近くの君がこんなにも遠い
Side エドワード
エミリアと兄が結婚して半年も経っていない。考えたくもないが、エミリアは兄のモノになっているのだろう、身も心も。思い出したように自分の執務室に向かった。窓から見えるのは煌煌と輝く満月。どさっと執務用の椅子に腰かけ、ボーッと天井を見つめる。
エミリア・マリア・キャンベル。
キャンベル侯爵家の三女で、キャンベル侯爵家は私がかつて静養した領だった。キャンベル侯爵夫妻も、その子供たちも、皆私を暖かく迎えてくれた。
家族というものをその時に知った。
そして誰よりも惹かれたのが三女のエミリア。
どちらかというと物静かで、私よりも二歳年下とは思えないほど聡明で、だけれども自分に自信がない、そんな印象だった。まあ、比べるのは悪いと思うが、エミリアの姉二人は両親の良い所取りをした社交界の花だった。私にとっては特別綺麗に見えているが、エミリアからすれば、自信も無くなるだろう。
あの時折、見せてくれるあの笑顔に自分の心は決まっていた。
「後悔してばかりだ。」
目を瞑ればまだ鮮明に覚えている。赤が少し混ざったサラサラの茶色い髪。エメラルドグリーンの瞳。遠くを見るような儚げな視線をしていた彼女を何度も見た。
その時に抱きしめて、自分のものにしてしまえば良かった。
“チリチリーン”
もはや聞くことのないと思っていた音が聞こえた。父の離れに父が来たとき、頻繁に聞いていた音だった。父の弟、つまり叔父から受け継いだこの屋敷の執務室には大きな秘密があった。窓のカーテンを降ろし、そして本棚のある本を取り出す。するとその本棚は消え去り、そして道が開かれる。本を持ったまま道に入れば、外は元通りになる。
「要らぬ来客か?」
真っ先の思ったのは動物でも入ったのかと思った。父の憩いの場所であった離れを誰かに汚されたくはない。その思い故か、速足で道を進んだ。離れへの入り口は鏡になっている。鏡はこちらからは様子をのぞけるが、向こうからこちらの様子は望めない。まあ、王城が占拠されたときに使うための隠し通路の一つで、この場所を知るのはもう、私以外いなくなった。兄王にも伝えるつもりはない。
『ああああああああ!』
急に響いた絶叫。それが女の声であるとすぐに分かった。なるべく物音を立てないように、鏡の前に立てば、床に崩れ落ちて、ドレスを握りしめながらポロ、ポロと涙を流す女性。
「エミリア、嬢?」
思わずつぶやいてしまった名前。父の離れに明かりは灯っておらず、満月に光だけで彼女の女神の如き姿が映し出されていた。声の主を探そうとしているのか、彼女はキョロキョロと周りを見回すが、その姿を見つけられずに困ったような表情を浮かべた。
『私を知っているのですか?というか、貴方は誰ですか?』
迷ったように彼女はそう尋ねた。できるならばここで正体を明かしてしまおうか?とも思った。だけれも、それをしたら彼女は何故泣いているのか、話してくれないような気がした。
「君の事は幼い頃から知っているよ。エミリア嬢。いや、今は王妃様だね。あと私は言うなれば、先王の話し相手だった『魔法の鏡』だよ。先王の悩みもたくさん聞いた。」
冗談のようにそう言った。魔法の鏡、と言っていたのは父だが、その言葉をそのまま借りることにした。
「王妃様の涙の理由を聞いてもいいかな?」
君の涙は何が原因は何だ?と渦巻く気持ちを抑えながら、優しく問いかける。しかし彼女は寂しそうな、涙をこらえるような表情を浮かべた。
「王妃なんて呼ばなくてもいいわ、エミリアで。……王妃なんてお飾りで、何の力もないの。助けてあげたいのに何にもできない。」
絶望が含まれたその言葉に市中で聞いた言葉を思い出した。年端も行かない少女たちが二日ほど急に消える。帰ってきた少女たちは暗い顔をして、その両親たちも暗い顔になる。そしてその家族は暮らしが安定するので、王に遊ばれて捨てられているのではない?と酒の肴に話している。
「……市中の噂は本当なのかい?」
『市中の噂?』
言葉の返し方からすると、彼女はソレを知らないようだった。
「王が少女を攫っているという噂だ。」
私が聞いた話を簡潔に伝えれば、彼女は小さくため息を吐いた。どう言葉を返せばいいのか分からないようだった。
『……そんな噂が市中に流れているの?』
やっとの思いで彼女が返答した。無意識だろうが自分を守るように身体を抱きしめていた。抱きしめたら折れてしまいそうな身体に相当な、無体を働かれているのだろう。
「エミリアはオーウェン王国の事をどう思う?」
彼女にこれ以上の事を言わせるのは私が嫌だった。だから思い出したように声を掛けたのは隣国のことだった。オーウェン王国の国王とは幼い頃に何度か交流があり、国王とその弟はとても仲が良いことでも有名だった。
『……民を宝と思う、素晴らしき国です。』
「偉くかっているな。」
『事実でございましょう?我が国にはもはや帝国に攻められたら一溜まりもないでしょう。ですが、道があるとすれば、オーウェン王国との同盟による共同戦線……。我が王の行動を知った賢王と名高いアレックス王が我が国を助けるとは……思えないのです。』
彼女の言葉に、確かにそうだと思わされた。そして、今のままでは確かにオーウェン王国からの援軍は望めないだろう。だとすれば、王弟たる自分ができることが見えてくる。
「やっぱり貴女は良く見えている。エミリア、安心しておくれ。何があっても私は君を守るから。」
どうしても彼女を守りたいと思った感情が言葉にも乗せられた。力のない王弟では彼女を守れないのだと、心に刻んだ。