だが、いない。
出迎えられた時から薄々感じていた違和感はこのせいだったようだ。そしてテオドールの額に冷や汗が滲んでいるのも、おそらくそのせいだろう。
(これは言っても良いの?それとも言わないべきなの?)
これがアッシュフォード流の出迎えなのかとも考え、アイシャは助けを求めるように振り向いたが、背後に控える護衛の騎士たちは皆揃ってアイシャから視線を逸らした。
彼らの反応を見るに、やはりこの状況は普通ではないらしい。
「……あの、テオドールさん?」
「呼び捨てで構いません。ぜひ、テオとお呼びください」
「ええ、わかったわ。では、テオ。ひとつ聞いても良いかしら」
「……はい、なんでしょう」
「男爵様はどちらに?」
「……」
そう聞いた途端、テオドールの顔からサアッと血の気が引いた。
その反応はどう見ても、この場に彼がいないことがおかしいという事を示していた。
では、なぜこの場に彼がいないのか。急用、急病……、色々考えられなくもないが、おそらくは……。
(イアン・ダドリーは私を歓迎していない、ということかしら)
出迎えないということは、歓迎していないということ。この結婚に納得していないということ。
アイシャはそう考えた。そう考えるの一番が自然だからだ。
そもそもの話、イアン・ダドリーは貴族となってまだ二年。やらねばならないこと、学ばねばならないことが多すぎる彼はまだ妻を必要としていなかったはずだ。
それなのに突然、皇帝から側近の娘を押し付けられた上に、それが当初約束していた『帝国一の美女』ではなくその姉の地味な女と言われたら腹も立つだろう。
アイシャは仕方がないと思いつつも、少し寂しそうに目を細めた。
「あ、あの……」
「大丈夫よ、テオ」
「お、奥様?」
「わかっています。この結婚は色んな人の思惑が産んだ悲劇。男爵様もご納得されていないのでしょう?」
「え!?」
「しかし残念なことに、もう私が彼の妻となることを覆すことはできない。だから私はこれから少しずつでも、男爵様に認めていただけるように頑張るわ。私、頑張るのは得意なの」
「ち、ちが……」
アイシャはそう言って笑顔を作る。
彼女がとんでもない誤解をしていることに気がついたテオドールは訂正しようと大きく首を横に振った。
しかしその時、後ろに控えていた護衛たちが何故かザワザワとし始め、そして振り返る間もなく、突如として現れた大きな影がアイシャを呑み込んだ。
「……は?」
「え?」
テオドールはアイシャの後方を見上げ、口をあんぐりと開けて固まってしまった。
アイシャはキョトンとしながら振り返る。
獣のような形の影に獣の臭い。何だか嫌な予感しかしないが……。
「出迎えるつもりだったが、間に合わなかったか……。申し訳ない。アッシュフォードへようこそ、アイシャ嬢」
振り返ったアイシャの目の前にいたのは大きなイノシシの死体を担いだ、黒髪に金色の瞳の……、熊のような大男。
イノシシから滴る血が、彼の白いシャツを赤く染めていて、何というか、多分魔族ってこんな姿をしているのだろうなと思えた。
「……き」
「き?」
「き、き……、きゃああ!?」
「え!? あ、おい!!」
心が荒んでいようとも生粋のお嬢様。温室育ちのアイシャは、当然の如くこんなイノシシの死骸など見たこともないわけで……。
彼女はその場で気絶した。