32:マリアンヌの手紙(1)
見事に打ちのめされたダニエルはその場に崩れ落ち、気がつくと涙を流していた。
鼻水を垂らし無様に泣く姿に、アイシャや北部の貴族、彼の護衛騎士までもがドン引きだが、賭けに勝った者たちだけは静かにガッツポーズをした。
「アイシャ!何故だ!どうしてだよ!?」
「な、何がですか?」
「どうして私にこんな仕打ちができるのだ!」
「はい?」
「君は言ってくれたじゃないか!母親の血が卑しいから王にはなれないと陰口を叩かれていた私に、『あなたは立派な皇帝になれる』って!『あなたが努力していることを、私はちゃんと見てるよ』って!!『私はいつもあなたを想っている』って!!!」
アカデミー時代。まだマリアンヌと婚約する前のこと。
母親が身分の低いメイドであることを理由に陰口を叩く奴らのせいで柄にもなく凹んでいた時、アイシャはそう声をかけてくれた。
その時から、ダニエルは密かにアイシャを想っていたのに。
「その気がないのにそんな風に優しくするなよ!期待するだろうが!」
彼はそう吐き捨てた。
ずっと好きだったのなら何故違う女と婚約したのか、とか。
勝手に期待したのはそちらだろう、とか。
そもそも好きだろうが何だろうが、こんなことをして良い理由にはならんぞ、とか。
色々と反論が頭に浮かんでくるのだが、アイシャが紡ぎ出した言葉は皆が予想していなかったものだった。
「…………あの、多分ですけれど、それを言ったのは私ではありません」
「…………え?」
アイシャの思わぬ返しに、ダニエルは涙が引っ込んだ。
侯爵たちもランもリズベットも皆、目を丸くしてアイシャを見る。
「言っただろ?アカデミーに入学して割とすぐの頃だよ!君が東庭園のガゼボにいる私を見つけてくれたじゃないか!」
「え、ええ……、確かに見つけましたわ。その、マリアンヌ様が……」
「君もいただろう!そこに!」
「はい、おりました。おりましたけれど……しかし、私はそんなこと言っていませんが……?」
アイシャの記憶が正しければあの時、ダニエルに話しかけたのはマリアンヌだ。
マリアンヌは自分はいつだって殿下の味方だと言い、ありがとうと微笑みを返された彼女は確か、恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤に走り去ったはず。
そして残されたアイシャは余計なお世話とわかりつつもダニエルに、『マリアンヌ様はいつも殿下のことを想っていますよ』と言った。
「なので、殿下の勘違いではないかと……」
「…………そ、そうなのか?」
そう言われると、そんな気もしてきた。
ダニエルの顔は一気に青ざめる。
周囲は半眼で彼を見下ろした。まさかの勘違いでここまで大事にできるとは、ある意味で才能だろう。
「そうか、マリアンヌだったのか。私はとんだ勘違いを。はは……」
ダニエルは冷や汗が止まらない。どうすべきか。必死に回らない頭で考える。
派閥の貴族にはアイシャを連れて帰る予定であることは伝えているが、帰るまで動くなと言っているから大丈夫だ。
皇帝と教皇へは全て整えてから報告するつもりだったから、この話自体まだ伝わってないはず。
影からはジェラルドが教会や皇宮に近づいたという報告を受けていないし、ブランチェット伯爵家が押しかけてから今の今まで、男爵家の者が首都に向かったという報告も受けていない。
(……つまり、まだ首都にこの話は広まっていない!)
ならば後は、謝罪でもしてここを収め、急いで首都に帰ればいい。そう判断したダニエルは何ごともなかったのように立ち上がると深々と頭を下げた。
皇族がここまでするのだから、これで手打ちにしてくれるだろうと。
「アイシャ。すまなかった」
「……殿下」
「私の勘違いで迷惑をかけた。この通りだ。許してほしい」
「……あの、殿下」
「私はこれから今一度自分を見つめ直し、マリアンヌと共に精進しようと思う。だから、どうか見ていてくれないか?愚かな私が立派な皇帝になっていくところを、北部から見守っていてほしい!」
顔を上げ、キリッとした顔でこちらを見つめるダニエルに、アイシャはとても穏やかに微笑んだ。
その微笑みにダニエルは安堵の笑みを見せたが……。
「頭沸いてんのかよ」
珍しく口が悪い。アイシャはダニエルの謝罪を完全に拒絶した。
この男は先ほどのラホズ侯爵の話を聞いていなかったのだろうか。
彼は『後のことは皇帝次第だ』と言ったのだ。ダニエルの安っぽい謝罪で許してやれる範囲はとっくの昔に超えている。
あと普通に謝罪するなら土下座だろうとも思う。
「……アイシャ、君は北部に来て変わってしまったようだ。昔はもっと淑やかだったのに。すっかり野蛮になってしまって。嘆かわしい」
「平和ボケした南部から来ておいて何も変われないようなら、ここにいる資格はありませんわ」
「お父君も泣いておるぞ」
「笑ってますけれど。それはとても嬉しそうに」
アイシャはそう言って、晴れて義父となったエレノア子爵に視線を送った。子爵は終始嬉しそうにニコニコとしている。
「殿下のおっしゃるお父君とはブランチェット伯爵のことですか?その男とはもう縁を切りましたから、父ではありません」
「薄情だな。血の繋がった家族なのに」
「家族を規定するものは血のつながりだけではありませんもの」
「……チッ!」
何を言っても打ち返してくる。ダニエルは悔しそうに舌を鳴らした。
いよいよ収拾のつかなくなってきた場外乱闘。ダニエルが素直に首都に帰れば一旦は収まるのだが、彼はこの事態を皇帝の耳に入れたくないのか、引く気配がない。
短気なラホズ侯爵はもう殺してしまおうかとさえ考えていそうな顔をしているし、コルベール伯爵はアイシャの耳元で銃の打ち方をレクチャーし始めた。
「す、すこし落ち着きましょうか。みなさん」
アイシャはどうしたものかと振り返り、助けを求めるようにイアンを見た。
すると、そこには相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべる、久しぶりの彼がいた。
「テオ!おかえりなさい!いつ帰ってきたの?」
「ついさっきですよ、奥様」
「久しぶりじゃん!テオ!」
「ただいま、リズ」
「………」
「ランも、ただいま」
「遅いです」
「えぇ……。人間じゃあり得ない早さで行って帰って来たつもりなんですけど……」
三者三様の出迎えに苦笑しつつ、テオドールは皆に一歩下がるよう促すとダニエルの前に立った。
そして一通の手紙を両手で差し出した。
「誰だ、貴様」
「アッシュフォード家の執事、テオドールです。殿下へお渡してほしいと預かって参りました」
「手紙?」
「はい。殿下のご婚約者マリアンヌ様からの手紙です」
「なっ……!?あり得ない!!」
ダニエルは激しく動揺した。
男爵家の者が首都に向かったという報告は受けていないし、ジェラルドも教会には近づいていない。
状況的に、この男がマリアンヌからの手紙を持っているわけがないのだ。
ダニエルはテオドールが嘘をついていると怒りながら、彼から渡された手紙を確認した。
しかし、手紙の封蝋は間違いなくマリアンヌの家のものだった。




