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誰も知らない

作者: 安納もい


 最近、よく物がなくなるんだ。他愛のない会話の中、不意に秋川がそんなことを言った。ファミレスで、追加の注文でもしようかとメニューを広げながら何気ない口調で言うので、夏目もさして気には留めず、ふうん、と生返事をしただけだった。ティラミスでも食べようか、そんなことを考えていた。

「なくなるんじゃなくて、おまえがだらしのないだけだろ?」

 秋川の言い方ではまるで、誰かのせいで物がなくなっているように聞こえる。だが、彼の部屋がお世辞にも綺麗に片付いていると言えないことを、夏目は知っている。

 どう考えても悪いのは秋川だろう。

「それとも、誰かに盗まれたのか?」

「うーん、いや、どうだろう。そう言うのとは違うんだけど」

 歯切れの悪い物言いをする。メニューに視線を落としていた秋川が、ふっと顔を上げた。

「おまえは大丈夫?」

 大丈夫、とはなんのことか。夏目が怪訝な表情をしてみせると、秋川は曖昧に笑って、「なんでもねえや」と言った。

「俺、この季節限定パンプキンパフェにしよっと。夏目は? 決まった?」

「ティラミスにする」

 頷くと、秋川は「じゃあ」と呼び出しボタンを押した。ピンコーンと、どこか気の抜ける音が鳴る。

「限定って書かれると弱いんだよなあ」

「新商品とか書いてあると、おまえは手を出さずにはいられないもんな」

 子どもの頃からの長い付き合いになる親友は、頭が良いわりにはどこか単純なところがある。流行に流されやすく衝動買いしがちの秋川は、だからよく給料日前になると「今月マジでピンチだわ……」と嘆いていた。何度たしなめても治らない悪癖だ。まあ、パフェくらいなら可愛いものだと夏目は肩を竦める。

「やっぱ甘い物はやめらんねえな」

「それより秋川」

 おまえ、さっき何を言いかけたんだ? そう訊ねるよりも先に、若い女性店員が注文を取りに来た。――お待たせしました、ご注文をどうぞ。

 なんとなく出鼻を挫かれた気分になって、「まあ、いいか」と夏目は言葉を飲み込んだ。


 最初は、その程度のことだった。





 家にやって来た秋川の顔を見て、夏目はぽかんと口を開けたまま、「え?」と失笑した。

「……笑うなよ」

 絆創膏の目立つ頬を撫でながら、秋川が仏頂面をする。

「どうした、髭剃りに失敗したか?」

 まさかと思って訊ねたがどうやら図星だったらしく、不機嫌に眉をひそめた親友の表情に夏目は苦笑した。カミソリを持ち始めたばかりの十代の少年でもあるまいに。顔の傷に気を取られていたが、寝癖もひどい。もともと好き勝手に跳ねているような髪型ではあるが、今日は一段と自由だ。

「その格好でここまで来たのか」

 身だしなみには気を配っている秋川にしては珍しい。部屋にあげてやりながら、夏目は首を傾げた。

「鏡が使えなかったんだ」

「は? 割れたのか?」

「いや、割れてねえよ」

 じゃあなんだって言うんだ。呆れる夏目へ、秋川は手に提げていたコンビニ袋を突き出す。中にはコーラの2リットルペットボトルと缶ビールが数本、それにスナック菓子がいくつか入っていた。

 どれもこれも、秋川の好物ばかりだ。

「おみやげ」

「……そいつはどうも」

 キャラメル味のポップコーンを夏目はあまり好まないし、コンソメパンチよりもうすしお派だが、そんなことを秋川は気に留めない。ソファにどっかりと腰を下ろして、すっかり自分の家のようにくつろいでいる。

「おまえな、せめてその頭はどうにかしろよ」

「じゃあ鏡貸して」

 置き鏡を手渡してやると、鏡を覗き込んだ秋川が「ああ、こりゃひでえな」と他人事のように呟いた。それから、少し奇妙なことをした。鏡の中の自分へ向けて手を振ったり、笑って見せたりしたのだ。何をしているのかと訊けば、彼は鏡像の自分と目を合わせたまま、「反応が見たくて」と言った。

「馬鹿な事言うなよ」

 虚像に対して反応も何もないだろう。夏目が軽く息を吐くと、秋川はくるりと振り返って、「やっぱり、そうなのかな?」と微妙な笑い方をした。

 そのとき、夏目の視線は秋川でなく鏡の方を向いていた。

 鏡の中、こちらを見つめる双眸と視線がかち合う。

 大きな目を瞬いて、好奇心のうねる黒いひとみで夏目を興味深そうに見つめている。

 いや、ありえない。――夏目が冷静にまばたきをすると、そこには秋川の側頭部が映っていた。当たり前のことだ。

 鏡の中の人物が、実像と別の動きをするなんてあるはずない。

「馬鹿なことやってないで、さっさと整えちまえ」

 整髪剤とコームをソファへ投げると、秋川は「はーい」と子どもみたいな返事をして鏡に向き直った。

 コーラをグラスへ注ぎながら、夏目は、今しがた自分の見たものについてあまり深く考えないことにした。





「夏目、これサンキュー」

 秋川に手渡されたのは、ずいぶんと前に貸していた小説だった。以前、秋川と観に行った映画の原作になった小説で、観賞後に彼が「読みたい」と言うから貸していたのだが、すっかり忘れていた。

「そう言えば貸してたな」

 受け取ったそれを何気なくパラパラとめくってみて、夏目は手を止めた。

 廉価版の単行本は、ハードカバーに比べると決して上等な作りとは言えない。どれだけ丁寧に扱っても、読めばそれなりに使用感は出てくるし、薄っぺらいページには多少の痕が残る。だが、今夏目が手にしている本には、それらがまったくなかった。新品同様、あるいはまるっきり新品である。

「……実は、失くなっちまって」

 手を止めた夏目から問われるよりも先に、秋川が素直に白状した。

「わざわざ買ったのか」

 失くしたのならそれはそれで構わなかったのだが、それを言っても秋川の気は済まないだろう。他人から借りたものを失くすなんて最低だよな、と落ち込んでいる彼に「気にするな」と声をかける。特別な思い入れのある本でもなし、夏目自身が貸したことを失念していたくらいなのだから、その程度の価値なのだ。

「おまえに返さなきゃと思ってテーブルに出しておいたんだけど……」

 きゅっと眉を寄せてくちびるを軽く噛む。分かりやすく不快感を顕わにした秋川に、夏目は少し驚いた。彼の表情は、失せ物をした自分自身への憤りではないように、夏目には思えた。ここにはいない、第三者に向けて臍を噛んでいる顔だ。

 近頃、よく物がなくなると言っていたのを思い出し、さすがに心配になる。やはり盗まれているのではないだろうか? それも、ただの空き巣よりずっと性質の悪い、ストーカーのような輩に。

「そんなんじゃねえよ」

 夏目の不安はまるで的外れだと言うように手を掻いて、秋川は苦笑した。それでも得心のいかない顔をする夏目へ、どうしたものかとおとがいを撫でて思案する。目を側めたまま、「おまえに伝わるかどうかわかんねえけど」と前置きをして、テーブルの上に乗った紙切れを指差して秋川は言った。

「たとえばあのコンビニのレシート、あれを俺が取ろうとするだろう? そうすると、それはもう俺の手にはないんだ」

 お湯は熱い、氷は冷たい。そんな当たり前のことを説く調子のまま、彼はレシートを指差していた手を、すっと下へ向けた。

「あのレシートは浮かんで、それからちょっと沈む。俺はそれを取れない。レシートは、そのままテーブルに沈んで消える。だから、もうそれは最初から『なかった』ものになるんだけど、……うん、はじめからなかったものが『消える』ってのも変な話だよな」

 小鳥のように左右へ小さく首を傾げながら、「でも、それ以外に言いようがないんだ」と秋川はくちびるを窄めた。いとけない子どもが、頭の堅い大人に向かって話すような口ぶりなのに、言葉にたどたどしさを感じられないのが逆に不気味だった。

 どれだけ秋川が噛み砕いて伝えようとしても、夏目にそれを理解することは出来ない。

 沈む。浮かぶ。消える。――彼は、なにを言っているのだろうか?

 秋川の目は正気の色を保っている。彼にとっては当然の話をしているのだから、それはそうだろう。だが、夏目にとっては異常でしかない。

 ふと、視線を感じて夏目は振り返った。背後には姿見がある。そこには夏目と秋川のふたりが映っていた。鏡像の秋川と目が合う。今、秋川は正面を見つめているのだから当たり前だ。それなのに、ひどく落ち着かない。深く息を吸い込むと、肺に押された肋骨が嫌な音を立てて小さく軋んだ気がした。

 秋川ではない、違う誰かに見つめられているような視線に、全身からどっと脂汗が滲む。

「……消えたものはどこに行くんだと思う?」

 鏡の中、頬杖をついた秋川が夏目へ訊ねる。その目線がゆっくりと落ちていく。向き直ると、彼はつるりとしたテーブルの表面を指先で撫でていた。

「失くなったものを探しても、どこにもねえんだ。不思議だよな。テーブルの裏とか、ベッドの下とかさ、思いつくところは全部探したんだけど」

 失くなったものの中には、失くなってほしくないものもあったのに。でもだめなんだ。いちど沈んだら、もうあきらめるしかない。それは「消えて」しまう。だから、ごめんな。――訥々と話す秋川に寒気を覚えて夏目は椅子を引いた。ガタン、と思いがけずに大きな音が響く。そこで秋川は夏目を見た。いつも通りの目だった。

 いつも通りだから、それが異常だと言うのだ。

 夏目の表情にサッと怯えが走ったのを秋川は見過ごさず、「大丈夫だよ」と静かに微笑んだ。なにが――自分の不安を秋川がどう捉えたかなど、夏目にはもはやどうでもいいことだった。

「今のところ、生きているものは沈まない」

 大丈夫、大丈夫。少し疲れた笑みを浮かべたまま同じ言葉を繰り返す秋川は、自分自身へ言い聞かせているようにしか見えなかった。




 おまえは少し、いいや、だいぶ疲れているんだ。しばらくは、ゆっくり休まないといけない。無責任かもしれないが、夏目に言える言葉など限られていた。秋川の肩を撫で、ものが沈んで消えるなんてことはありえないのだと説いて、必要であれば――必要であるとしか思えないのだが――精神科の受診を勧めることくらいしか出来なかった。秋川は怒っていただろうか。頷いたのか、首を振ったのか、それともただうつむいていただけだったのか。そんなことも夏目は覚えていない。

 親友だと思っていた男が、突然見知らぬ者に見えた。鏡の中のあの目を思い出す。心臓を針で突き刺されたように冷や汗が出て、全身が硬直した。

 秋川の部屋を出た後、夏目は自分がどんなふうに帰宅したのか記憶にない。気付けば頭からシャワーを浴びていた。熱いお湯をかぶっているはずなのに身体の震えは治まらず、眼球に棲みついた虚像の秋川は夏目をずっと見つめている。振り払えない残像に鳥肌が立つ。

 ――いつか、俺も消えるのかもしれない。

 部屋を出ようとした夏目の背後で秋川が確かにそう呟いたのを聞いたのに、精気のないその声に、どうしても夏目は振り返れなかった。

「……生きているものは消えないんだろう?」

 おまえが言ったんじゃあないか。いっそ冗談にしてしまおうと笑いたかったが、それは上手くいかなかった。鼻で笑うような、感じの悪いものになってしまった。

 ドアを閉める直前、そうだな、と答えた秋川はどんな気持ちだったのだろうか。




***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:Re

2015年10月27日 13:44


夏目

俺は、ものにはそれぞれ役割があるのだと思う

コップにはコップの、ハサミにはハサミの、鏡には鏡の

鏡の中には俺役のひとがいて、そのひとはときどき、俺の思う通りには動いてくれない

たとえばそれは、電源を落としたテレビや、窓ガラスや、グラスに注いだ水の表面だったりもする


そこに、ときどき俺は映らない

俺役のひとがいないからだ

だから出かけるときなんかは、たまにとても不便な思いをする

でも、それは仕方のないことだ。文句は言えないから俺はがまんするしかない

鏡を見ると引っ張られる

そこに自分が映らないとゆううつだから、あまり見たくない


***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:Re

2015年10月28日 15:04


もしかしたら本当は存在しなくて

俺役のひとが俺なんじゃないかと思うことがある


だけど、それじゃあ、こうして文字を打っている俺はなんだろう


***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:Re

一昨日 23:14


沈んだ


***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:Re

昨日 21:36


すこし分かった気がする


***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:Re

今日 19:53


 ◇添付ファイルあり

 (※写真は判別不能)


***


差出人:秋川 勇士

宛先:夏目 郁

件名:なにこれ

今日 20:01


すげえ気持ち悪い


***



 ハロウィンが終わった途端、街やメディアは手のひらを返したようにクリスマス一色に染まり出した。窓から見える景色にはもう、ハロウィンの残骸すら見当たらない。コーヒーショップの白いマグカップを傾けながら、夏目はテーブルに置かれた新商品の広告に目を落とした。「冬季限定」と銘打たれたそれは、いかにも甘そうなホワイトショコラ・ラテだ。甘いものは嫌いではないが、エスプレッソを好む夏目の嗜好には合わない。

「悪い、待たせた」

 マグカップをテーブルに置いたとき、向かいの席に秋川が滑り込んできた。少し息を切らしていて、頬が赤い。走ってきたのかと問うと、少しだけな、と笑う。

「今日は寒いな」

「ああ」

 マフラーをほどきながら秋川はカウンターを伺う。それほど混雑していない様子を確認して席を立つと、ほどなくして夏目と同じ白いマグカップを持って戻ってきた。温かな湯気の立つそれをひとくち飲んで、はあ、と深い息を吐く。

「生き返る」

「おおげさな」

「チケット買ったんだっけ?」

「ああ」

 約束していたレイトショーのチケットを取り出して一枚渡す。サンキュー、と受け取った秋川がチケット代をテーブルへ置いた。

「夏目、飯は?」

「いや、まだ」

 秋川は腕時計を見た。上映時間まで一時間ほど余裕があるのを確認すると、

「じゃあ、映画の前に軽く食いに行こうぜ。俺、すっげえ腹減ってんの」

 胃の辺りを押さえてくちびるを尖らせる秋川に、夏目も口の端を緩めた。そしてテーブルへ置かれた彼のマグカップへ視線を移す。琥珀色のコーヒーからのぼる湯気の影は、冷め始めてほんのり薄くなっていた。

「腹が減ったなら、ここで何か食ったらどうだ?」

「ああ、だめだめ」

 ふて腐れた顔をして、秋川は首を振った。

「そう思って、さっきショーケース覗いてみたんだけど、ドーナツとかケーキしかねえの」

「だめなのか?」

「だめだよ」

「そうか」

 だけどおまえ、甘いものは好きだろう? 込み上げてきたその言葉を、夏目は奥歯で噛み潰した。視界の隅っこで、例の「季節限定」の文字が躍っている。――ホワイトショコラ・ラテ。

「行こうぜ」

 マフラーを巻き直し、コートと鞄を手にした秋川が立ち上がる。夏目と秋川、ふたり分のマグカップを手に返却口へ歩いていく彼の背中を目で追いながら、夏目は不意に背後からの視線を感じた。

 振り返ると、夜の街を切り取った窓ガラスに店内の様子が反射して映っているのが見えた。誰も彼も自分たちのことに夢中で、夏目のことなど見てはいない。口々に好き勝手なことを話す声は折り重なり、雑音となって周囲をうごめいている。

 返却口に立つ秋川が、ゆっくりと首だけを動かして夏目を見た。不鮮明な虚像、窓ガラスに映る秋川とはっきり目を合わせながら、夏目は初めて決定的な喪失感を覚えた。


 送られてきた最後の写真は手振れがひどく、何を写したものかまったく分からなかった。暗闇の中、青白い光の筋のようなものだけがぼんやりと映っていたが、秋川が何を撮りたかったのか、夏目へ何を伝えたかったのか、それは最後まで謎のままとなった。


 本人へ訊きたくても、彼はもう「いない」のだから。



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