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世界で一番相性の悪い人  作者: 史音
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初めてのお給料

「あ、美波ちゃん。お給料振り込んだの、確認した?」

社長にそう言われたのは、月末の昼ごはんの時だった。

初めてのお給料の事を言っているのだとわかって、じわりと嬉しさが込み上げてきた。


自分で働いてもらう初めてのお給料。何もできてないけど、やっぱり働いてお金をもらえるって、なんだか特別だ。

「まだ確認してないです」

答えたその顔が自然に緩んでしまっていた。社長がいい顔するねえと言った。

「初めてのお給料って、やっぱり違うよね」

「はい」

私と社長が話していると

「お、嬉しそうな顔してる」

本田さんが指摘するから、私は思わず笑顔で返す。

「やっぱり嬉しいですね」

私の反応に社長も釣られたように笑顔になる。

「初めてのお給料はどうするの?」

「まだ、決めてないですけど…親と食事、とかですかね」

「あ、やっぱり。俺もそうだったな」

本田さんが頷いて、そうですよね、と私も笑顔になった。


「楓は?どうした?」

本田さんの声に野上楓は顔を上げた。

「僕は、買い物しました」

そのきっぱりした返事に、みんなが驚いた。

「え?もう?」

「なに?何買ったの?」

「楓くんが買うって、なんか気になるね」

みんなの質問を、野上楓は表情ひとつ変えずに聞いていた。

「必要なモノを買いました」

その答えに、みんなが顔を見合わせた。

「楓の初仕事の分を考えたら、いいもの買えるな」

そう社長が指摘した。


野上楓の初仕事は、社長から高い評価を得た。社長が全く手直しなしでO Kを出して、手放しで褒めることは珍しいと涼子さんが言っていた。


彼は初めての仕事で最高の評価を得たのだった。

才能だけでなくて、才能と努力で。

努力する天才って、もう無敵だと思う。


その仕事の分も、野上楓のお給料に入っているようだった。

初めてのお給料、特に初めての作品でもらったのだからやっぱり違うだろう。

逆に言うとそんな特別なお給料で何を買ったのかと、みんなが気にしている。

野上楓は気にせず食事をしている。


今日のメニューは豚の生姜焼きともやしのナムルと小松菜と豆腐のお味噌汁で、それをみんなでキッチンの大きな丸いテーブルを囲んで食べるのは、家族みたいで楽しい。

そのうちに座る場所もなんとなく決まってくる。

社長の隣は涼子さんと本田さん。私の隣には野上楓。

隣に居られると、落ち着かない。だからできれば他に行って欲しい。そんな気持ちが伝わるはずもなく、野上楓はいつも私の隣にやってきた。


彼にとってはそこが指定席だというように。

頑固にそこに座り続けたせいで、本当にそこは彼の指定席になった。



食べ終わって皆んなが仕事に戻り、私はコーヒーを淹れて配る。

みんながいなくなってキッチンで洗い物をしようとしたら、後ろから声がかかった。

「藤沢さん」

振り返ったら、そこにいたのは野上楓だった。


私は水道を止めて、体の向きを変える。

「何?」

野上楓は体の後ろから、小さな白い紙袋を出した。それを無言で私に差し出す。

「どうしたの?これ?」

彼は無口だし、いつも言葉が足りない。

訝しげな私に、野上楓はようやく口を開いた。

「この間のお礼」

「この間?お礼?」

「うどん…」

「え?」

「うどんと、お昼ご飯」

相変わらず単語ばかりの会話だけど、言われて思い出した。

別にお礼を言われるほどでもない。お昼だってみんなのためだ。

「そんなお礼してもらうことでもないよ」

「でも、嬉しかったから」

そう言って、一歩近づいて私の胸にその紙袋を押し付けてきた。

「でも……」

「開けてみて」

私はその紙袋を開ける。中には真っ白い箱が入っていて、その中身はマグカップだった。


「これ…」

私がそれを手に取ると、野上楓は私から目を逸らせた。その目元が赤い。

「藤沢さん、いつも事務所の使っているから」


この事務所ではお茶やコーヒーを飲むのに、みんな自分用のマグカップを使っている。自分で使いたいものを持ってきているのだ。だけど、私は以前から事務所にあったカップを使っている。商店街のパン屋でもらった味気のないものだ。


だけどそれは野上楓だって同じだ。事務所にあったものを適当に使っている。

まずは自分の物を買うのが先なんじゃないだろうか。

「え、いいよ。そんな、野上くんが使いなよ」

「その色は僕には……」

もらったそれは淡いピンク色で、男の人が使うには微妙な色かもしれない。

「え、でも…」


そのマグカップは作りもしっかりしていて、色合いもよかった。ちゃんとした焼き物で、とても100円ショップで買ったようなものではない。


予感だけど、とても高いのではないか。

もしかして、さっき言ってた『初めてのお給料で買ったもの』って……。


私は恐る恐る顔をあげる。

「使ってくれる?」

黙ったままの私を、野上楓は私を覗き込んできた。


その黒い瞳で見られると、私はいつも反射的に頷いてしまう。

「うん……」

私の返事に、野上楓は安心したように笑った。

「よかった」

とても嬉しそうな顔をする。

あまりにも嬉しそうに笑うから、その顔を直視できない。

ただ笑顔を返せばいいだけなのかもしれないけど、それが私にはとても難しい。


こういう性格なのか、この人が相手だからなのかわからない。

どこかでブレーキがかかってしまう。


「あ、ありがとう」


勇気を振り絞ったお礼は、小さい声だったけど、ちゃんと届いたみたいだった。

野上楓はそれを聞いて、キッチンを出て行った。入れ替わりに涼子さんが入ってきて、私の腕の中のマグカップを見つけた。

「あら、どうしたの、それ?」

私は困りながら、それをテーブルに置いた。

「野上くんが、この間のお礼って」

「楓くんが?へえ、意外ね」

そんなことしそうもないのにね、と言って笑った。


私が中断していた片付けを再開しようとした時、テーブルに置いたそれを涼子さんがじっとみていた。

「可愛い色ね」

「え?」

涼子さんはそれを見ながら、数回頷いた。

「楓くんにとって美波ちゃんのイメージはこの色なのね」

そして私とマグカップを見て似合うわね、と笑って、

「大事に使わないとね」

そう言い残して出て行った。


私は机の上のマグカップを見つめる。


淡い綺麗なピンク色は濁りのない、澄んだ色だった。

淡い色なのに、主役にもなれるようなとても華やかな色。


本当の私は地味で華やかさもない。

心の中にはたくさんの感情がある。こんなに澄んではいない。もっと濁っている。

野上楓に対しては、ぐちゃぐちゃになった感情を抱いている。


私は黙って机の上のマグカップを眺める。

そのマグカップは文句なく可愛いと思う。お店でこれをみたら、私はきっと欲しいと強く思ったと思う。


だけど私の好みど真ん中のものを、野上楓がくれたことに戸惑っている。



それを見ていたら、今度こそ、どうしていいかわからなくなってしまった。




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