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㐧5話 俺にカレーを喰わせろ

食事と云うものは不思議である。無論、喰わずにいればやがては餓死するは明白にあるがため大事なものであることは確かではあるが──それを、異常に神格化する者らのじつに多いこと多いこと。


やれ、「食物を漫然と口に運ぶな」だの、「食事は食餌ではない」だの、「食べ物に真摯に向き合え」などと、御大層が過ぎるのではないか? とも思われる言葉が、大義名分を得て巷を闊歩しているが実情にある。


それらの論拠には、「料理をつくった人への感謝の心を考えれば当然」というものがひとつの共通点として見られるが、そうであるならばそれ以前、食材をつくった人への感謝はもっと考えて欲しいものである。


なるほど料理人は努力の果てに常人を超えた技術を有しているが故に尊敬の念が抱かれるは当然にあるが、彼らとて食材なしには料理はできぬ。云うなれば加工者の立場にある。──その食材をつくる、牧場主や漁師や百姓ら生産者にも、もっと尊敬と感謝の念があってよいのではないか。


たとえば以前述べた、刺身にわさびをつけるだつけないだ、溶くだ溶かないだの話であるが、本職の漁師は刺身にマヨネーズをつけて食す。──生命を賭けて漁に出る人たちなのであるから、これは大正義である。


同様のことは他にも云える。たとえば珈琲である。「珈琲たるもの無糖にて飲むこそが流儀」などと通ぶった者は云い、砂糖や牛乳を入れて飲むを莫迦にする傾向がみられるが、珈琲の原料たる珈琲豆、その産地にては砂糖をこれ以上溶けぬほど入れ、真っ白になるほど牛乳を注いで飲むのであるから、これはもうなんとやら。


『通』の云うことなど、無視するが作法なのではないか。


産地と申せば、咖喱(カレー)について。やれ、飯を咖喱と混ぜて喰うなやら、やれ、飯は匙の背中に乗せて喰えやらと、そうしたことがやたら語られておるが、そもそもが咖喱の産地は印度であり、そこでは素手にて飯と混ぜて喰うが通常のこと。──さらに云うと、飯よりもむしろナンやらチャパティやら、パンの仲間と混ぜて喰うが常である。カレーパン大正義!


さてこう云うと、莫迦はこう反論する。「本邦に伝わったは英国流の咖喱。英国式作法に則り、飯を混ぜぬが本式」と。


反論のようで、じつのところ反論でもなんでもない。詭弁に他ならぬ。英国流などと云うが、そうならばそもそもが印度の流儀にその時点で反している。そのようなものをありがたがるとは何事か。貴様は印度を莫迦にしているのか。サーベルの柄でしばき上げ、ターバンを首に巻いた上でコブラクローで絞め上げられても文句は云えぬぞ! ヨガの奥義、バラモンの裁きを受けよ!


このように、咖喱を飯に入れるということがそもそも本流より逸れているのである。咖喱にうどんを入れて混ぜようが、そばを入れて混ぜようが、喰う者の勝手なのである。グロゥゥゥゥバルルゥゥゥゥ! この世界各地にそれぞれの料理が広がり、各地で独自の進化を遂げて幾久しい昨今、そうした舶来料理の食し方に云々文句をつけるそれ自体が時代錯誤も甚だしい。時代についていけてない原始人は洞穴に壁画でも描いてなさい。


それにしても咖喱そばのうまいことよ。ぢゅるぢゅると汁を飛ばしながらすするが最高である。──ん? なんだあ? 咖喱を入れるとそばの香りが飛ぶ? そばは香りを楽しむもの、だあ?──そんなに香りが好きなら、そばの葉っぱでも生で喰ってろ!



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